第12章 天の道

前編 おばあさん

 何の変わりもなく一日が終わろうとしていた頃、ルナの自室の窓を、女幽霊のレムが慌ただしくすり抜けてきた。

『ルナぁ、大変よぉ。おばあさんよ。おばあさんが木に凭れて座っているわぁ』

「おばあさん? こんな夜にか?」

『私、嘘なんかついてないわよぉ。背中の丸い白髪頭のころころしたおばあさんが、座り込んで何か独り言言ってるのよぉ。いくら私が脅かしても驚かないし、町に帰りもしないし、困ってるのよぉ。助けて、ルナぁ』

 レムの報告を聞くまで、ルナは老婆の気配など微塵も感じなかった。本当に悪意のない普通の老婆なのだろう。迷い人なら保護しなければならない。

「分かった。様子を見に行くから案内してくれ」

『もちろんよぉ』

 ルナはすぐにノクスとエクラを呼び、指示を出した。

「私はレムと一緒に老婆を迎えに行く。二人は留守番だ。町の巡査とルット先生に手紙を飛ばしておきなさい。夜には来られないが、朝になったら様子を見に来てくれる」

 ノクスとエクラは頷いた。

「ルナ、鞄、ちゃんと持って行ってね」

 エクラは居間の棚に備えている非常用の鞄をルナに渡した。

「ありがとう。二人とも、留守を頼む」

「はい」

「はい」

 弟子二人の返事を聞くと、ルナはレムとともに外へ出た。小屋の玄関で携帯用のランタンに火を灯すと、レムはルナの肩に隠れた。

『嫌だわぁ、そんな明るい火。私、嫌いよぉ』

「すまないな、レム。私はこれがないと夜の森を歩けない。少し我慢してくれ」

『仕方ないわねぇ。今日だけよぉ』

「案内、よろしく頼むよ、レム」

『任せてちょうだい。こっちよぉ』

 レムはふわふわと闇に浮かび、老婆のいる方へ飛んだ。

 森は浅い闇と深い闇だけの景色になって、冷気が漂っていた。視界の利かない夜の森では、枝に足を取られたり、窪みに躓いたりしやすい。歩き慣れていない人だと、川に落ちたり思わぬ高低差に大怪我をする人も多い。余計な危険を避けるため、夜の森へ立ち入ることは禁忌とされている。幽霊のレムはルナの心強い味方で、『あそこは川よぉ』『崖があるわよぉ』と、危険な場所を教えてくれる。レムがいなければ、ルナであっても夜の森へは出られない。

 しばらく歩くと、レムが真っ直ぐ前へ指を指した。

『ほら、あそこよ、あそこぉ。あの木の根元におばあさんがいるのよぉ』

 ランタンを翳して近付くと、レムの言う通り、木の根元に一人の老婆が座り込んでいた。

 レムは老婆の目の前までふわふわと飛んでいき、老婆を脅かそうと、おどろおどろしい声を上げた。老婆にもレムの存在が分かるようで、レムの方に顔を上げ、穏やかにほっほっと笑った。

「おやおやかわいいお嬢ちゃんねぇ」

 鼻と口しか見せていない幽霊のレムに、老婆は平気な顔をして言った。

『かわいいお嬢ちゃんじゃないわよぉ。私は幽霊よぉ。分からないのぉ?』

 老婆は笑うばかりでレムを恐れなかった。お嬢ちゃんと言ったように、この老婆には、レムが子供の女の子に感じるようだった。

「レム、この人はお歳を召されて、レムのことを幽霊だと分からないんだよ」

 ルナは鞄から毛布を出し、老婆の肩に掛けた。

『ええ、どういうことよぉ』

 首を傾げるレムをよそに、ルナは老婆の隣に座り、丸い背中を撫でた。

「おばあちゃん、寒くない?」

 ルナは老婆の娘を演じるつもりで、いつもよりも高く柔らかい声色で呼び掛けた。

「あら、ご親切にありがとう。私はね、大丈夫ですよ」

「喉は渇かない? 少しお水をあげましょうか」

 老婆はすっかりルナに心を許し、ルナがコップに注いだ水を喜んで受け取った。手の力が弱いので、ルナも一緒に手を添える。

 ほんの一口、舌を濡らす程度に水を啜ると、老婆は満足したようにコップを離した。

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