第4話昔の話し
昔の話し
茫然自失という言葉を使うなら、その姿が一番正しい様なリアクションで、龍也は私の顔を見つめ返した。
「お前…よしかずなのか?」
言った龍也の声に、怯えのニュアンスが含まれている。
私はかき上げた額の髪をそのままに、静かに頷いてみせた。
そして私は、龍也の手を取り右手の人差し指の指先で、私の額に一文字を描く様にゆっくりと横へ滑らせた。
昔、そこに傷が有ったであろう証の、縦に刻まれた
ファンデーションを薄く塗るだけで、今はもうそこに傷が有ったことさえ分からない。
「こうやってゆっくり触らないと、もう誰も分からないんだよ…龍也さん」
私は泣き顔に貼り付けた、満面の笑みで龍也に語りかけた。
「おぅ、おー、そうだな…分から無ぇよ…全然分から無ぇ。つうか、お前本当によしかずなのか?本物か?」
今度は龍也が取り乱す番だ。
私は掴んでいた龍也の右手にもう一方の手を添え、包み込む様にしてから「そうよ…」と一言だけ呟いた。
龍也はその手を振り解こうともせず、深く長いため息を吐き出した。
そして…。
「会いたかったよ…ずっと心配してたんだ」
と言った。
その一言で、私の涙腺は完全に崩壊だ。
初めに気がついたのはマネージャーだ。
一部のお客さんも気がついていた様だ。
頬に切り傷のあるヤクザ風の男が、お店のキャストをいじめている様に見えたのだろう。
陽気な酔客の笑い声がざわめきに変わりそうな頃、マネージャーがボックスにかけ寄り「何か失礼がありましたか?」と龍也に聞いた。
「大丈夫だ。揉めてるわけじゃ無ぇんだよ」
穏やかに答える龍也…。
私はマネージャーの顔を見つめ「その通りです」と言う意思を込め、声もなくただ力強く何度も頷いて見せた。
一旦はその場を離れたマネージャーだったが、私の涙があまりにも激しく流れていたのか、泉ママを連れ再びボックスに現れた。
ママは私の横に座ると、すかさず私の頭を抱きしめ「どうしたの?何か怖い思いでもしたの?」と優しく聞いた。
私は泣きじゃくりながら、泉ママの優しさの中で身体を震わせていた。
「弟なんです」
龍也の答えが、私の身体に更なる力を加えさせた。
「あらまっ!」
私の頭を抱いていた泉ママが、その手を私の肩に置き直し、私の顔を覗き込んだ。
そして完璧な男の声で言った。
「よしかず、本当なの?」
それがニューハーフ特有のジョークなのか…それとも泉ママの素の姿なのかは分からないが、笑えるはずの場面を私も龍也も逃してしまった。
ただ驚いた顔で私と龍也は泉ママの顔を凝視していた。
「こんな時はアハハって笑うのよ」
泉ママは、そう言って私と龍也の頭を平手で叩いた。
その声はいつもの様に、カナリヤの様な透き通った声に戻っていた。
「他のお客さんが気にするわ、こっちにいらっしゃい」
そう言って手を引かれ、連れて行かれたのは親分の居るVIPルームだ。
親分は私の泣き顔を見るなり「まったく」と唾でも吐きそうな嫌悪感で龍也から顔を逸らせた。
「親分、素敵なお知らせよ」
泉ママは私と龍也を親分と対面するソファーに座らせ、我が事のような喜びを言葉に乗せた。
憮然としていた親分の顔に「おやっ?」と言う疑問符が一つ浮かんだ。
「お嬢がえらい勢いで泣いてるじゃないか」
親分の疑問が当然なほど、私の涙は私の意思に逆い、溢れ出すばかりだ。
龍也自信、居心地の悪さを身体全体で表している。
太月姐さんの目にも、私が虐められて泣いているようにしか映っていないだろう。
「よしかず、弟さんなんだってよ」
泉ママがやけにはしゃいだ声で言った。
親分と太月姐さんが、アングリと口を開けて私と龍也を見た。
「
ひどく真面目な声で親分が聞いた。
「いえ、ガキの頃チームにいた時の一番の舎弟分です」
龍也が答えた。
『一番の舎弟分』
龍也が言った言葉が、私の涙を更に増幅させた。
龍也に憧れ続けた青春時代…。
打ち明けたくても打ち明けられない、私の心の中に巣食う障害と名のつく病気。
いくらWHOがトランスジェンダーを精神疾患から除外したとはいえ、この国の中では今もまだ差別の対象だ。
そんな私が、口が裂けても龍也を好きだなんて、誰にも言えるはずがなかった。
その龍也からたった今『一番の舎弟分』と言う言葉を聞いた。
その一言で、あの頃の私の想いや悲しみが全て報われた気がした。
「このお嬢が暴走族かい?」
「レーシングチームです。それも伝統的な」
親分の問いかけに龍也が答えようとした時、間髪入れずに私が答えた。
横を見た。
自分が「よしかず」である事を打ち明けてから、初めて龍也と視線が絡み合った。
龍也が力強く頷いてくれた。
私の涙が、泣き笑いに変わっていく…。
『ああ、私はやっぱり今も龍也を愛している』
その思いが確信となった。
「なんだい、このお嬢の名前は
「みわちゃんに決まってるじゃないですか。美和って字は私が付けてあげた当て字ですよ。あ、て、じ」
泉ママがまるで滝川クリステルが「お、も、て、な、し」と言った時のように、手のひらで言葉を切り刻むように親分に説明した。
その言葉で、緊張していた場の空気がいっぺんに和んだ。
「とても気に入っています」
私が答えた。
「あなたはこのwillで、完全な女に生まれ変わるのよ。私が責任を持って育ててあげる」
他の誰かが言えば、上から目線の自信過剰にしか聞こえない言葉も、泉ママが言えば間違いのない結果がその先に待っているように思えるから不思議だ。
例えそれが根拠の無い自信だったとしても、私はこのwillにいる限り…いいえ、泉ママのそばにいる限り、女として生まれ変われると信じ始めていた。
「お嬢はその…レーシングチームの頃からお嬢だったのかい」
親分が私に聞いた。
「そんな事が有るもんですか。この娘はね、このお店の面接に来るまで誰にも自分が女だって打ち明けられなかったのよ」
太月姐さんが私の代わりに答えてくれた。
関東狂走愚連隊の解散後、私はトラッドレーシングの集会に参加することは少なくなった。
いつも龍也のそばにいた私はチームの中でも認知度が高く、執拗に誘いに来る仲間も少なくはなかったが、龍也のいない夜の街に出かける気持ちにはなれなかった。
私は引きこもりとなり、毎日のように着ていた特攻服も、いつの間にか押し入れの隅へと押しやられてしまった。
「男一匹狂走人生なんて看板背負って走ってましたよ」
「龍也さんっ!」
思わず大声を上げ、私は龍也をたしなめた。
「このお嬢がかい?」
「はい。三段シートのバイクで、タンクには日章旗が描いてありました。花も咲かない海岸通りなんて刺繍もどこかにあったよな?」
親分の問い掛けに答えてからの私への振り…。
「死にたい…」
私は恨めしい気持ちを龍也に向けて呟いた。
VIPルームが笑いの渦に包まれた。
「若い頃は誰だってバカな事ばかりやってるものよ」
泉ママが優しく私のフォローをしてくれた。
「俺と泉が出会ったのも確か16 の頃だったな」
親分の言葉に「そうね…」と答えた泉ママの目が、どこか遠くを見るようだった。
「どこで知り合ったんですか」
泉ママの事なら何でも知りたい私は、親分とママの出会いに興味津々だ。
「ゲイバーよ…。私は16歳の時からこの世界で生きてるの」
「16歳から…」
自分とのレベル…いや、覚悟の違いに私は言葉を失うばかりだ。
「マーメイドはね、海の中でしか生きられないの…高望みをして丘に上がれば知らなくて良い絶望を知ることになる…美和にもすぐ分かるようになるわ」
そう呟いた泉ママがやけに寂しそうに見えた。
「まあ、そんな話はどうでも良いじゃないか」
親分が気まずい声で口を添えた。
もしかすると…親分と泉ママだけが分かる昔話なのかもしれない。
「親分はその頃は何歳だったんですか」
龍也が聞いた。
「泉とは14歳違うから丁度…」
「30よ」
親分の言葉を遮り、泉ママが答えた。
「今の龍也さんと同じ歳」
私が答えた。
「親分はその頃からこんな店が好きだったんですか」
龍也の問い掛けに泉ママがけたゝましく笑い出した。
見ると太月姐さんまでが声をたてて笑っている。
「余計な事言わなくて良いぞ、二人とも」
親分がクギをさした。
「聞きたい聞きたい」
私はわざと
「お前はそんなにオカマが嫌いか」
太月姐さんが野太い男の声で言った。
「男が男に惚れて人生を賭ける。それはヤクザの専売特許じゃねぇか…30年前に親分のそのまた親分が言った言葉よ」
私と龍也は弾かれたように親分を見る。
「泉、良い加減にしろよ」
親分がたしなめた。
「30年前…ゲイもホモも、それから今で言うニューハーフが女装男子なんて言われてたかな…。そのすべてをじゅっぱひとからげでオカマって呼ばれてた」
太月姐さんだけが頷きながら聞いていた。
VIPルームは泉ママの一人語り以外は、モニターから流れるアリアナグランデの歌うバラードだけが耳に届いていた。
「不貞腐れたような態度でずっと貧乏ゆすりをしていた親分にね、神崎さん…親分の親分が突然言ったの…お前、そんなにオカマが嫌いかって」
「泉…」
「その話、私聞きたいです」
私が口をはさむ。
「自分も」
龍也も同じ気持ちらしい。
「勝手にしろ」
遂に親分が観念した。
「オカマバーはね、今のショーパブなんかよりはるかにレベルの高いショーをやってた。国際劇場並みのね」
もう誰も口をはさもうとしなかった。
「ショーが終わって席についた私に、俺は一人で良いから向こうに行ってろって親分が言ったの」
こんなに泉ママの事を思っている親分が、まさかそんな事を言うとは想像もつかなかった。
「その頃の世の中ってのはよ、同性愛者ってのは薄気味悪いだけの化け物でよ、17、8年前のモンスターって映画を観ればよく分かるさ」
「その親分が毎日通ってくるようになったの…私を指名でね」
どこか誇らしげに言ったママが、私にはたまらなく素敵に見えた。
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