第5話 走り屋シーシー
流れゆく景色はうっそうとした森を抜けて、次第に赤レンガの街並みへと変わっていった。
汽車とも違う蒸気自動車のスピード感。
けっこうな速度で直進しているというのに、風はゆるやかに後方から巻き込んでくる。
これは前方から吹き付ける強風や飛来物をよけるために装備された「風防」によって乱気流が発生しているからだ。
物としては細い木枠に建築用の板ガラスをはめ込んでいるだけなので当然割れやすい。
だがシーシーはそこへさらなる鋼材の筋交いを施して強度をあげている。視認性は多少落ちるが未舗装の道路を速く走るには必須の工夫なのだという。
いままたメイルゥの亜麻色の髪を、ふわりと風がさらっていく。
彼女は薄紅色の頬にまとわりつくそれを、軽く伸ばした小指でそっと払った。
「自動車か。なるほど悪かないね」
ハンドルを握るシーシーの隣で、来た道を振り返りながらメイルゥはうなった。
「あたしが一時間近く掛けて登った山を、あっという間に下りてきちまった。魔法だってこうはいかないよ。大したもんだ」
「魔法使いがそれを言っちゃうんだ」
いつになく饒舌なメイルゥを横目にしながら、シーシーが笑う。
灰色の瞳が、愛用のゴーグルのなかで楽しげに揺れている。
「技術の進歩には素直に敬意を払うさ。あんたら錬金術師がこの国にこぞってやってきたときだって無下にはしなかったろう?」
「だから錬金術師は祖父さんの代までで、おれは――」
「走り屋だ、って?」
車体のふちに肘をついて、少女姿のメイルゥが流し目を寄越す。
さしもの色男もこれには一瞬心を奪われ、うっかりハンドルを切りそこなう。
コッペパンと彼女が評した緑色のボディが歌うように軋りをあげた――。
「女たらしのダニーったらこの国じゃ有名だよ。あの頃サー・ダニエルに声を掛けられたってのは、女どもの間でちょっとしたステータスだったのさ」
とある事情でふたりが別荘を発つことになる少しまえ。
メイルゥは本棚から見つけたオルゴールを胸に抱いて、シーシーにそう語って聞かせた。
「ま、もっともヤツの基準じゃ、たいがいの女は『愛しのお嬢さん』だったけどね」
「ひどい言われようだけど確かに祖父さんのことらしい。女性は分け隔てなく平等に口説け、とガキの頃に叩き込まれたもんだ」
「……いつ亡くなった」
「10年前。ツァッグの戦いが終わってすぐさ。事実上の終戦を見届けると眠るように逝ったよ」
「そうかい……」
オルゴールを見つめるメイルゥの横顔が自然と哀愁を帯びていく。
戻らない日々。
窓から差し込む陽光に照らされ、潤んだまつ毛も瞬く間に乾いていった。
「あーお嬢……じゃなった。メイルゥさんよ」
「うん?」
「感傷的になってるとこ悪いんだけど、これからちょいと仕事があるんだ」
「おや。昼間は暇してるって話じゃなかったのかい」
泣き顔を見られまいと誤魔化すようにして目元を拭い、メイルゥは手にしたオルゴールを一度もとあった本棚へと戻した。
落ち着いて見れば、書架の奥にはまだまだ色んなお宝が眠っているのに気づく。
これは査定のしがいがありそうだ――やっと気合いを入れようかというところだったのだが。
「先方さんの都合らしくてね。これからすぐ荷を預かって来なくちゃならない。なにかと名残り惜しくはあるんだけども、なんというか、ね」
「いいさ。こっちも突然押しかけちまったしね。『運び屋』って言ったかい。あんたの仕事ってのは」
するとシーシーは憮然とした態度で「チッチッチ」とメイルゥの鼻先へ指を振る。
「本業はあくまでもカーレーサー。副業とはいえ『運び屋』呼ばわりはいただけないな」
「じゃあなんてのさ」
「スピードの虜になった奴らは自分たちのことを誇りを込めてこう呼ぶ。『走り屋』とね」
恍惚とした表情でそう語るシーシー。
一方、思い出に涙したのも束の間、メイルゥはそんな彼を細目で射る。
「本業ねぇ……どんだけ達者でも稼ぎがなけりゃ生業とは言えないよ。それにどんな仕事にも誇りはあるんだ。それを忘れちゃいけない」
「う……」
「で、なにを運んでるって?」
「……と、それは依頼人にもよるなぁ」
一度へこまされたものの、気持ちの切り替えが異常に早いシーシーは指を折って過去の仕事を辿っている。
そのしぐさを見てまたメイルゥは、在りし日の彼の祖父を思い出した。
いくらフラれてもへこたれなかった、あの憎めない色男のことを。
「金、薬、密造酒。ときには銃もさ。非合法でね――軽蔑したかい」
ちらとメイルゥを見る。
ブロンドの若造は、どこか叱られることを望んでいるかのようでもあった。
だがメイルゥはゆっくりと首を振る。「いいや」と。
「全部分かって覚悟のうえでやってんなら勝手におしよ。ただ――この国を、サムザの民を泣かすようなことがあったら、そのときは容赦しない」
美しい少女の顔が刹那の合間に魔獣となる。
シーシーはごくりと息をのんだ。
涼しい表情を崩さないが、内心はどうだろう。
首元から噴き出す脂汗が止まらない。
「だ、だったら――」
やっとのことで絞り出した言葉は、メイルゥの予想を裏切るものだった。
だからなおさら笑顔となって。
「その目で確かめるといい。おれがこの国を泣かすような男かどうか」
ほほう――。
言うじゃないかと口にしかけて、魔女はしばらく黙り込む。
永遠のような数秒間が、禁断の小部屋を支配した。
「それでは見せてもらおうか。走り屋の仕事とやらを――」
それから数分後。
ふたりは濃いグリーンのボディをした蒸気自動車に乗って別荘をあとにしたのである。
やがてたどり着いたのは、駅にも近い港湾区画の倉庫街だった。
もっとも内陸国であるサムザには海はない。代わりに旧王朝領から流れ込む長大な河川や運河の支流がいくつも存在している。
鉄道網の発展によりいまでこそ陸路が主流となった輸送手段も、かつては内陸水運によって賄われていた。ひとつの巨大な国家であった旧王朝領にはそもそも国境というものがなく、当時は非常に簡単な手続きで貿易が可能だったことも、河川港が賑わった一つの理由である。
そしていま。
ようやくはじまった旧王朝領での鉱山開発のおかげで、陸路よりも圧倒的にコストが抑えられる船舶での大量輸送が再び注目されようとしている――。
「ここだ」
複雑に入り組んだ港湾区画内、トロトロと愛車を走らせていたシーシーが言う。
停まったのは鮮魚加工施設のまえだった。
現在は使われていないのか、あたりにはひとけがない。窓も内側から目張りがされ外からでは建屋のなかをうかがうことは出来なかった。
颯爽と車から降りたシーシーは、腰巻きにはいているツナギのそでをギュッと締め直す。
それを見てメイルゥも「よっこらしょ」と助手席から腰を下ろしたが、まだ動いたままになっている自動車を眺めて、自称・走り屋を呼び止めた。
「ちょいと。こいつはこのままでいいのかい?」
シーシーは振り向きざま「ああ」と生返事をしてから一度足を止めた。
「一回火を落とすとボイラーの圧力をあげるのに時間が掛かるからね。まだ燃料の精霊石も水もたんまりあるからそのままで平気だよ」
「ふーん」
ポコポコという愛らしい音を立てながら青白い排気煙をあげる車を見送り、ふたりは待ち合わせ場所であるという鮮魚加工施設のなかへと入っていった。
「ずいぶん遅かったな。あんたが例の『運び屋』か?」
建物のなかに入るといきなり、ガラの悪い向こう傷の男が嫌味を投げてきた。
シーシーは一瞬だけ肩を怒らせたが、そこはそれ。いたって大人の対応で『運び屋』というワードも華麗に聞き流す。
「ちょいと野暮用でね。その分は走りで埋め合わせるさ」
「ケッ。こっちは高い金払ってんだ。保護者同伴の観光気分は勘弁願うぜ」
「あ? 保護者だ?」
男の悪態を訝しんだシーシーが振り向くと、そこには見知らぬ老女が立っていた。
杖を片手に、それでも背筋はシャンと伸びて。
唖然とする彼に向かって、メイルゥはあごを突き出し「いいから話を進めろ」と促した。
「いやこのひとは……こ、こっちのビジネスパートナーだ。気にしないでくれ」
「び、びじ? ……ま、どうでもいいけどよ」
聞きなれないシーシーの言い分を適当にいなした男は、建屋の隅に向かって「おい」と言う。
天窓からの明かり以外に照明もないため、あたりは真っ暗だ。
ドスの利いた男の声が、やたらと広さだけはある空間にこだまする。すると暗がりから複数の人影が現れた。それは両脇をゴロツキに抱えられたひとりの若い女だった。
「今回の『荷』だ。これをいまから指定するところに――」
猿ぐつわを噛まされた女が必死に抵抗している。
後ろ手に縛られ、破れた衣服の隙間から真新しい青あざがのぞく。ボカンと腫れあがった目元からは涙を流し声ならぬ叫びをあげていた。
「うるせえ!」
男はそんな彼女を容赦なく殴りつける。ゴロツキに拘束され、よけることすらできない彼女はそのままぐったりと膝から崩れ落ちた。
「おとなしくしてりゃあいいものを暴れやがるから、いらん生傷が増えるんだ。なあ、あんたもそう思うだろ?」
下衆な笑みを浮かべて男はシーシーに問い掛ける。
懐から取り出した吸い掛けの葉巻から、パラパラと汚い葉くずがこぼれた。
「ん? 点かねえな、クソが……」
向こう傷の男はさっきから繰り返しマッチを擦っていた。
しかしいっかな火種は点こうとしない。まるでマッチが自らの意思でそうしているかのようである。
メイルゥが静かに一歩、足を進めた。
固い地面に愛用の杖が突き刺さる。
だが――。
「この仕事は受けられないな」
その一言に、メイルゥの歩みが止まった。
シーシーは首をコキコキと鳴らすと、いままでのうっ憤を晴らすかのように唾をはいた。
「反吐が出るぜ、この三下が。とっととその娘を置いてツラ消せ」
「なんだと……てめえ……」
「今回だけは大目に見てやると言ってるんだ。サツの世話になるまえにズラかんな」
「舐めてんじゃねえぞ小僧……」
男は折りたたみナイフを取り出すと、わざわざそれを舌で舐める。
凶刃は陽光を跳ね返し鈍く輝いた。
「その向こう傷は自分で粗相したのかい?」
ちょいちょいと。
自分の顔を指でなぞってシーシーが男をあおる。すると案の定。
「死ねやあああ!」
まるで引き絞った弓が放たれたかのよう。
お定まりのセリフと共に、向こう傷が飛び込んできた。
悪漢はナイフを低く構えるとシーシーの腹を目掛けて勢いよく斬り込んでくる。
対してツナギをおしゃれに着こなすブロンドの放蕩息子は、その場で軽いステップを踏んで華麗に身をかわした。
初太刀を外した向こう傷の男は、目標を失いつんのめる。
一方、すでに態勢を立て直していたシーシーが、無言の手招きによってさらに男をあおった。
頭に血が上った暴漢は、もはや野生動物と同じである。
猪突猛進。
シーシーにとっては格好のシチュエーションだった。
「ほい、ご苦労さん」
ナイフごと突き出された男の右腕は、シーシーに絡めとられて肘関節を決められた。
同時にシーシーは相手の懐へと飛び込み、足の甲を踏みつける。
さらに取った右腕を後ろ手に回しながら、相手の膝を裏側から蹴り込んで組み敷くと、相手からナイフを取り上げてしまった。
これらを一挙動で行い、息ひとつ荒げることもない。
「く、くそっ! おめえら! ババアを狙え! 逃がすな!」
こともなげに男を制圧したのも束の間。
悪知恵に長けた悪党は、若い女を捕まえていた手下に向かって、メイルゥを人質に取るように指示を飛ばす。
慌てたシーシーは「まずい!」とつい声を荒げてしまった。
「メイルゥ逃……」
だが相手は救国の魔道士と呼ばれた当代最強の女傑である。
この人物の心配なぞ、この世の誰にできようか。
「なんだい?」
のんきな口振りとともに、若い女を介抱しているメイルゥの姿がシーシーの目に飛び込んでくる。足元には、それぞれ顎と鼻骨を砕かれて昏倒しているふたりのゴロツキが。
「は、はははは……」
「徒手空拳とはやるじゃないか。それも祖父さんの手ほどきかい」
「いや、これはむかし――」
奇妙な面の男が――と言い掛けて、シーシーの言葉は、猿ぐつわを外された若い女の悲痛な叫びによってかき消された。
「い、妹をっ、妹を助けてくださいっ」
自らもズタボロにされているにもかかわらず、それでもなお妹の安否に心を砕く姉の愛。
メイルゥは無言で立ち上がると、つかつかシーシーに組み敷かれている男のもとへとやってきた。そして地面に転がっている折りたたみナイフを拾い上げ、その刃先をもはや抗うことすらできずにいる悪党の眼下に突き立てたのである。
「まどろっこしいのが嫌いでね。このまま片目を失うか、あの子の妹の居場所を吐くかだ」
「だ、誰がてめえなんぞに――」
「そうかい」
その瞬間、メイルゥの指先はなんらためらうことなく男の下まぶたを貫こうとする。
「わああああ! たんま! いう! いうからああ!」
「遠慮おしでないよ。まだ片っぽ余ってんだから、もうニ、三押し問答できるじゃないか」
さっきと言ってることが違うじゃないか――男を組み伏せているシーシーの表情にはそうありありと浮かんでいる。
男はもう半死半生の思いであろう。全身から脂汗が止まらない。
「じゃあ聞くだけ聞こうか?」
「き、汽車だよっ。もうじき駅から出るっ。う、嘘じゃねえよおおおお!」
男の絶叫に呼応するように、河川港と隣接している駅のほうから汽笛が聞こえた。
もはや一刻の猶予もならぬ。
メイルゥはその場を立ち上がると、思い切り悪党の頭を蹴飛ばした。
呻くことすらなく気絶した向こう傷の男。
脱力した彼を解放すると、シーシーはそのまま若い女の肩を抱いた。
「もう大丈夫。大丈夫だよ」
「い、妹をっ――妹をっ……うぅ……」
ふたりが建屋を出ると、すでにメイルゥは自動車の助手席へと乗り込んでいた。
その姿は再び10代の快活な少女に戻っていた。
彼女は杖を振り上げ、遥か遠くの空にたなびく蒸気列車の排煙を指した。
「サー・チャールズ!」
魔女の一喝。
その凛とした
「あたしから『走り屋』への依頼だ。あの汽車追って
しばらく茫然としていたシーシーだったが、かたわらで感涙する若い女の姿を目端でとらえてやっとのことで理解した。
メイルゥにとってなんの得にもならない人助け。
それをこのひとは自分に手伝えと言っているんだと――。
自然と口の端が持ち上がる。
地の底から這い上がるようにして彼を襲った、得体の知れない震えがピタリとやんだ。
「イエス、マイレディ!」
磨き上げられたグリーンのボディに蒼天が映り込む。
いつになく赤々と燃える火室のなかの精霊石にシーシーは気づくことはないだろう。
だがしかし、たぎるボイラーの圧力は彼らを異次元のスピードへといざなう。
『メイルゥ閣下、またもや悪党を成敗――いたいけな姉妹を救う』
その見出しが大きく紙面を飾ったのは、翌々日の朝刊のことであった。
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