5 秘密の思い出

 図書館学校に通っていた頃、ルナはよく教室の一番後ろの席に座って授業を受けていた。黒板の字をノートに書きながら、先生の話を聞く。ルナがペンを走らせていると、空席だった左隣に、背の高い大人の腰が見えた。その人は椅子を引き、ルナの隣に座った。ルナは胸をときめかせて目線を上げた。ルナの隣に座ったのはヴァジエーニ王子だった。いたずらな笑顔でルナを見つめ、しぃーと、口に人差し指を当てていた。

「私も一緒に、授業を受けてもいいかい?」

 こそこそした声で訊かれ、ルナはぎこちなくこくりと頷いた。ヴァジエーニ王子が教室に来たことはみんなには内緒だ。ルナはまた黒板を見た。ヴァジエーニ王子はノートを取るルナと黒板とを交互に見ていた。

「ルナはノートを書くのが上手だね」

 そう誉められると、ルナは胸が飛び上がるほど嬉しかった。

「頑張ってね」

 五分ほど授業の様子を見守ると、ヴァジエーニ王子はまた立ち上がり、静かに退室していった。強烈なときめきは、なかなか治まらなかった。

 その日の帰り、濁った雨雲が空を覆っていた。エンデルが燻った気持ちを持て余し、持っていた傘を剣に見立て、王邸前の聖獣の石像を宿敵代わりに、傘を打ち付けていた。勇者になったつもりで夢中で傘を振っていると、背後から静かな足音がした。

「エンデル」

 透き通った声に驚いたエンデルは、肩を強張らせて振り向いた。目の前に、ヴァジエーニ王子が儚げな顔で立っていた。ヴァジエーニ王子はエンデルと目線を合わせて言った。

「お願いだよ、エンデル。その石像を打たないでおくれ。君の傘も壊れてしまう」

 ヴァジエーニ王子に窘められたエンデルは、硬い目で王子を見たまま唇を震わせていた。

「ヴァジエーニ様!」

 エンデルの背後からまた声がして、エンデルは誰かにぎゅっと手を握られた。

「エンデルがいたずらをしてごめんなさい。許してあげて下さい」

 そう言って頭を下げたのは、ルナだった。

「行こう、エンデル」

 ルナはヴァジエーニ王子の返事も聞かないまま、エンデルの手を引っ張って駆け出した。王邸の門を出ると、エンデルはたまらずルナの手を振りほどいて大声で叫んだ。

「余計なことするなよ! お前なんかに何が分かるんだよ、偉そうに! お前なんか大嫌いだ!」

 そう言い残すとエンデルは町へと走り去っていった。ルナは呆然とエンデルの背中を見送ると、しくしくと泣き始め、ヴァジエーニ王子が佇む石像までとぼとぼと戻ってきた。

「ルナ? どうしたんだい?」

 ルナは体を屈めたヴァジエーニ王子の胸にしがみついて、わんわん泣き始めた。ヴァジエーニ王子はルナの頭をゆっくりと撫でた。

「ルナは勇気のある優しい子だね」

「――エンデルに、嫌いって言われちゃった」

「エンデルが友達を嫌いになるなんて、そんなことあるわけないよ」

「私もエンデルなんて大嫌い!」

「おやおや……」

 ヴァジエーニ王子は困った笑顔を浮かべ、幼い子供たちの遠慮のない情感のやりとりを、静かに見守った。

 ヴァジエーニ王子の手の温もりは、大人になったルナの心にもまだ残り続けていた。

「ルナ、起きろ。着いたぞ」

 すっかり大人になったエンデルの低い声に呼び起こされて、ルナは目を覚ました。

「エンデル……もう着いたのか?」

「ああ、もう着いたよ」

「……エンデル、私はもしかしたら、お前に酷いことをしたのかもしれない」

 エンデルは怪訝な顔をして首を捻った。

「……別に何もされてないけど……」

 エンデルはそう言うと、ルナの手を握った。ルナはエンデルの手を頼りに、椅子から立ち上がった。

 懐かしい王邸の庭が、ゴンドラの外に広がっていた。

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