眠りについた街、桜色の道

入間しゅか

眠りについた街、桜色の道

 <書き出し>

 街は閑散としている。新型コロナウイルスの影響だ。人がまばらな交差点の真ん中。一人の男が立ち往生している。男は五百蔵健三、今年で喜寿になる。健三は喜寿とは思えないほどの姿勢の正しさをしており、それが彼の数少ない自慢だった。

 健三は普段では考えられないほど、静かな街の音に聞き入っていた。

 ああ、冬眠中のカエルのように街の呼吸が浅いと健三は思った。はたして、冬眠中のカエルがどんな呼吸音なのか健三には分からなかった。

 歩行者信号が点滅している。彼なりの早足で歩く。信号の緑色がチカチカすると、焦りよりも諦めが勝つようになったのはいつからだろうかと早足をやめた健三は思った。信号は既に赤に変わっていた。急かすように車がジリジリとこちらに向かっていたが、健三は渡り終えるまでゆっくりと歩いた。

 交差点を渡り終えた先にある喫茶店が彼の目的地だった。


 <いつも静かな喫茶店で>

 店内のテレビでは今日も感染者数のニュース。

「不要不急の外出は自粛しましょう」

 あと何度このフレーズを聞くことになるだろうか。客が私以外居ない店内。

 読みかけの小説を開くも、頭が文字を受け付けないのかどうにも読み進められない。何をするにも気が滅入る。いつも静かな喫茶店のいつもより静かな日。凍てついた時間が流れる日々。私の心はぬかるみにいるように身動き取れない。時は凍てつき、心はぬかるみ。

 私は〇県の感染者数の発生状況を調べるのが、最近の日課。感染者の数、感染者の足取り、濃厚接触者の有無。調べたところで、私の生活は変わらない。ただ、日々変化する数字に時間の経過を感じたいだけなのかもしれない。

 とっくに冷めきったコーヒーを口に含んだ時、入り口が開き、一人の老人が入店した。

 店主が「いらっしゃい」と挨拶すると、老人はお辞儀をした。

 私は老人を知っている。いや、正確には何も知らない。私と同じ常連客だ。背の高い白髪の似合うその老人は、ホットコーヒーをいつも頼み、いつも冷めるのも気にせず本を読む。街が外出の自粛を叫ぼうと、不要不急と分かっていながら、ここにいる私の心のぬかるみを老人なら理解してくれる気がした。というより、彼も同じ気持ちなのではないかと思った。いや、願った。

 私はコーヒーを飲み干すと、徐に席を立ち、老人のテーブルに行った。

 彼は本をゆっくりと閉じ、私に微笑みかけた。


 五百蔵健三は言葉を探していた。目の前に座る女性にかける言葉を。彼はその女性のことを何も知らないが、分かり合えるような気がしていた。言葉が見つからない時は、表情が言葉に変わる。彼は女性にほほ笑みかけると、彼女もまた遠慮がちな笑みを浮かべた。

「あの、突然すみません。このお店でよくお見かけしているものですから…」

 健三は頷き、言葉を遮る。

「大丈夫。ぼくもなんとなくあなたが今日もいる気がしていたよ」

 健三は自分の孫ほどの若さに見えるその女性に少しも不信感を抱いていていないことが不思議だった。彼女はこの喫茶店の常連客。それ以外は何も知らない。

 沈黙が流れた。テレビには男性アナウンサーが険しい表情で専門家(と思われる)と対談している。ここ一二ヶ月毎日「自粛」という言葉を耳にしている。健三はその所為で何か忘れ物した気がしていた。

「何か頼みますか?」

 健三が話しかけると、女性は緊張しているのか、背筋を正してから「あ、はい…」と言ってメニューに目を通した。

 彼女はミルクレープを頼み、健三はガトーショコラ。

 無言でケーキを食べている間、健三は喫茶店の静けさと、街の静けさは種類が違うことに気づいた。眠ってしまった街の中、この店は眠れずに周りを起こさないよう静かにしている。そんな気がした。

「おいしい」

 小さく女性が言った。

「そうだ、名前を、五百蔵健三といいます」

 女性は口元を手で隠しながら、うんうんと頷いた。

「酒匂真菜です。すみません、五百蔵さん。私、名乗りもせず」

「いえ、いいんです。よくこの店でお見かけしていたから、もう知り合いみたいなもんですよ」

 健三の言葉に真菜は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に健三は忘れ物が思い出せる気がした。

「私も。五百蔵さんのことなんだかお友達みたいに。すみません、生意気言って」

 健三は嬉しかった。何十年来の友人と再会したような気持ちだった。

「ええ、お友達になりましょう」と健三が言うと、「はい!」と先程まで緊張していた真菜が元気に返事した。


 <雪解け>

 喫茶店を後にした私は常連客の老人、五百蔵健三と二人で人が消えた街を歩いた。

「歩きましょう」と五百蔵が誘ったからだった。

 彼は私が訊いた訳でもないのに、自らのことを語り始めた。

「ぼくはね、妻に去年先立たれてからあの喫茶店にいき本を読むことだけが楽しみなんだ。あそこにいると街に認められた気がするよ。ずっとこの街で生きてきたけど、どこかいつも自分だけがいない気がしてね」

 ごめん、変な話をしたねと五百蔵が自虐的な笑みを浮かべたので、私はすぐに否定した。

「そんな、そんなことないです。わかるって言ったらダメかもしれないけど、分かりたいって思いました」

「私はいなくなりたくて、この街に来たんです。人が溢れたこの街で私も人混みの一部になりたかったんです」

 誰にも言ったことのない話だった。大学で勉強すると言って地元、実家、友達、私を縁どる事象とさよならをした本当の理由。

 五百蔵は黙って頷いた。彼に伝わったかわからないが、それでも構わなかった。消えたいと思っていたはずなのに、存在を肯定されたような気がした。

 私たちはもうすでに葉が芽生えだした桜の木が並ぶ道に行き着いた。大きな百貨店を囲む桜並木はこの街で季節を感じられる場所として有名だった。

 花はまだいくらか咲いている。しかし、私の目に止まったのは歩道を彩る桜色だった。

 私が「きれい」と呟くと、「そうだね」と五百蔵も呟いた。普段は人が多く歩道に目がいかなかった。

「そうか」と五百蔵が何か納得したように言う。

「え?」

「あ、いやなんでもない」

 風にのってひらひらと舞う桜の花びらはぬかるんだ私の心に優しく積もる。

 そうか、今は春だった。


 <ジレンマ>

 五百蔵健三は考えていた。なぜ、どこにいても、自分だけが不在な気がするのだろうかと。

 彼の父は彼が物心が着いた頃にはこの世にいなかった。彼は母親ではなく、叔母に育てられた。母は幼い頃に買い物に行くと言ったきり帰ってきていない。

 成長とともに彼は自分の存在は本当はここにいるはずがないものだと強く思うようになっていた。ぼくはここにいる!と思えば思うほど、幼少期の彼がそれを打ち消した。いつしか不在感は彼にこびり付いた。

 しかし、今健三は桜の花びらが敷き詰められた道に、忘れていた生命力のようなものを感じていた。

「そうか」

「え?」

 真菜の声に健三は我に返る。

「あ、なんでもない」

 花びら一枚一枚に名前があり、理由があり、意味があって、ぼくは花びらを見送るためにいるんだと、健三は根拠のない確信を持って思った。しかし、それを言っても真菜には伝わらないと思った。それでも、彼女とこれから本当に友人になれるなら、いつかこの時のことを話そうと彼は誓う。

 眠る街をひっそりと見守る喫茶店。いなくなりたいと願う真菜と、いるはずがないと思う健三。桜色の道に風が吹く。花びらが舞い落ちる。



 <泥>

 ぬかるみにはまって足取りが重い。泥だらけの心を引きずって生きる。

「あなたは何にでもなれる」と母は言った。母は歌手を夢見ていたが、祖母によって断たれた過去があった。その経験から母は私に「やりたいことをやり、なりたい自分になりなさい」よく言っていた。やりたいこともなく、何者にもなれない私は逃げ道を探していた。そして、気づけばぬかるみにはまっていた。何をするにも気が重く、実家を離れてこの街に来たが何も楽しめず、唯一喫茶店での読書だけが心を休ませる時間だった。

 小説が好きだった。文字から見る世界は私の感情を呼び起こし、泥だらけの心を休ませる居場所だ。

 しかし、新型コロナウイルスが私のから読書をも奪った。心が泥に埋もれていく。

 そんな身動き取れない私に桜の花びらが舞落ちた。

 風が吹く。花びらが舞う。私の隣で五百蔵は黙っていた。彼が何を思ったのかわからない。私はただ花びらが落ちる、落ちた花びらが舞い上がる、その様子に見とれていた。

 泥だらけな私の隣には老人がいて、彼のことは何も知らないけれど、いつか泥を拭えたら彼に伝えたいと思った。

 私たちはたわいのない会話とともにシャッターの降りた百貨店を一周し、桜色の道を味わった。

 連絡先も聞かずに私たちは再会を約束し合い、別れた。帰り道、久々に足取りが軽い。

 泥はいつ拭えるかわからないし、相変わらずいなくなりたいけれど、私は忘れ物を見つけたような清々しい気持ちになっていた。

 さあ、家に着いたら小説を読もう。



 <おわりに>

 いつも静かなあの喫茶店は、彼らが知り合った次の日に休業要請に従った。眠りについた街に今日も花びらが舞い散る。

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