第89話「……呼ぶ……」

「どうした紗衣ちゃん」

「ハードルでコケたの見てっ」

「わざわざ来てくれたの?」

「は、はい」

「いったぁー!?」


 膝に激痛が走った。

 なんていうタイミングで消毒するのっ。

 あまりの痛さに叫んでしまった。


「だ、大丈夫ですかっ」


 大丈夫だったら叫んでないんだよっ。喉まで出かけた言葉を飲み込む。

 保健室の中へ入ってくる紗衣氏。その辺りから保健の先生の目が変わった。


「体育祭は?」

「まだやってます。でも、そんなことはどうでもいいです」


 今にも泣きそうな瞳で最接近してきた。

 わずかに汗のにお――


「触らないでっ。治療中だから!」

「ひっ。すみません!」

「……ご、ごめん。強く言い過ぎちゃった」


 もうほぼ決壊寸前の涙を溜めた瞳の紗衣氏を見て、我に返ったか保健の先生は謝罪の言葉を口にした。

 すごい鋭い目つきだったもん。俺でも固まってるね。


「……ぐす……だ、大丈夫です」

「お詫びに席外すね」


 大丈夫って言ったじゃないですかっ。

 先生の背中に心中で叫ぶ。

 なにかを察知したようだけど勘違いもいいところだから。


「凪君っ」

「ちょ、紗衣ちゃん!」

「心配したんですからねっ」


 腕にすり寄り、見上げてくる紗衣氏の瞳。

 まだ足は痛いんだけどね。

 瞳から落ちる涙に考えるより先に手が動いていた。


「凪君?」

「なにも泣かなくても」


 苦笑して紗衣氏の頭を撫でる。サラサラだ。

 落ちた涙を拭うのは違う気がしたので止めておいた。

 さすがに頬に触れたらヤバいでしょ。


「泣くことですっ」

「そっか。ありがとう」

「どういたしまして?」


 返答に困った紗衣氏が頭を傾ける。

 ……なんかのど乾いた。ずっとこのままでもマズいし。

 離れるきっかけに丁度いいだろ。


「紗衣ちゃんお願い聞いてもらっていい?」

「なんですか?」

「のど乾いたから飲み物買ってきてもらってもいいかな」

「いいです……あ」


 ポケットをまさぐり手を出すと、銀色の硬貨。

 そういえば体育祭やってたんだったな。


「買ってきます。シェアしましょう」

「お、おう」


 俺の腕からパッと離れ、保健室を出ていく紗衣氏。

 ちょっと考える素振りしてからのダッシュ。

 なにかを思い至ったのは間違いないな。まぁ、なにかって間接キスですけどね?

 しばらくして紗衣氏が戻ってきた。


「お待たせしました」

「ありがとう。紗衣ちゃん」

「凪君のためなら」


 重いな〜、重いっ。普通に微笑むくらいでいいのに。

 紗衣氏は、俺の横に腰を下ろし、缶ジュースを差し出してきた。


「いまさらですけど、苦手じゃないです?」

「全然。むしろ嫌いな人いないでしょ」

「なら良かったです」


 プシュッとプルタブを開けたら炭酸独特の音がした。

 爽やかなソーダの臭い。一口飲む。

 いや〜、美味いっ。カラカラだっただけにいつもよりも美味く感じる。


「あたしも飲みたいです」

「買ってきてもらったし拒否権はありません」

「ありがとうございます」


 手渡しして紗衣ちゃんの飲む姿を見る。

 喉が鳴っていることから紗衣ちゃんも喉が乾いていたらしい。


「美味いな」

「……はい」

「どうした?」


 仰いでいた体勢から戻った紗衣氏は、顔を真っ赤にしていた。

 え、まさかこのタイミングで間接キスに気づいた?

 ていうか、耳まで赤いですけど、この人。

 ヤバい、俺まで恥ずかしくなってきた。


「……キ……」

「……」

「「……」」


 誰かっ。先生でも誰でもいいから来てくれ!

 沈黙が辛いっ。とそこで、チャイム。

 おし、誰か来いっ。

 静寂の中小さな望みである足音に耳を澄ます。

 わずかに上履きの音。来るっ。


「な、凪。大丈――新川妹!」

「う、うるさいですよ。耳がキーンってなりまさした。キーンって」

「いつからいたの?」

「午後は全部です」


 耳から手を離し、紗衣氏はなぜか自慢げに言う。

 サボり以外のなにものでもない。


「紗衣、せめて周りには言っていけよ。みんな心配してたぞ」

「気にしていられなかった」

「……あれじゃ、無理もないけど」


 よほど俺のコケ方が凄かったようだ。

 回想して苦笑混じりに紗衣氏のフォローをする明。


「……痛い? ……」

「だいぶ痛い」


 いつの間に傍にいたか、高林さんが無表情ながら声をかけてきた。

 高林さんだけだ。いつもの面々で容態を気にしてくれたの。


「……今日……バイト……無理だね……」

「ごめんね」

「……車……だしてもらう……」

「大丈夫だ――」

「……呼ぶ……」

「お、オッケー」


 半ば強引に決まった。高林さんがここまで推してくるなんて。

 なんか嬉しい。

 ――保健室で言っていたとおり高林さんが車を手配してくれた。

 マジで助かった。これでチャリで帰るのは無理ゲーにもほどがある。


「上がれそう?」

「はい、なんとか」

「莉音奈手伝ってあげて」


 少し後ろにいた高林さんが俺の腕を持ってくれた。

 触り方が優しくて不安だけど気持ちだけ受け取っておこう。

 なんとか乗り込めシートベルトを締めると、高林さんのお母さんは優しく車を発車させてくれた。


「莉音奈から聞いたけど、頭も打ったんだって?」

「……気持ち悪いとか……ない?」

「今のところないかな」

「……コク……」


 ホント高林さんは、周りと違う。

 美沙らは頭のことなど微塵も心配してこなかった。

 ――程なくして我が家の前に到着。

 高林さんの肩を借りながら家の中に入る。

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