第4話 ワタシの中のヤコブソン

 飼われ始めてからはや数日。

 正直に言いましょう。この生活、悪くない。寧ろ良い。結構良い。なんなら快適だ。だって敵はいないし、食べるものには困らないし、寝床も完備。天国はここにあった。

 たまに飼主がこちらをじっと見て来るけど気にしなければそれまでのこと。ちょっとの我慢で素晴らしい生活が可能なら許容できる。あえて無視することも一つの処世術だ。

「この蛇、今日も動く気配がないな……もう少しだけ様子をみるか」

 そんな心構えだったからでしょう。ワタシは飼主の変化に気が付かなかったのです。



 とある朝。

 ぱちりと目が開きます。普通なら軽快な目覚めの第一歩。ですが、どうしてかそんな風には思えません。何故でしょう?

 差し込む陽ざし。

 ワタシを見下ろす飼主。

 吸いつくように密着する白い寝床。

 いつもと同じ風景です。とくに変ったとこ……ろ……は……

 

 なんか寒い!?


 あった、ありましたよ。一見しては分からなかったけど、一感して分かった。この部屋――いや、この寝床ちょう寒い。

 しかも、よくよく観察すれば寝床とワタシの体の接着面が凍っている。こんなの寒くない訳がない。


 え、なんで!? どうしてワタシの体凍りかけてんの!? 


 あまりの事態におろおろが止まらない。寝起きでとんでも展開とか勘弁してよ。

「あ、起きたか。もうちょっと気づくのが遅かったら凍り漬けにできたのに」

 そこに届いたまさかの告白。原因は飼主だった。


 な――なんてことしてくれてんの! 蛇に向かって氷漬けとか正気!? 簡単に凍死するわよ! 変温動物なめんな!


 感情の赴くままに文句を迸らせる。だけど、当然飼主に届く様子は無し。無駄とは分かっていたけど、無性に腹が立ってくる。


 大体なんで氷漬け!? あんた標本狂いじゃなかったの? それとも標本狂いって行き着くと氷漬け狂になるの?


 喚き散らしてみるが応える様子はなし。それどころかニヤリと笑ってワタシに両手をかざす。途端に強まる冷気。体が一気に凍えだす。


 ざぶっ! まずい、このままじゃ凍り付く前に体が動かなくなる。こうなったら――巨大化! 


 パキパキと浸食し始めた薄氷を砕きながら体積を増大させる。

 飼主に見下ろされていたワタシの視線が飼主と同じ高さになり、ついには見下ろす。こうしてみれば、飼主の何と小さなことか。呆けた顔に思わず笑いがこみ上げる。

 ワタシがここまで大きくなれるとは思っていなかったのだろう。大きく目を見開いて、ただワタシを見上げるだけの飼主――否、小さな人間。それを見てふと思う。


 ――このまま飲み込んでしまおうか、と。


 思い出されるのは先程までの仕打ち。蛇を蛇とも思わぬその所業は万死に値すると言えるだろう。ならば、天誅が下るのは自明の理。ワタシがそれをくれてやってもいいはずだ。


 死ね――


 暴君と呼ばれたこの力。それをただの人間一人に集中させて、開いた咢を――閉じる。

 ぐしゃり。

 響いたのは肉が潰れる音。

 そして口内に溢れかえる血の味と生臭さ。


 ああ、いつ以来の生の味だろう――

 生の――

 なま、の……?

 あれ? なんか口の中が……口の中の感じが……


 僅かに感じる違和感。それに気が付いた瞬間、意識が弾けた。


 くっさっ! 臭いクサイくさいぃぃぃ!


 腔内に広がる今までに嗅いだことのない香り。その臭いが口の中に充満し、ワタシの中の嗅覚ヤコブソンを蹂躙する。

 あまりの臭さにのた打ち回るワタシ。なんだこれはなんだこれは。

「うわはははっ! へ、蛇が百面相してる! 顔が虹みたいだ!」

 吐けもしない何かを吐こうと嘔吐き、息苦しくなっては喘ぐワタシを見て、飼主が笑い転げる。


 確かに食い潰したはずなのにどうして――


「いひひひ――うは、いはは、はあ。ああ、苦しかった。蛇、おまえ最高だよ」

 一通りワタシの醜態を見て落ち着いたのだろう。引き攣るようにしていた笑いを収め、ようやっと飼主が立ち直る。こっちはまだヤコブソンが悲鳴をあげているというのに憎らしい。

「うん? なんだ不思議そうにして。僕を殺したとでも思ったのか? だったらそれは勘違いだ。僕を――僕たちを殺せる奴なんていないんだから。残念だったな」

 睨め上げる事しかできないワタシをにやにやと笑う飼主。口にした意味はいくらも理解できなかったが、事実として一つ分かった。ワタシは逆らう相手を間違えたのだ。

 それもそうだった。ワタシが太刀打ちできない生物で溢れかえっていたこの森で、飼主は生活しているのだ。ワタシが歯向かえる道理などなかった訳だ。


 ワタシの馬鹿。安易な考えに走るんじゃなかった。こうまで反攻してしまったんだ。もう命はないだろう。


 そう命の幕が下りる時を覚悟していたワタシに飼主が続ける。

「でも、そんなおまえに朗報をあげよう。この醜態と生態に免じて、標本化はまた今度だ。明日からも僕を楽しませてくれよ?」

 ニカっとそれはそれは良い笑顔を浮かべてワタシに微笑みかける飼主。そこに飼い蛇に噛まれた嫌悪感は微塵もなかった。


 ……え? 標本化しないの? つまり、ワタシ……助かった?


 まて、待つんだワタシ。この間も同じようなことを思ってこんな目にあっているんじゃないか。ワタシは何かをまた見落としている。きっとそうだ。思い出せワタシ。

『油断も隙も無いな。せっかく手に入れた面白いものを逃がすとこだった。

 ……やっぱり生かしたまま楽しむのは難しいや。気を付けないと』

『今度はぴくりともしなくなったなこの蛇……。もしかしてさっきの打ち所が悪かった? せっかく生かして楽しもうと準備してたのに……。しょうがない、死んじゃったなら標本するか』

『と、とりあえず生きてるみたいでよかった。これから楽しませてもらうから。……できれば気持ち悪くない方向で』


 もしかして、もしかして!? でも、さっき確かに飼主はこうも言ってた。


『でも、そんなおまえに朗報をあげよう。この醜態と生態に免じて、標本化は今度だ。?』


 つまり……ワタシ、飽きられたら標本ころされる――!?


 でも、そう考えると色々納得できる。

 急に標本化を止めたのは、ワタシの脱皮という生きている間しか見られない特徴を見たから。

 ワタシを飼う気になっていたのにまた標本しようとしたのは、ワタシが何もしなさ過ぎて興味を失ったから。

 そして、再度標本を急に止めたのはワタシが臭いに苦しむ姿が面白かったから。

 全ては飼主の気分次第。ワタシの命は飼主のさじ加減一つだったのだ。


 くそっ、何が天国だ。こんなの地獄のほうが生易しい。興味を引き続けないと落命だなんてどんな拷問だ。厳しいにも程がある。

「さて、ところで蛇。標本化は先延ばしにするとして、これでも僕は一応おまえの飼主なわけだから、躾は必要だと思うんだ。どう思う?」


 うるさいっ。今それどころじゃないの。今後の生き死について考えてるんだからそっとしといて! ワタシを甚振りたければ甚振ればいいじゃないこの変態。今さら飼主変態のお悦び一覧表に加虐趣味が追加されたって大した影響ないから。死体大好きっ子の段階でもう詰んでるから!


「うん。殊勝に僕の躾を受け入れようだなんて関心じゃいか。それじゃあ――」


 んぐっ!


 何をどう都合よく勘違いしたのか、新鮮な空気を求めて出し入れしていたワタシの舌を掴み、臭いにやられて倒れていたワタシの頭を自分の傍に引き寄せる。


 い、痛い! 躾って……いったいワタシの舌になにするつもりよ!?

 まさか、舌を縦に引き裂くつもりじゃないでしょうね!? やめてね? それはやめてね? 蛇の舌先が割れてるのは裂きやすくする為じゃないからっ! 切れ込みじゃないんだから!


 戦々恐々と飼主の挙動を警戒していると、飼主は何処からか桃色をしたのり状の何かを取り出した。

「これが何だか分かるか? 原料はとある魚でそれをまるごと磨り潰すとこれができるんだ。で、これをこうしっかりと塗り込んで……」

 念入りに、それはもう念入りに手にした魚のすり身をワタシの舌に塗り込む飼主。ワタシのポンコツ警戒心が最大限の警報を鳴らしだす。

 手を放す飼主。だが、本能が舌を引っ込める事を拒否する。この舌は口にしてはいけない。

 しかし現実は無情。飼主が一度は放した手を伸ばしワタシの舌を無理やり口に収めようとする!


 や、やめて! さっきまでずっと引っ張ってくせに! 引っ張るなら引っ張り続けなさいよ。押し込むとか最低! 自分の都合ばっかり考えないでよ!


 舌と手がせめぎ合う。けれど所詮は舌。ワタシの舌筋は飼主の腕力に押し負けた。

 口のなかに帰って来る舌。その瞬間、強烈な臭いが広がる。


 これは――あの臭いの元凶!


 言葉で言い表せない激臭に再度もだえ苦しむ。


 やっぱりか! なんでこんな目に遭わなきゃいけないの。ワタシがなにをしたっていうんだ。舌が、舌が腐ったように臭いっ! ワタシの中のヤコブソンが死んじゃう! 

 お願い、誰か助けて――!

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