第4話 波瀾万丈な1日(前編)

 

 クロが晃たちと暮らし始めた翌々日ーー。


 時計の針が5時45分を過ぎた頃、クロは目を覚ました。

 キャットハウスから出て、体を伸ばし、大きな欠伸をする。

 寝台に視線をやれば、晃の腕が垂れ下がっていた。耳を澄ますと、いびきをかいて寝ている。


『む…。アキラはまだ寝ているのか。確か、“早起き”をしなければならないとか言っていたような…』


 クロは昨晩の晃たちの会話を思い出す。



「明日は朝から出勤だよ〜。早起きだよ〜。陸さん、6時前には起こしに来て〜」


 ソファーでゴロゴロ寝転がりながら、晃はココアを飲んでいる陸に頼み込む。


「いい大人なんだから、自力で起きなさいよ。晃くん」

「むーりー!」


 陸に断られ、晃は駄々を捏ねる。

 その時、雑誌を読んでいた克晴からの一言。


「俺が起こしてやろうか?」

「自分で起きまーす…」


 良い笑顔で拳を構える相手に、晃は恐縮する。

 その様子に陸は笑いつつ、テレビのニュースを観ているクロへそっと耳打ちをした。


「クロ。もし、君が先に起きたら、晃くんを起こしてくれないかな?」



 回想終了。

 クロは任務を実行に移す。ベッドに飛び乗るも、晃が起きる様子はない。

 クロは相手の顔を前足でペチペチ叩く。


『ナナナ、ナー…(アキラ、起きろ)』

「うーん…」

『ナー!(起きろ!)』

「あと、3分…」


 なかなか起きない晃に、クロはため息をつく。


『ナー…(こうなったら…)』


 クロは晃の右頬に自分の体を押しあて、勢いよくスリスリした。

 晃の右頬が摩擦で赤くなっていく。そしてーー。


「ーー熱っ!」


 熱さで飛び起き、ベッドから転げ落ちた。


「いてて…。なんだよ、急に…」


 起きたてで状況を把握出来ていない晃に、クロはベッドから誇らしげに挨拶をする。


『ナー!(おはよう!)』

「おはよう、クロ。あっ、まさかお前…寝ている俺にスリスリしただろ」


 赤くなった頬を擦りながら晃が尋ねると、クロは首を縦に振るう。


『ナナナ、ナナナ(呼んでも起きないから、実力行使をしたまでだ)』

「んー、クロは早起きだな…。腹でも減ってるのか? 今度、ドアの開け方でも教えるか」

『ナー…(ちがう…)』


 お腹を空かせていると思っている晃に、クロは呆れて時計の方へ剣先を向ける。


『ナナナ(アキラ)』

「ん? 時計がどうかしたか?」

『ナナナ?(時間、大丈夫か?)』

「……」


 言葉は通じない。しかし、晃が時計へ視線を移した途端、彼の顔色は見る見るうちに青ざめていく。


 時計の針は6時を過ぎていた。


「うわぁぁぁぁぁぁッ!? 6時過ぎてるぅぅぅぅぅ!!」


 晃の絶叫が部屋中に響く。彼は急いで服を着替えると、猛スピードで階段を下り洗面所へ駆け込む。

 歯ブラシを手にし素早く歯をみがき、顔を洗い、身なりを整えてからダイニングへ向かった。


「おはよう、陸さん」

「おはよう、晃くん」


 キッチンで料理をしている陸に、晃は元気よく挨拶をする。

 食卓にはベーコンエッグトースト、サラダにコーンスープ、コーヒーが並んでいた。


「朝ごはんは出来てるから食べちゃって」

「はい。いただきます!」


 陸に促され、晃は席に着いて朝食を食べ始める。

 急いで食べる彼を見て、陸は注意をした。


「よく噛んで食べなさい」

「はーい」

「やれやれ…。少しはクロを見習ったら?」


 陸に言われ、晃は食べるのを一旦止め、足元にいるクロの方へ目をやる。

 メニューは同じだが、ベーコンとコーヒーのみ外され、代わりにりんごとホットココアが置かれていた。

 クロは前足を使ってトーストを掴み、味わうように食べている。その様子に、晃は(ハムスターみたいだ)と思った。


「やっぱり、クロは俺たちと同じ物が食べられるんだなー」

「同じって言っても、肉は食べないみたいだけどね」


 クロを観察する晃に、キッチンで料理を終えた陸が席に着いて説明を補足する。


「昨日、クロに色々味見させたからね。野菜と果物の他に、ごはんやパン、乳製品も平気みたいだし…。飲み物はコーヒーと紅茶以外は飲めるよ。特にココアが好きみたい」



 前の日、晃・克晴・陸はクロが食べられる物を吟味した。

 クロが食べれたら良し、ペッと吐き出したらだめ。すべてある食材を試した結果、クロは“肉類は一切口にしない”にという答えに至った。



 美味しそうに食べるクロを見て満足すると、晃と陸は食事をしながら今日の予定を立てていく。


「陸さん、今日仕事は?」

「今日も朝から出勤。棚卸たなおろしで帰りは遅くなるよ」

「そっかー。じゃあ、今日の夕飯は俺が作るよ」

「ありがとう。克晴くんは、確か今週は日勤って言ってたけど…」

「克兄は獣医だからね。救急要請で出るときもあるし…」

「日勤なのか夜勤なのかわからんって本人も言ってたもんね。ところで、晃くん。時間は大丈夫?」


 陸の問いかけに、晃は壁時計を見てはっとなる。


「やばっ。急がないと!」

「はい、お弁当。今日はサンドイッチだよ」

「ありがとう、陸さん」


 朝食を食べ終えた晃は、陸から弁当箱を受け取ると、また自室へ戻っていく。

 クロも朝食を食べ終え、足早に晃のあとを追う。

 その様子でなにかを察した陸は、再びキッチンに立つのであった。



 自室にて、晃はリュックに弁当箱やハンカチ、ティッシュ、家の鍵を詰め込んでいく。

 そこへ、クロが近づいてきた。


『ナー(これを持ってどこへいくのだ?)』

「ん? どうした、クロ」


 リュックの中を覗き込むクロを、晃は抱き上げる。


「仕事に行かなきゃいけないから、遊ぶのは帰ってからな」

『ナ?(仕事?)』

「でも、クロだけでお留守番させるのもな…。陸さんは棚卸しで帰りが遅いし、克兄は日勤だけど救急要請が入ったらどのみち遅くなるし…」


 考えに考えた末、晃のだした答えは…。


「ーー連れて行くか」

『ナナナ(む、仕事という場所に連れて行ってくれるのか)』

「はあ…。着いたら大人しくしてろよ」

『ナ(わかった)』


 クロがリュックに入ると、晃はそれを背負って部屋を出る。階段に差しかかった時、起きたばかりの克晴と会った。


「克兄、おはよう」

「ん…。はよぅ…」


 まだ寝ぼけている相手の横を通り過ぎ、晃は玄関へ向かう。途中、陸に声をかけられた。


「晃くん!」

「なに? 陸さん」


 足を止めた晃に、陸はもうひとつの弁当箱を渡される。


「ん? 弁当は貰ったけど…」

「晃くんのじゃなくてクロの分だよ。連れて行くんでしょう」


 リュックから顔を出しているクロを、陸は指差す。

 そんな彼を晃は称賛した。


「さっすが、陸さん。勘が鋭い」

「まあ、君のことだから絶対連れて行くだろうなーって思っただけ。でも、俺ら以外の前では絶対に出しちゃ駄目だよ」

「わかってる。それじゃ、いってきまーす」


 クロの弁当箱もリュックに入れ、晃は家を出る。外に置いてある自転車に跨がると、力強く地面を蹴って走りだした。



 ◆ ◆ ◆ ◆

 


 自転車のペダルを漕ぐなか、晃はひやっとした風に思わず身震いする。


「肌寒くなってきたか。そろそろ冬が近いかな…」


 そう呟く彼に、クロは気になってリュックから顔だけ出す。確かに少しだけ寒く感じた。


『ナー(寒い…)』

「クロ、俺が良しというまでリュックに隠れてろよー」

『ナ(うむ)』


 晃に言われ、クロはリュックの中に引っ込んだ。

 晃はひたすら川沿いを通っていく。いちごワニ園のパーキングエリアが見えれば、そこを曲がり、そのまま直進し、従業員用の駐車スペースに入る。駐輪場で停止し、彼は自転車から降りた。

 晃は管理事務所に入る前に、飲み物を買うため自動販売機に立ち寄る。お金を入れようとした矢先、背後から肩を叩かれた。


「おはよう、晃くん」

「うわっ!」


 驚いた晃が振り返れば、ポニーテールにした赤茶髪で眼鏡をかけた小柄の女性が立っていた。


紅葉もみじちゃんか。ビックリしたー…」

「肩叩いたぐらいでそんなに驚かなくてもいいでしょ。晃くん、がたいはいいのに結構ビビりよね」

「はは…。それ、よく言われる」


 紅葉と呼んだ女性に呆れられ、晃は否定できず苦笑いを浮かべる。


 女性の名は四蟹 紅葉しがに もみじ。晃とは同期で、いちごワニ園では植物園とマナティーを担当している飼育員だ。穏和でのんびりとした女性だと、男性飼育員の間では話題になっている。しかし、彼女の経歴や本性はというと…。


「じゃあ、改めまして…。おはよう、紅葉ちゃん」


 晃が満面の笑顔で挨拶をすると、紅葉は頬を赤く染めて視線を逸らし、そしてーー。


(ああああああ! なんだよ、その眩しい笑顔! 可愛すぎだろぉぉおおお!)


 心の中で悶え叫んだ。


 実は紅葉、中学生の頃までは有名なバリバリのヤンキーであったが、晃と出会って改心。そして、現在進行形で彼に片思い中である。

 見た目はワイルド系な晃だが、克晴と陸の弟分というのもあって、明るく人懐っこい性格だ。

 そんな彼の見た目に反して素直で可愛いというギャップに、紅葉は惹かれ萌えていた。


 一方の晃は、20代後半になっても未だに色恋沙汰には疎い青年で、周囲は気づいている紅葉の想いにまったく気づいていないのである。


「あれ? 紅葉ちゃん。顔赤いけど大丈夫?」

「あー、うん。大丈夫」

「少し肌寒くなってきたからね。お互い風邪ひかないように気をつけよう」

「そうだな…じゃなくて、そうだね!」


 昔の言葉使いが出てしまう紅葉だが、すぐに修正した。晃は気づいていない。

 楽しく会話をしていた2人だが、ある人物の登場により紅葉の良い気分が一気に急降下する。


「おっはよーう、紅葉ちゃん」

「……」

「おはようございます、スミス先輩」


 2人の間に割って入ってきたのは、七三分けした黒髪でホスト風のイケメンである男性。晃と紅葉の先輩にあたり、植物園とレッサーパンダを担当している飼育員、須瑞すみすーー通称スミス先輩である。


 スミス先輩は晃を無視し、紅葉に話しかけた。


「紅葉ちゃん、今日の昼食ランチ一緒にどうかな」

「行きません。レッサーパンダと食べてればいいでしょう」

「そう言わずにさー。おしゃれなレストランだよ。この“和牛の赤ワイン煮込み”が1番人気なんだって」

「あたし、安い居酒屋にしか興味ないんで」


 しつこいスミス先輩に、口調がどんどん荒くなっていく紅葉。

 彼女が迷惑しているのを見て、晃はスミス先輩に注意をする。


「あの、先輩。紅葉ちゃんは行かないって言ってるんですから、その辺にしておいた方が…」

「君には関係ないだろ、晃くん」

「あ、はい…」


 スミス先輩に睨まれ、晃はそれ以上何も言えなくなる。

 そんな彼を、スミス先輩は嘲笑う。


「早くワニたちの世話にでも行ったら? ああ、いっそのこと彼らを恋人にしたらお似合いなんじゃないかなぁ〜」


 晃をばかにした挙げ句高笑いするスミス先輩に、紅葉の目が据わり、拳を構えようとした矢先だった。


「そういうアンタはモウセンゴケ辺りを恋人にしたらいいんじゃねえか? 太郎さんよぉ」


 どすの利いた声が背後から聞こえ、スミス先輩は表情を固まらせる。

 一方の晃と紅葉は、スミス先輩の後ろに立っている、剃り込みを入れた丸刈りの黒髪男性に挨拶をした。


「「おはようございます! 蒼斗あおと先輩!」」

「うっす、お前ら」


 男性ーー桜坂 蒼斗さくらざか あおとは右手を掲げて挨拶を返すと、スミス先輩を睨みつける。


「俺の後輩をばかにしたらどうなるか、わかってんだろうな。太郎」

「ーーッ! 偉そうにしてるけど、君は僕の後輩なんだからね! 少しは年上を敬ったらどうだい。あと、下の名前で呼ぶのはやめて!」

「仕事では敬ってる。それ以外では見下す。あと、“太郎”の方が呼びやすい」

「なんだよ、それ!」


 スミス先輩こと須瑞 太郎すみす たろうは蒼斗に食ってかかる。太郎は名前で呼ばれるのが嫌なのだ。理由はーーダサいから。

 ぎゃあぎゃあ喚く太郎に動じず、蒼斗はズボンのポケットからスマホを取り出す。


「今日のこと、克晴に報告するぞ」


 克晴、と聞いて太郎は血の気が失せる。


「な、なんでアイツに言うんだよ!」

「晃の兄貴分だろ」

「ていうか、なんで電話番号知ってんの!」

「前に会った時、交換したんだ。俺と克晴、昔はよく殴り合ってたし」

「そんなバイオレンスな青春時代聞きたくないよ! ついでに連絡するのはやめて! お願い!」

「どーしよーかなー」


 今にも克晴に連絡しようとする蒼斗に、必死に太郎は懇願した。

 さすがにかわいそうだと思った晃は、蒼斗を止める。


「その辺にしておいてあげてください、蒼斗先輩。俺はばかにされるの慣れてるんで平気ですよ。それに、克兄呼んだら俺までとばっちりを受けるんで…」


 晃の脳裏に鬼のような形相をする克晴が浮かび上がる。正直、怒った克晴は恐ろしい。

 晃に止められ、蒼斗はため息をつくと、スマホをズボンにしまう。


「今度、晃をばかにしたら容赦しねぇからな」


 蒼斗が太郎に威嚇すれば、相手は情けない声を上げて逃げていった。


「ケツの穴が小さい奴だな」

「男のくせに情けない」


 呆れ果てる蒼斗の隣で、紅葉が鼻先で笑う。


(素が出てるぞー、紅葉)


 言葉には出さず、蒼斗は紅葉にツッコんだ。


 実は蒼斗も元ヤンキーで、背中に青龍と桜の入れ墨をし“蒼桜”という異名で恐れられていた過去を持つ。現在は入れ墨を消し、ワニとカメを担当している飼育員として真っ当に働いている。ちなみに妻子持ちだ。


 太郎が逃げたあと、晃は蒼斗に礼を言う。


「助かりました、蒼斗先輩」

「晃よぉ〜、お前は優しすぎる。だから、太郎がつけあがるんだろ」

「一応、先輩なんで…」

「はあ〜…。克晴も言ってたぜ。“晃は見た目の割に気が小さい”ってな。アイツなりに心配してんだろ。まっ、なにかあったらすぐ俺に言えよ」


 蒼斗は晃の肩を軽く叩くと、管理事務所に入っていく。

 頼もしい先輩の言葉に晃は微笑むと、紅葉と共にそのあとに続いた。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 動植物園の日課は大変である。


 飼育員は朝早め出勤し、作業着に着替えると、動物たちの様子に異常がないかチェックし、開園前に園舎の清掃、餌やりを行う。直前になったら、動物たちを寝室から展示スペースへ移動させる。

 植物の場合は状態や種類に応じて水やりの仕方や量を変えたり、花壇周辺の雑草駆除に合わせて花壇の植物が虫害に侵されていないか葉っぱを観察してチェックする。

 そして、9時に開園。同時にお客さまが次々と入ってくるので、元気よく挨拶をしながらお迎えをするのだ。



 朝のお迎えを終えると、晃はワニの餌である牛すじ肉(脂身をとったもの)とアジ(小骨をとったもの)が入ったバケツを手に、担当しているクチヒロカイマンというワニのエリアへ向かっていた。

 機嫌よく鼻歌を歌い、柵の扉を開けるとーー。


『ナナナ(やっと来たか、アキラ)』

「……」


 尻尾の剣をゆらゆら揺らすワニーーではなく“地球外生命体エイリアン”ことクロが寛いでいた。


「な、ななななーー!?」


 晃は餌の入ったバケツを置き、慌ててクロに詰め寄る。


「なんで此処にいるんだよ!」

『ナー…。ナナナナ。ナナナナ…(なんで、と言われてもな…。アキラがなかなか戻ってこないから探しにきたんだ。そしたら、お前と出会ったこの場所を偶々通りかかったから、此処にいれば会えるかと…)』

「何を言っているかわからないけど、俺が良しというまでリュックに隠れてないとだめだろ」

『ナナナ…(すまない…)』


 自分が勝手に出歩いてしまったことに晃は怒っていると知り、クロは目を伏せて反省した。

 その様子に(さすがに言い過ぎたか)と思った晃は、岩陰に素早くクロを隠してから怒った理由を小声で伝える。


「クロ。この地球では、お前は“珍しい生き物”なんだ」

『ナナナ(知っている)』

「人間は良い人もいるかもしれないが、悪い人もいるんだ。そんな輩と出会ったら大変なことになる」

『ナナ。ナナナナ…(なるほど。だから、アキラは怒ったのか…)』

「だから昼飯の時までは大人しくーー」

「おーい。晃、いるかぁー」


 蒼斗の声が聞こえ、晃は驚いて振り返る。

 柵の前に立つ蒼斗を見た瞬間、晃は背後にいるクロを相手に見えないように自分の体で覆い隠す。


「な、なんですか。蒼斗先輩」

「あー…。緊急事態って言えばいいかーーって、お前なに変なポーズとってんの?」


 妙な姿勢をしている晃を、蒼斗が訝しむ。

 晃は冷や汗を垂らしつつ、必死にこの場を誤魔化す。


「こ、これは、新しいストレッチ体操ですよ! こうすると筋肉が柔らかくなるんです!」

「ふーん。今度俺もやってみようかな」

「ぜ、ぜひやってみてください!」

「おう。で、話は戻すが…。お前のロッカー、壊れてたぞ」

「ーーえっ!?」


 自分のロッカーが壊れていたと聞いて、晃は素っ頓狂な声を上げる。思わずクロを横目で見れば、相手は申し訳なさそうに視線を反らした。


「お、俺のロッカーが壊れてたって、どういう風になってました?」


 晃は唇をひくつかせ、蒼斗に尋ねる。

 蒼斗はその時の状況を思い出しながら説明した。


「んー…。鍵だけ壊したんじゃなくて、扉の部分だけ綺麗に切り取られたって感じ。俺、てっきり太郎がやったと思ってさー。さっき、アイツ殴り飛ばしてきた」

(ごめん! スミス先輩。あなたは何も悪くない!)


 無実の罪で殴られた太郎に、晃は心の中で彼に謝罪する。


「いや、確かにスミス先輩は嫌味な人ですけど、そういうことはやらないと思いますよ」

「だよなー…。よく考えてみれば扉の部分だけきれいに切り取るなんて不可能だよな。まあ、お前のロッカーに関しては園長が予備のを出すって言ってたからよ。ついでに荷物持ってきてやったぞ」


 蒼斗は手に持っていたリュックサックを、晃に渡す。


「ありがとうございます、蒼斗先輩」

「財布は盗ってないから安心しろ」

「先輩はそんなことしませんよ」

「いや、学生の頃はよくカツアゲをしていた」

「……」


 晃は無意識にリュックサックから財布を取り出し、中身を確認する。現金は無事だった。

 そんな彼に、蒼斗はむっとなる。


「今はやらねーよ」

「ですよねー…」

「まったく…。じゃあ、俺は現場に戻るからな」

「はい。ありがとうございます、蒼斗先輩」


 担当エリアに戻っていく蒼斗を見送ったあと、晃はクロをじっと見つめた。


「クロ〜」

『ナー…(すまない…)』


 さすがにロッカーとやらを切ったのはまずかったか…。

 晃に迷惑をかけてしまったことに、クロは深くこうべを垂れた。

 悪気があってしたわけではないと晃はわかっているが、二度もやられるとたまったもんじゃない。


 とりあえず大人しくしていてくれ…。


 クロにそう言うと、晃はワニたちに餌やりを始めた。


「おーい、ごはんだぞ〜」


 晃が声をかければ、ワニたちは彼のもとへ駆け寄ってくるのだが…。


「お前ら、いっせいに集まりすぎだろ!」


 餌をよこせと言わんばかりに、晃の周りを囲うワニたち。

 脱出しようにも脱出できず、晃はただオロオロするばかり…。


ーーワニに腕でも食われたか? そりゃあ、大変だ。今すぐ人科の病院にいけ。


 克晴の言葉が、晃の脳裏に過ぎる。


(克兄ぃ…。俺、人科の病院へ直行するかも…)


 絶体絶命の窮地に追い込まれる晃。ワニに噛まれてしまうのを覚悟した矢先だった。


『ーーーー!!』


 晃の耳に届いたのは耳をつんざく金属音。聞き覚えのあるそれに、彼は岩陰に視線を移す。

 クロがワニたちに向かって、威嚇の鳴き声を発していた。

 その声はワニたちにも不快らしく、ジタバタと苦しみだす。

 これ以上は危険と判断した晃は、クロを止める。


「クロ! それ以上やったらワニたちが死んじゃう」

『ーーナナ(む。そうか)』


 クロは晃の言うことを聞いて威嚇をやめると、グロッキー状態のワニたちを咎めた。


『ナナナ! ナナナナ! ナーナナ!(貴様ら! 腹が空いてるのはわかるが、いっせいに集まってしまってはアキラが困ってしまうだろ! 一列に並んで順番に貰うのだ!)』


 そう告げるクロに、ワニたちは不満げなのか口を大きく開けて相手を威嚇する。

 瞬間、クロは尻尾の剣を大きく振り上げ、その刃を岩場に叩きつけた。少しだけ岩が削れ、破片がワニたちに降り注ぐ。


『ーーナ?(ーーあ?)』


 クロの鋭くなった紅い瞳に睨まれた直後、ワニたちはすぐに一列に並んだ。

 その光景に晃は唖然となるも、口笛を吹いてクロを称賛する。


「やるな、クロ…」

『ナー(どうってことない)』


 クロが睨みをきかせる一方、晃はワニたちに餌をあげていく。


 軍隊の如く列を並んで餌をもらうワニたちの姿は、あっという間にお客さまの話題となった。



 ◆ ◆ ◆ ◆



 お昼の時間。


 クロをリュックサックに入れ、晃は人の通りがあまりない場所である保育室へ訪れた。


 周囲に人がいないことを確認してから、晃はその場に座り、リュックサックを開けてクロを中から出す。


「よし、昼飯にしよう」


 クロを隣に座らせ、晃は2つの弁当箱を相手に見せてから、蓋を開ける。

 片方はボリュームのあるBLTサンド、もう片方は野菜オンリーのベジタブルサンドだ。


「俺のは肉が入ってる方。クロは野菜のみの方だ」

『ナ(わかった)』

「それじゃあ、いただきます!」

『ナナナ(いただきます)』


 晃とクロはサンドイッチを手にし、それを頬張った。


「うん、美味い」

『ナナナ!(美味だ!)』

「やっぱ陸さんの作るご飯は美味いな〜」

『ナナ(うむ)』


 料理上手の陸を称えながら、彼らはサンドイッチを味わうように食べる。

 その時、クロの耳に何か音が聞こえてきた。


『ナナナ?(なんだ?)』

「どうした? クロ」


 食べるのを中断し、どこかを見上げるクロに、晃はその視線の先を辿る。そこには卵の入ったプラスチックケースしかない。

 まさか…と思った晃は、最後のサンドイッチを食べ終え、プラスチックケースを覗き込む。数個ある卵のうちの1つが、コトコトと小さな音を立てて動いていた。

 晃は目を輝かせ、クロを抱き上げる。


「クロ、見てみろ」

『ナナナ?(なんだ?)』

「生まれるぞ」

『ナー?(生まれる?)』


 晃が指差す方へクロが視線を移したと同時、卵の割れ目から子ワニが顔を覗かせた。


『ーー!?』


 その光景に、クロは愕然となる。


 小さくて、白い石のような物から、生命が生まれてくるなど思ってもいなかったからだ。


 子ワニは小さな体で必死に殻を破っていく。

 その姿に晃は「がんばれ、もう少しだ」と小声で励ます。

 そして、子ワニは卵から抜け出せた。

 晃はクロを自分の肩に乗せ、ぴいぴい鳴く子ワニを近くにあった柔らかいタオルで包み込んだ。


「よく頑張ったな」


 優しい眼差しで子ワニに語りかける晃を、クロは不思議そうに見つめる。


 晃は、この小さな生命が生まれたことを心から喜んでいる。

 クロの種族は“親”という存在がいない。いつの間にか生まれ落ち、ただ本能のままに強敵を求めて剣を磨く。

 同種であっても、それは“仲間”ではなく“好敵手”。

 だから、生まれた生命を励まし喜ぶなど考えたことがなかった…。


 クロは生まれたての子ワニに顔を寄せる。

 子ワニはぴいぴい鳴きながら、クロに擦り寄った。

 微笑ましい姿に、晃は顔を綻ばせる。


「ははっ。コイツ、クロを親だと思ってる」

『ナナ…(親…)』

「クロが親だと、めっちゃ強いワニになるな!」

『ナナナ(俺がコイツの親になると、コイツは強くなるのか?)』

「あ、でも尻尾に剣がないから無理だな」

『ナナ…(無理なのか…)』


 クロが残念がる素振りを見せると、晃は「がっかりすんな」と元気づける。その時ーー。


「あーきらくん!」

「どわあああああッ!!」


 後ろから声をかけられ、驚いた晃は派手なリアクションでその場に倒れた。その拍子でクロは机の下に転がり落ちる。


「は!? えっ? だ、誰!」

「もう! そんなに驚かなくてもいいでしょ」

「なんだ、紅葉ちゃんか…」


 急に現れた相手が紅葉だと知って、晃は一安心する。だが、クロを見られていないか少しだけ不安になった。


「紅葉ちゃん。此処に入ったとき、なにか見た?」

「なにって? なにを?」

「ううん。見てないんだったらいいんだ」


 紅葉がクロに気づいていないことに安堵し、晃は彼女がなぜ此処にきたのか尋ねる。


「なんで紅葉ちゃんは此処に来たの?」

「晃くん。いつもは食堂で食べてるのに、来ないから心配して…」

「ああ、そうだったね。ごめん…。ちょっと保育室が気になってね」

「保育室に?」

「うーん…。なんか生まれてくるような感じがして、見に行ったら生まれてた」


 晃はタオルで包んでいる子ワニを、紅葉に見せる。

 実は紅葉、爬虫類は大の苦手なのだが、晃がワニの飼育担当をしているので、頑張って克服しようと努力していた。


「新しい子生まれたんだ。大事にならなくて良かったね」

「うん。元気に生まれてきてくれて安心したよ」


 お前も頑張ったなー、と嬉しそうに子ワニへ話しかける晃の姿が、紅葉には可愛くて可愛くて仕方ない。


(お前が、かわいいんだよ!)


 此処が世界の中心だったらそう叫ぶ紅葉だが、言ったらドン引きされると思い、そこは必死に抑えた。

 微笑ましげに此方を見ている彼女に、晃は首を傾げる。


「どうかした? 紅葉ちゃん」

「ん? 晃くん、かわいいな〜って…」

「へ?」


 可愛いと言われて晃はきょとんとし、われに返った紅葉は慌てて訂正した。


「あ、違う! 子ワニかわいいなって思ったの!」

「なんだ、子ワニか。びっくりしたー。俺みたいな男のどこがかわいいんだって思ったよ」

「そんなこ…。そうよね、男の人に“かわいい”っていうのは変だよね」

「どうせなら“カッコイイ”って言われたい」

(いや、晃くんは“カッコイイ”より“かわいい”だ!)


 晃の願望を、紅葉は口には出さず心の中でばっさり切り捨てた。

 ふと、彼女はある用件を思い出すと、晃にそれを伝える。


「そうだ、忘れるところだった。園長がね、予備のロッカーに替えたって」

「さすが園長。仕事が早い」

「あと、晃くんに頼み事があるんだって」

「俺に?」

「うん。わたしも詳しくは聞いてないけど、園長いわく“晃くんじゃないと頼めない”らしくて…」

「わかった。リュックサックをロッカーに置いてから園長の所に行くよ。言伝ことづてありがとう、紅葉ちゃん」


 晃が満面の笑顔で感謝する。

そんな彼を、紅葉は(やっぱりかわいい!)と心の中で激しく萌えるのであった。



 紅葉が去ったあと、晃は子ワニをプラスチックケースに戻してから机の下を覗き込んだ。


「クロ〜。大丈夫か?」

『ナ、ナ〜(だ、大丈夫だ…)』


 そこには壁に頭をぶつけ、目を回しているクロがいた。

 その姿に晃は笑いつつ、奥に手を伸ばしてクロを引っ張りだし、そのままリュックサックに入れる。


「予備のロッカーが入ったし、リュックサックは置いていこう」


 保育室を出て、管理事務所の更衣室へ行く。

 更衣室へ入ると、自分のロッカーを開け、リュックサックをそこに閉まった。


「俺の仕事が終わるまで大人しくしていろよ、クロ」


 そう呟いてから、晃はロッカーに鍵をかける。

 クロを心配しつつも、彼は更衣室から出ていった。


「あの園長が俺に頼み事か…。なんだろうな」


 理由はわからないが、とりあえず園長室へ赴くことにする。


 この時、晃は気づいていない。


 自分が更衣室から離れていく様子を、遠くから窺っていた怪しい影の存在をーー。

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