中編 子魂

 あれから数年が経ち、ダンとは一度も再会していない。そんな彼のことを思い出したのは、何かの予兆だったのだろうか。

 昼間でも薄暗いこの森の小屋に、突然、十歳くらいの少年が尋ねてきた。

「ルナさん、僕のお兄ちゃんを助けて」

 出迎えたルナの顔を見るなり、少年は懇願した。

――子魂。コダマなのか?

 ルナは驚きのあまり言葉を失い、目の前の子供を見た。

 色白で頬の丸いこの少年は、ただの人間の子供ではない。記憶の中から飛び出してきた、過去の子供なのだ。

 この子供はもうすでに大人になっている。その大人になった彼が、今、何らかの事情で窮地に陥っており、それを救うために、記憶の中の過去の自分が実体化し、ルナに助けを求めてきたのだ。

 子供の頃の記憶が実体化した存在なので、子供の魂――コダマと呼ばれている。

 世界は広いが、子魂を呼び出せる者などそうそういるものではない。

 そして、この少年の言う『お兄ちゃん』とは、少年の今現在の姿であるダンのことを指している。竜の血を持った彼なら子魂を呼び出す能力も備わっているのだろう。恐らく、無意識に呼び出したのだ。

 ダンは素性を隠して生きている。数年前に会ったときには緑色の髪だったが、今は違う髪色だろう。偽名も変わっているに違いない。

 ルナは子魂に目線を合わせて訊ねた。

「お前のお兄ちゃんに何があったんだ」

 子魂は右手の小指を出した。

「小指を、切られそうになったんだ」

「誰かに襲われたのか」

「うん。それで、僕の弟が王都に助けを呼びに行ったんだ。王様のお陰で逃げることはできたんだけど、この森に入った途端、気を失ってしまって」

「君のお兄ちゃんはこの森にいるのか」

「うん。ルナさんなら助けてくれると思ってここへ来たんだ」

「もちろんだ。すぐに助けに行くよ」

 ルナの返事を聞くと、少年は安堵の笑みを浮かべ、体が透き通っていった。

――お願いします、ルナさん。お兄ちゃんを、助けてあげて――

 実体化の解けた子魂の懇願は、ルナの脳内に直接響いた。

 一度実体化した子魂は、もう主のところへは帰らない。主の記憶を持ったまま消滅していく。ダンの記憶も何か一つ、抜け落ちてしまったことだろう。十歳くらいの頃の、遠い何かの思い出が。

 子魂は『弟』の存在も仄めかしていた。十歳より幼かった頃の記憶も何か一つ失ったのだろう。今頃兄弟二人で手を繋ぎ、天国への階段を昇っているのかもしれない。

 ルナはすぐにノクスとエクラを呼んだ。ダンを助けに行く前に、準備を整えなければならない。

 ノクスは闇の魔法を使って小屋の存在を隠し、ルナと共にダンを迎えに行く。エクラは小屋に留まり、ダンの病床を整える。役割はすぐに決まった。

 ルナとノクスは森へ飛び出した。

 ダンを見つける前に、ルナはノクスに強く言い聞かせた。

「これから私たちが迎えに行くのは、私たちの知っているダンではない。赤の他人だ。いいな」

 ノクスはうなずいた。ここでルナたちがダンのことを知人として接すれば、ダンの存在を証明する手掛かりを、より多く残してしまう。

 ダンが今までどこでどんな旅をしていたのかは分からない。何と名乗っているのかさえ分からないのだ。『ダン』と呼んでもはぐらかされる可能性もある。もとから初対面として接する方が簡単なのだ。

 ダンはすぐに見つかった。艶やかな黒髪を頬に垂らし、すっとした顎すじを見せ、ぐったりと樹木の根本に凭れている。

 呼吸はあるし、指も切られていない。後頭部や額から血を流している以外は、目立った傷もなかった。

 念のため、人に見つからないよう目眩ましの闇魔法を自分たちに掛けておく。闇の靄がルナたちを隠してくれる。

 ノクスがダンを背負い、ルナたちは急いで小屋に戻った。

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