第2章 ワタシ見つけちゃいました……

第5話 臭いの行方

 えっぐ……

 ひっぐ……

 ぐすん……


 とれません。臭いがとれません。水に一晩以上浸したのに仄かなにおいが立ち昇るのです。

 もうワタシの舌はふやっふや。絞れば水が出そうなくらいです。

 覚えてなさいよ飼主。いつかぎゃふんと言わせてやるんだから。今は逆らえないけど、きっと未来のワタシが反逆する。


 ……ああ、ワタシがもっと強かったらなぁ。神様、ワタシに力をください。……なんちゃって。


 ――欲しかったらあげてもいいわよ?


 ……遂には幻聴まで聞こえ出してきた。安易な考えに走って痛い目を見たばかりなのにこんな事を思い浮かべるなんて……。自分の学習能力の無さに呆れかえる。ここはひとつ、変な勘違いを二度としない為にも、思いっきり断ってやろう。馬鹿な自分とはこれでおさらばだ。


 すうっ――誰が欲しがるもんですか! ワタシは今鬼のような人間の相手で精一杯なの。悪魔の誘惑にまで構っている暇なんてないの。分かったらとっとと帰りなさい、この悪魔っ!


 ひ、酷いわ。何もそんな言い方しなくったって――


 それっきり聞こえなくなる声。ワタシは弱い自分に打ち勝ったのだ。

 何故か心の片隅に罪悪感を感じるけど気にしない。今はそれどころじゃないのだ。はやくこの臭いを何とかしないと、本当にどうにかなっちゃう。



 とりあえず外に出てみました。

 え? なんでかって? そんなの決まっているでしょう。部屋でじっとしていると飼主が針ピンをキラッとさせてくるからです。それを見てビクッとなってしまう体を抑えながらじゃ飽きられない方法なんて思いつく訳がない。

 悲しいことにワタシの体には変な癖がついてしまったらしく、自分の体が飼主の要望通りに変わっていくのをひしひしと感じる。

 きっとこれが飼われると言うことなのだ。そのうちワタシ、飼われることに喜びを感じそうで怖いです。

「で、僕を何処に連れていくつもり? 今度はどんな面白いことが起きるのか楽しみにしてるね」

 変わり行く体を憂うワタシとは正反対に上機嫌な飼主。

 なぜいるのかと言われると、逃亡の前科があるワタシは何処に行くにも飼主同伴なのだそうだ。


 臭いで口のなかが辛いのに飼主の監視付きとか……頭まで痛くなってきた。


 だいたい飼主はワタシが面白いことをするために部屋を出たと思っているけどそこがそもそも違う。

 ワタシ、あくまで時間稼ぎで出てきただけだから。ちゃんと飽きさせないようにしてますよと言う格好を繕ってるだけだから。期待されても困る。


 もしかしてワタシ、自分で自分を追い込んでない……?


 ふと疑問が脳裏を過る。でもまあ、気にしない方向で行きましょう。きっとこれ、今考えても駄目なやつだ。

 そんな事を考えてしゅるしゅると廊下を進んでいると階段につく。何となく降る方を選んで一階へ。玄関の側に出た。


 ――しまった。あれは外へと繋がる扉! 下手にに近づくと逃亡を疑われる。ここは急いで方向転換だ。


 逃亡の意志がないことを訴える為に玄関に背を向けると飼主の手に針ピンががが――!


 ビクッ――! 分かってる! 分かってるからそれしまってよっ! 別に逃げようなんてしてないでしょ。勘違いしないでよね! 早とちりで死んでくれたらどうすんのっ。


 もはや気分は飼い犬だ。手綱で繋がれている訳ではないのに、行動がしっかりと制限されている。

 でも犬には成り下がりたくない。あんな誰にでも尻尾を振る畜生とワタシは違うのだ。蛇は気高く美しく。人に慣れても懐かない。そんな孤高の存在でありたい。

 白い体をくねらせて、まだ開けたことのない新しい扉を目指す。

 飼主の様子をちらちらと伺いどの扉を開けるか探るが、針ピンの気配はなし。どの扉を開けても問題は無さそうだ。

 一番手近な扉の前で少し巨大化。取っ手を咥えて中へ。

 すると、中には緑が広がっていた。

 一面に広がる緑と鮮やかな花々。その中心に女がいた。

 ワタシを不思議な力で癒したあの女。よくよく観察すると女は、自分の背丈ほどはありそうな木彫りの像に祈っていた。

「ちっ。そう言えば今はあの時間だったか。蛇、他行くぞ」

 女を視界に納めて不機嫌そうな飼い主。ご機嫌斜めなので、ここは素直に言うことを聞くべきだろうが敢えて攻めてみる。


 だって、あの女なら、この臭いを取り除けるかもしれないから!


 ワタシの負っていた傷を一瞬で完治させたのだ。なら舌に染み付いた臭いを消し去るくらいはわけないはず。きっとできると思いたい。

 臭いを抱えたままじゃ纏まる考えも纏まらないのだ。飼い主がワタシに飽きるまでの時間がわからない今、消せる心配事は減らした方がいいだろう。

「おい蛇! そっちには行かないって……まあ、しょうがないか」


 おや? 割りと慄きながら走り出してみたが、意外と飼主の静止が弱い。理由はよく分からないが、これは絶好の機会だ。逃す手はないだろう。


 振り返ることなく女に向かって一直線。ワタシは気づいて欲しくて女の背後で巨大化する。

「私に何か用事?」

 幸先の良い事に女はすぐにワタシに気付いた。では、さっそくこの臭いをとってもらうとしましょう。

 巨大化した尾の先っぽで伸ばした舌をちょんちょんと指し、臭いをとってと訴える。

 これがワタシにできる最大の意思疎通手段なので、伝わらなければお終いだ。蛇であるワタシに人間との会話はとても困難なのです。

「えっと……とても大きな舌ね?」


 ブンブンブン。

 

 尻尾を振って否定する。そうじゃない。水でふやけすぎてちょっと大きくなっているけど治して欲しい異常はそこじゃない。

「違う、みたいね? だったら……虫歯?」


 ヒュンヒュンヒュン。


 違う。遠くなった。思わず尻尾を振る速度が速くなる。もはや口の中程度にしかあっていない。

 

 あーもうっ! もどかしい。どうやったら伝わるのかしら。いっそのこと女を口の中に押し込んで無理やりこの臭いを嗅がせてやろうか。


 ……うん? 無理やり嗅がせる? 流石に女を咥え込んだりしたら何をされるか分からないけど、嗅がせるだけならなんとかなるかも。

 冴えた思い付きが舞い降り、ワタシは女の眼前で大きく口を開け――そして思いっきり息を吐きかける!


 ハアー

 ハアーっ

 ハアーっ!


 意志が届かないなら直接息を鼻に届かせればいいじゃない。我ながら素晴らしい思い付きだ。

 舌に染付いた臭いを吐く息にのせるように意識して、女の鼻に向かって吐息を繰り返す。そのかいあってか――

「うっ……臭い。あなた、かなり……いえ、ちょっとだけ口臭が酷いわよ」


 違うわっ! 何一つ伝わらなった! いや、確かに臭いはちゃんと伝わったけどそうじゃない。臭いのは舌! 舌だから! 決してワタシの口が臭い訳じゃないから!


 尻尾を地面にビタンビタンと打ち付けて苛立ちを表現する。もうこうなったらいよいよもって女を口に咥えるしかない。息を止めて口の中に閉じ込め、舌で舐め尽してしまえば――

「……え? あ、そういうこと。あなた、舌の臭いを取り除きたかったのね」


 そう、正解! やっとわかってくれたのね。伝わってないと思った時はどうしようかと頭を抱えたけど、分かっているならさっさと言いなさいよ。もう、無駄に悩んだじゃない。


「でも、神様の力に消臭の効果があるかはわからないわよ? そんな事の為に使ったことないから」


 そ、そんな。……いいえ、それでもいいわ。今は、できる事をしたい。お願い。


「……なら試してみるから舌を出して」

 女の言葉に従い舌を伸ばす。

 ワタシの舌に両手をかざす女。仄かな光が一瞬だけ煌めき――はじけて消えた。

「どう? 臭いはとれた?」

 期待にはやる心を落ち着けて、舌を口の中に戻す。

 ――嗅覚ヤコブソンが悲鳴をあげた。

 

 ああ……駄目だった。もうワタシ、この臭いと一生付き合って行くんだわ……。


 臭いと共に広がる絶望感。期待が大きかっただけに反動もすごい。もう全てがどうでもいい。

「……無理だったみたいね。可哀想だけど、臭いに関しては他をあたって。私達にできる事はもうないわ」

 落ち込むワタシに女が冷たく告げる。でも、なにも言えない。結果が伴わなかったのは女のせいではないのだから。

「――にしては思いやりが足りないんじゃないか」

 そこにかけられたのは飼主の声。今まで空気だったやつが急にしゃしゃりでてきた。


 は? 何意味わかんないこと言ってんの? 引っ込んでなさいよ飼主。鬼はあんたでしょ。ワタシの悲しみを邪魔しないで。


「どういう意味かしら? 本来、同族以外に向ける必要のない慈愛を私はこの子に向けたのよ。それも力を使ってまで。私の鬼としての生き方に文句を言われる筋合いはないと思うのだけど」

「だから、そう言うところが気に食わないんだ。自分で言っていて気が付かないのか? おまえは決して慈愛の鬼なんかじゃない。名乗るならもっと別の名を名乗れよ」

「――いくらあなたが私の婚約者でも、許せる事とそうでないことがあるの。訂正しなさい」

「嫌だね。何度だって言ってやる。お前は絶対、慈愛の鬼なんかじゃない」


 …………え?


 急転直下。突如にして二人の雰囲気が険悪になる。

 助けられた時から感じてはいたけど、この二人仲が悪すぎる。と言うか今、婚約者って言った? 婚約者ってあれでしょ。人間同士がする番の宣言みたいな奴でしょ? 何考えてんの。人間の機微なんてほとんど分からないワタシでも分かるわ。この二人が番になるとか不可能だって。托卵以外で二人の子どもができる未来が浮かばない。

「……ねえ。あなたはどうして私のことをそこまで嫌うの? 私はいつも婚約者としてあなたの事を好きになろうとしているのに。なのにあなたが私に向けるは苛立ちと拒絶ばかり。将来が決められた者同士、もっと分かり合いましょうよ」

「――っ! 分かり合える訳なんてないだろう……。

 おい蛇! 今度こそもう行くぞ。そんなに臭いを気にしているならすぐにでも消してやる。だからさっさとついてこい」

 女に苛立ちの声をあげたかと思うと飼主は強い語調でワタシに移動を促す。ここまで機嫌の悪い飼主は初めてだ。これ以上の機嫌を損ねないように素直についていこう。

 恐怖で従順なワタシは飼主の後を付いて行く。でも、蛇ながらに思う事が一つ。


 ――あんた、臭い消す方法もっているなら最初から教えなさいよ! 無駄に動いて無駄に落ち込んだじゃない。木張りの床の上移動するのって結構冷えて辛いんだからね! もっと蛇を労わりなさいよ。


 無駄と分かっているから主張する。相手の機嫌が悪くても堂々と怒鳴り散らせるのは言葉の通じない蛇の特権といえるだろう。

 だけど、例え言葉が通じていても今のワタシの言葉は飼主には届いていなかったかもしれない。なぜなら、

「そんな辛そうな顔している奴が俺達と同じ生き方を決めた鬼? ふざけんな。今、楽しそうにできない奴が鬼を名乗るなよ……」

 飼主の声がとても悲しみに満ちていたから。

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