第12話 ルブラン子爵邸
ふたりを乗せた馬車が停まったのは、ひとけのない寂れた集合住宅のまえだった。
道すがら眺めてきた建築物がそうであったように、その場所もまた見事な木造四階建ての古風なアパートメントである。
さきに降車したブラックは御者から踏み台を受け取ると、馬車の乗降口のしたにそれを置いてメイルゥの手を取った。
「ここか」
玄関先に降り立った魔女は思わずそう口にした。
ルブラン子爵。
外様とはいえかつては大公妃を輩出した名家であり、恐れ多くもサムザ国王とは姻戚関係ということになる。
いまや所領の多くを国家に返納し、自治権すら民間の手に委ねて表舞台から退いたと聞く。
時代の流れと言ってしまえばそれまでなのかも知れないが、王族の末席に名を連ねる一族が住まうにはあまりにも慎ましやかな邸宅ではなかろうか。
メイルゥの内奥はいま、なんとも言葉にできない感情に支配されていた。
玄関先までの短い階段をゆく足取りが重いのは、きっと加齢だけのせいではないはず。
階段を登り切りと、ブラックはゼンマイ式の呼び鈴を鳴らした。
ジリリリリ――。
あまり心地のよい音色とは言えないベルが止むと、しばらくして玄関口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
ドアの向こうに立っていたのは、お仕着せ姿の老婆だった。
彼女は老齢から曲がった背を軽く伸ばすと、メイルゥに対してカーテシー(お辞儀)をする。
「ようこそおいでくださいました、閣下」
しわがれた声でそう言うと、さっそくアパートの奥へとふたりを招き入れた。
建屋のなかは集合住宅としての名残りはあるものの、壁にかかる絵画や床に敷かれた赤絨毯などで装飾が施されており、粗野な印象は一切受けなかった。
また至るところに設置されたガス灯の明かりが、木の温かみをより一層引き立てている。
通常の屋敷であればまずは客間に案内されるところであろう。
そこでホスト側の主人の準備を待って、しかるのちあらためて応接間へと通される。
「閣下、お召し物を……」
しかし老女中はとある一室をまえにして、メイルゥからローブを預かった。
どうやら相手はすでに自分をもてなす準備ができているらしい。
「お連れの方はこちらへ」
ブラックは一度、メイルゥと視線を合わせる。
彼女が無言で首肯すると、寡黙なガンスリンガーは老女中とともに別室へと消えていった。
ふたりの背中を見送ったメイルゥは「ふむ」と小さなため息をひとつ。
おもむろに目の前のドアノブをつかんだ。
ガチャリ――。
古い年月を感じさせる金具の音が、静まり返ったアパートの通路に響き渡る。
開け放たれたドア。
メイルゥは室内へと身を投じた。
そこは独身の炭鉱夫が寝起きするには十分過ぎるほどの広さを持った部屋だった。
もしかすると家族向けの住居として使われていたのかもしれない。
右手側の壁には隣室へとつながるドアなしの開口部もあり、ふと瞳を閉じれば在りし日の入居者たちの生活音が聞こえてきそうだった。
しかしいまはもう誰もそこにはいない。
ただよく使い込まれた日用の調度が並び、小さな窓から陽光が差し込んでいる。
メイルゥはそこにアパートの主であるルブラン子爵の姿もないことを訝しんだが、壁際に置かれた一脚の椅子に心を奪われた。
正確に言えばそのうえに立て掛けられた一枚の絵画にである。
キャンバスではなく木の板に直接描かれているため、長年による乾燥のため表面が反りはじめており、絵具もところどころはがれていた。
サイズも椅子に乗る程度のもので、さほど大きくはない。
それをして描かれている人物たち――ニコライ三世とシエナ妃の表情はあでやかであった。
メイルゥは「おお……」という小さな感嘆をもらす。
愛用の杖を突きつつ、ゆっくりと肖像画のそばへと近づいていった。
構図はちょうどルブラン美術館で見た巨大な絵画と瓜二つ。
経年により絵具の彩度は落ちているものの、使用されている色も人物たちが身にまとう装束も寸分たがわぬものだった。
メイルゥは懐かしさにいつしか時間を忘れ。
ただぼんやりと絵のなかのふたりの姿に見入っていた。
「久しぶりのご対面はいかがですか」
しばらくして隣室のほうから声が掛かる。
一体いつからそうしていたのか。
メイルゥが声のしたほうを振り向くと、そこにはひとりの紳士がいた。
歳の頃なら四十過ぎ。
こざっぱりとした髪型だが、顔に似合わぬ若白髪が目立つ。
そして彼の身体的な特徴を語るうえで、なにより外せないのは――。
「こんな姿で失礼いたします、伯爵さま」
パイプフレーム製の車椅子に腰掛けていたことだった。
青白いながらも凛とした表情。
キリリと整った目鼻立ちに、メイルゥはかつての領主たちの面影を見た。
間違いない。
ルブランの血筋だと。
「おそばへ行ってもよろしゅうございますか」
「……許そう」
貴族にとって序列は誇りである。
そこに傲慢さも卑屈さもあってはならない。
普段からすべてのものに対しフランクに接するメイルゥだが、こうした貴族とのやりとりの際はマナーとして彼らの一歩引いた態度を尊重している。
ゆえにさっきの老女中とも一切言葉は交わさなかった。
それがプロの仕事に対する礼儀でもある。
男は隣室から現れた老女中に車椅子を押され、メイルゥと絵が対峙しているテーブルまでやってきた。
すると彼はメイルゥの手を取り、おもむろに甲へと口づけをする。
「お初にお目にかかります。ルブラン当主デニス・カーマインと申します」
「メイルゥだ。きょうはお招きに感謝するよ、ルブラン卿」
「まずはどうかお掛けください。マーサ、あとは私がやるからしばらくふたりにしておくれ」
デニスからマーサと呼ばれた老女中はメイルゥのために椅子を引くと、そのまま浅いカーテシーを残して隣室へと消えて行った。
テーブルのうえにはすでに配膳もされている。
老いたるものの共感もあったか、その見事な仕事ぶりにメイルゥは惚れ惚れとした。
「ご挨拶が遅れましたことをお許しください」
デニスは手ずから紅茶の支度をしながら、そう語った。
すぐに爽やかな香りがテーブルのうえを漂い始める。
まごうことなきロイヤルティーの香りである。
「どうしてもその絵と閣下だけのお時間をご用意して差し上げたかったのです」
どうぞ――。
窓からこぼれる日の光を反射して、ルビーに輝くカップが出される。
メイルゥはそれをティーソーサーごと持ち上げると、静かに香りを楽しんだ。
「粋なことするね。最高のもてなしさ。感謝するよ」
「もったいないお言葉です」
「美術館ではこの香りには出会えなかった」
「いらっしゃったのですか」
「ああ」
一口含む。
懐かしい宮廷での生活が蘇るようだった。
そしてかたわらには「ふたりの肖像」がある。
匂いには、閉ざされていた記憶のふたを容易に取り除く作用があるようだ。
「この絵。やはりおまいさんが持っていたんだね」
「多くの家財を失いましたが――その絵だけは手放せませんでした」
「ありがとうよ。やっと再会できた」
何気ないメイルゥの言葉に、子爵は微笑みを浮かべる。
しばらくは他愛もない会話が続き、やがて紅茶も冷めていく。
そして――。
「ルブラン卿」
「デニスとお呼びください」
「ではデニス。率直に聞くが、いまの貴族たちのことをどうお考えだい」
「それは――」
デニスは一度言葉を切った。
文字通りにえりを正すと、コホンとひとつ咳払いをする。
「彼らの素行のことをおっしゃっていますか」
「なにか――知っておいでかい?」
ふさがりかけたまぶたの向こう。
とても老人とは思えぬ鋭い眼光が壮年の子爵を貫いた。
だがこの男も大したもので、涼しい表情を崩さぬまま身じろぎひとつしない。
「平時において貴族とはただの無駄飯食いに他ならない。たかだか先祖が君主に身分と土地を与えられただけのこと。もはや戦もない近代では、平民に食わせてもらっている卑しい身分だ」
「そこまで言うかい」
「父が亡くなり、家督を継いだときに心底思いました。閣下はご存知でしょうか。近代化により若者は都市部へと集まり、跡継ぎのいない農家が次々と廃業していることを」
淡々と語られるデニスの現代社会観。
メイルゥは無言のまま、かたわらに立て掛けてある「ふたりの肖像」へと目をやった。
カーマインの名が示す通りの真っ赤に燃える髪色の娘。
デニスの無遠慮な物言いは、あの勝気な少女とのおしゃべりを思い出させる。
「これからただでさえ先細る彼らのあがりを支配階級のものが吸い上げる。そんな理不尽さに嫌気がさしてずいぶんと農地を処分したものですよ」
「それは殊勝な心掛けだね。で、領主の座まで降りておまいさんには何が残った」
「……なにも」
デニスは冷めてしまったティーカップを持ち上げると、不敵に笑った。
「いまの私の財産と言えるのは、その絵と掘りつくされた鉱山。そしてマーサだけです」
「その割には面倒見がいいじゃないか。不良貴族の尻ぬぐいまでしてやってるって?」
「七代も爵位を継いでおりますと、色々としがらみも多うございますので……」
「ふむ。では聞きかたを変えよう」
メイルゥもまた冷めてしまった紅茶を一口含んで、乾き始めた唇を湿られた。
双方ともに優雅な振る舞いでカップを置くと、魔女はおもむろに問う。
「おまえ、ひとの肝を食らったね」
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