レナードの朝食
ニュールブラン市の北東の外れに、市警で所有する独身寮がある。
おもにキャリア五年未満の若い男性が入寮し、当然のことながら家庭を持ったら退寮するということになっている。
駅近で家賃も格安という好条件に加え、市警本部からは距離があるという精神面でのゆとりも幸いして職員たちには非常に人気のある物件である。
なかには役付きの、そろそろ部下も増えてきた中堅刑事だというのに一向に出ていく気配のないものもいるが。
こんこん――。
せむしの男をめぐる事件の証拠品を無断で持ち出したことが問題となり、沙汰として減棒三ヶ月と十日間の自宅謹慎を仰せつかったレナード・ヴィンセントの朝は遅い。
街はすっかり動き出しているというのに、まだ布団のなかだ。
こんこん――。
誰かがドアをノックしているのは知っている。
だからどうした。
俺は眠いんだ。どうせ働かなくてもいいと会社(市警)のほうからいっているんだ。
普段さんざん馬車馬のようにこき使われている身。
謹慎のときくらい惰眠を貪らせてくれ。
ヴィンセントは居留守を決め込むことにした。
ベッドのうえで寝返りをうち、頭から毛布を被って耳障りなノックをシャットアウトする。
「ちょっとおとうさん。いるんでしょ!」
がばっ。
声が聞こえた瞬間、ヴィンセントはベッドのうえで飛び跳ねた。
毛布を蹴り上げ、床を滑り。
身体を泳がせながらも何とかドアのまえにたどり着くと、握力の限りを尽くしてドアノブを掴んだ。
いつもは半開きがやっとの双眸をまん丸にして、ゴクリと生唾を呑み込む。
無精ひげを伝って冷たい汗が滴り、玄関の床材に小さなシミを作った。
落ち着け自分――。
意を決して内鍵を解除し、ゆっくりとドアを開く。
「おそーーーーーーーーーーい! いつまで待たせんのよ、このグズ!」
そこにいたのはひとりの少女である。
年の頃なら十二、三才といったところか。
ヴィンセントとおなじ濃いブラウンの髪が、すでに昇り切って久しい太陽の光をはらんでキラキラと輝いていた。
焼きたての長いバゲットの入った紙袋を抱えて、呆気にとられたヴィンセントの顔を見上げている。
キリリと吊り上げた形のいい眉に、血筋の良さが現れていた。
「ミリア……父親に向かってグズはないだろう。そんなとこだけ母さんに似なくていいよ」
「髪はおとうさんに似なくて良かったわ。そんなモジャモジャで生きていけないもの」
サラっと長い髪を手ですくって、少女は――ミリアは屈託のない笑顔を見せた。
彼女は続けてクンクンと部屋のなかの匂いを嗅いだ。
可愛らしい鼻がぴくぴくと動く。
「ちゃんと禁煙してるみたいね。よしよし」
「……玄関先じゃなんだ。入れよ」
「いわれなくも」
ヴィンセントの「よ」が言い終わるか否かというタイミングだ。ミリアは我が物顔で部屋のなかへと入ってきた。
その堂々とした背中を見やり、鬼の警部補は納得いかない顔でドアを閉める。
「けっこう片付いてるんだ」
「ものが無えだけだ」
「そうともいうわね。よし。女の影はなし、と」
「おいおい」
ミリアは部屋の隅々まで見渡すと、今度はまっすぐにキッチンまで足を延ばした。抱えていた紙袋をテーブルに置いて、なかから卵やトマトやらの食材を取り出す。
「ねえ、これって精霊石のコンロだよね?」
ミリアは調理台の焚き口を開いて、火かき棒を差し入れた。
なかからチャラチャラと炭化した精霊石の澄んだ音が聞こえる。
「そうだけど、何がはじまるんだよ」
なかば答えなど分かっているが、ヴィンセントはあえて聞いてみる。
自分の娘ながら、行動が何かと唐突すぎるのが玉に瑕だ。
まだ寝起きで鈍っている頭を掻きむしり、そんなせん無いことを考えていた。
「決まってるでしょ。ご飯作ってあげんの」
だろうね――。
ヴィンセントは声には出さず、胸の裡でそう答えた。
ミリアは焚きつけの新聞紙にマッチで火をつけると、そのまま火室へと投げ入れた。
精霊石にはあっという間に火がついて、調理台はすぐに加熱される。
コンロには火力を調節できるツマミが付いており、煮炊きするのに丁度よい火加減が手元で調整できるので便利だ。
これもまた精霊石が一般に普及した恩恵である。
一時期、天然ガスを家庭にまで配管を用いて引いてくるという事業があったが、精霊石ブームの陰に隠れていまいち盛り上がっていないようだ。
これもまた口さがない古い錬金術師にいわせると、ワットソン・カンパニーの陰謀なのだという。
ヴィンセントは子供のころから、この手の話を耳にタコができるほど聞いてきた。
「水は?」
「水道出るよ」
「お。さっすがお役所の建物ね。うちはまだ地下水をポンプで汲み上げてるよ。きゃは」
いちいち生意気な反応をする彼女が、今日初めて年相応の顔になる。
蛇口をひねって水が出るという事実に対して、純粋に感動しているようだった。
ヴィンセントは椅子を手にして、背もたれをまえに座り身体を預けた。
久しぶりに見るわが子の笑顔に殺伐とした心が癒されていく。
男くさい独身寮の部屋。
次第に彼女の淹れるコーヒーの香りで満たされていった。
「とりあえずそれ飲んでて。トーストと目玉焼き、それからスープを作るから」
「ん――」
ずずず。
薄いうえにコーヒーの粉が表面に浮かんでいる。風味なんてあったもんじゃない。
まったく――うまいもんだ――娘の淹れてくれたコーヒーは。
「でー。うちでなんかあったのかー」
父親のために朝飯を作ってくれている小さな背中。
半熟の目玉焼きをつつく、フライ返しを持つ手が一瞬止まって「べつに」と一言だけこぼしまた動き出した。
ヴィンセントもそれ以上は聞こうとしない。
再び粉の浮いたコーヒーへと視線を移し、久々に感じる『家庭』の匂いを味わった。
「できたー!」
しばらくしてテーブルのうえにミリアの愛娘料理が並べられる。
けっきょく焼き過ぎでクズクズになった目玉焼き。
スライスできずに潰れてしまった付け合わせのトマト。
ベーコンの塩味がきつ過ぎるスープ。
ただ力任せに引き千切った野菜をてんこ盛りにしたサラダボウル。
そしてバターを塗った黒こげのなにか。
「どうぞ」
「おまえ……食べないの」
「私は家で食べてきたから」
「あ、そう」
とはいえ最愛の娘が朝から一生懸命作ってくれたご飯である。
こと目玉焼きを食べて出る咀嚼音ではないが、バリバリという景気のいい音を立てて、ヴィンセントは次々と皿のうえを片付けていった。
「おいしい?」
「うん」
「嘘ばっか。おとうさん、嘘つくとき首触るからすぐ分かる」
娘にいわれて自分が首筋を掻いていることに気づき、すぐ手を引っ込めた。
苦笑いをするも、ミリアがそっぽを向いてしまう。
彼女の視線の先には、壁に掛かったシワだらけのレインコートがあった。
ヴィンセントが年がら年中袖を通している愛用品である。
いい加減くたびれてはきているが、持ち主に捨てる気はないようだ。
「……おかあさん。彼氏できたみたい」
「ぶっ」
ちょうど黒こげのパンを食べているタイミングだった。
思わず娘の顔に向かって吹き出しそうになり、慌ててコーヒーで胃の腑へと流し込む。
ミリアの形のいい眉が、いつにも増してつり上がった。
どうやら冗談ではないらしい。
「まぁ……別れて一年以上経つからな。そういうこともあるだろう」
「いいの?」
「いいも悪いも……もう夫婦じゃねえしな」
「そんなこといって、おかあさんから貰ったレインコートまだ着てるじゃない。ほんとは未練たらたらなんでしょ」
ヴィンセントは何も答えなかった。
ただ黙々と、目のまえにある愛情あふれるミリアの手料理を口に運ぶ。
時折むせて涙目になってはいるが、そんな彼の事情など娘はお構いなしだった。
「やっぱり生活力がないからかなぁ。顔は悪くないと思うのに」
「うるさいな。やっぱおまえ帰れ」
「あ。うそうそ。ちょっと待って!」
父親の軽口を真に受けたわけではないだろうが、ミリアは慌ててテーブルから離れ、来たときに抱えていた紙袋から何かを取り出して戻ってきた。
それは少し大振りなノートであった。
表紙にはサイン帳と書かれている。
「おとうさん、魔女さまと知り合いなんでしょ? お願い! サインもらってきて!」
「は?」
「ねえ、いいでしょお。おーねーがーいー」
ミリアはおのれが知る「可愛い仕草」の限りを尽くして、ヴィンセントに懇願する。
彼女のこんな様子は見たことがなかった。
どうやら、どうしても魔女のサインが欲しいらしい。
彼女と彼女の母は、ヴィンセントと違ってサムザ公国の生まれである。
そのため魔女メイルゥには並々ならぬ想いがあるのだ。
ヴィンセントは呆れながらも、わが娘にも可愛いところがあるものだと安心した。
父親として一緒に暮らすことを放棄してしまった罪悪感も手伝って、彼女にはできる限りのことはしてやりたいとつねに思ってはいるが――。
「分かったよ。サインな。今度貰っといてやる」
「ほんと! 学校で自慢していいっ」
「ああ」
「やったぁ!」
わが娘ながら現金なものだ。
すぐ隣で飛び跳ねているミリアを見ると、自然と目が細くなる。
やれやれ――。
ヴィンセントは思わず首筋に手を当てて、かぶりを振った。
「ああああああああああああああ! おとうさん嘘ついてる!」
「え? あ、ちが、これはっ」
「もうやだ! おとうさんなんか知らないっ!」
捨て台詞を残して、ミリアは勢いよく玄関ドアを開けて帰っていった。
嵐のように現れて、嵐のように去っていく。
年頃の娘の気持ちが分からないおとうさんは、しばしその場で固まったまま身動きが取れなかった。
手元に残ったサイン帳に視線を落として、ため息をひとつ。
仕方ない――アレに頼むか。
疲れた脳裏に浮かんだのは、近頃、魔女のところに入り浸っていると聞く新人女性刑事のゆれるお団子頭だった。
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