6 帰るべき場所

『ヴァジエーニ様、行こう』

 子魂が影の手を引くと、床に座り込んでいた影は導かれるように立ち上がり、部屋の隅の暗がりから明るい方へ、ふらふらと歩いていった。

『何も恐くないよ。私が一緒に行ってあげる』

 遠く離れていく子魂とヴァジエーニ王子の影に、ルナはもう何もできなかった。

『本当にいいのかい? 僕なんかと一緒に行ってしまっても……』

 影が訊ねると、子魂は頷いた。

『私、天国に行くんだよ。天国に行ったらお父さんとメリスお姉ちゃんに会うの』

 ルナは這うようにして、子魂と影の後を追った。子魂と影は、ヴァジエーニ王の寝台へ向かっていく。ルナは部屋の中程まで来ると、もう体が動かなかった。蔦に巻かれたこと。自分の子魂が目の前にいること。手足が震えて、もう寝台には近寄れなかった。

 ルナとセレティ妃が見守る前で、子魂に手を引かれた若いヴァジエーニ王子の影は、病に蝕まれた現在のヴァジエーニ王と向き合った。ヴァジエーニ王はセレティ妃に支えられながら震える手を影の方に伸ばした。さっきルナの頬に触れたように、王は若いころの自分の頬にも触れた。

「元はと言えば君のことに少しも気が付けなかった私がいけなかったんだ。本当にすまなかった。私も思い出したよ。先が見えない将来のことを考えて底無しに心細かった、あの頃の自分を。君があの頃の思い出を守っていてくれていたのだね。ありがとう。どうかもう一度、私のところへ戻ってきてはくれないか? 君がいてくれないと、私も寂しいんだ」

 ヴァジエーニ王子の影は恐る恐る王の方に手を伸ばした。セレティ妃に導かれながら、王の手も王子の指先に触れた。途端にヴァジエーニ王子と子魂の体は竜巻のような風に巻かれ、二人はヴァジエーニ王の胸へと少しずつ吸い込まれていった。風の中へ巻き込まれた子魂は一瞬だけルナの方を向き、にこりと笑った。呆然と送り出してやるしかなかった。

 風が収まると、もう影の姿も子魂の姿もなかった。いるのはただ一人、ヴァジエーニ王だけだった。覚めない夢の中にいるような気がした。

 ヴァジエーニ王はセレティ妃に助けられながら寝台を下り、床に座り込んだままのルナの肩を抱き寄せた。

「ルナ、本当にありがとう。こんなことに巻き込んでしまって、すまなかった」

 ルナはヴァジエーニ王の肩に縋りながら首を横に振った。

「私はもう、体が持たない。息絶える前に、どうしても君に謝りたかった。もう、思い残すことは何もない」

 ルナも子供の頃のようにヴァジエーニ王の背中に手を回した。驚くほど細く、軽い背中だった。

「いかないで、ヴァジエーニ様……」

「すまない、ルナ。私はもう、体が痛くて堪らない。私は王として、自分の民を傷つけるという、絶対にやってはならないことをしてしまったのだよ。もう、いかなければならない」

 ヴァジエーニ王はセレティ妃に抱き起こされながら、彼女の体を抱き締めた。

「ありがとう、セレティ。もう君に、愛していると言えないことが辛い」

 セレティ妃は黙って王の言葉を聞いていた。

「私と一緒になってくれてありがとう。幸せだったよ」

「わたくしもです、陛下」

「後のことはよろしく頼むよ」

「はい」

 セレティ妃に支えられながらヴァジエーニ王はグリフォンのいるバルコニーに出た。ヴァジエーニ王は体の衰えたグリフォンの頬を撫でて言った。

「行こう、グリフォン。私たちはもう、ここにいてはいけないんだよ」

 グリフォンは大きく口を開けて、痩せ細ったヴァジエーニ王の体を呑み込んだ。

 セレティ妃は座り込んだままのルナを抱き締めながら、王の最期を見守った。

 王を呑んだグリフォンは、翼を二、三度はためかせると、真っ直ぐ、高く、矢のように星空へ昇っていった。

 ヴァジエーニ王が崩御した瞬間だった。

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