第3話 早摘みチェリー


 朝方のぐずついた天気が嘘のよう。

 カラッとした晴れ間ののぞく街並みに「待ってました」と洗濯物がはためいた。


 風は穏やかに流れ、太陽はどの家にも優しく降り注ぐ。

 この好機にメイルゥ商会の屋根も、大量のシーツやおしめで賑わっていた。


 かつての廃屋もいまでは歓楽街の中枢とまで周囲に思われている節がある。

 メイルゥにしてみれば不本意極まりないが、長い坂道をのぼった先に見えてくる『魔女の館』を誰もが尊敬のまなざしでもって見上げているのだ。


 そんなメイルゥ商会から、今日はなにやら甘い香りが漂っていた。

 バーカウンターのすぐ隣側に、暖房用を兼ねたオーブンがある。

 天井でくるくると回っているシーリングファンが部屋中の空気をかき混ぜ、オーブンで焼かれている菓子の匂いをあたりに振りまいているのだ。


 いつもは「本の森」のなかで一日の大半を過ごしている黒猫サラも、興味津々の様子。

 安楽椅子に揺られて焼き上がりを待っているメイルゥの膝のうえに乗って、オーブンのなかをのぞき込もうと背を伸ばす。


「ちょいと邪魔だよ、このお転婆。手紙が読めやしない」


「だってさぁ~。ばあちゃんが料理出来るなんて知らなかったから、超気になるじゃん?」


「失礼だね。これでも200年から女やってんだよ。パイのひとつくらい焼けるさね」


 一週間ほど留守をして、溜まりにたまった郵便物を仕分けながらメイルゥが言う。

 それでも「にゃあにゃあ」とサラがなにやら反論していると、二階から誰かが降りてくる足音がした。ブラックだ。

 銃を握らせたら並ぶものがいないとまで言われる、当代随一のガンスリンガーである。


 見た目からして勇ましい彼ではあるが、今日は肌着に短パンというラフな格好。しかも小脇に洗濯かごまで抱えていては、よもやそんな危険人物だとは誰も思わないだろう。


 誰はばかることなく偉丈夫と称えられる彼ほどの男が、しかし安楽椅子に揺られる妙齢の魔女に向かって声を震わせる。

 カタンと、床に洗濯かごを取り落してまで。


「ばあさん……一体何を……」


「あん? 見りゃ分かんだろう。パイ焼いてんだよ」


「……料理……できたのか……」


「ひっぱたくよ、どいつもこいつも」


 床に転がる洗濯かごを拾い上げるとブラックは、そのままカウンター隅にそれを置いた。

 続けざまに陳列棚から一本のボトルを取り出すと、メイルゥに向かって掲げ「飲むか?」と声を出さずに問いかける。


 メイルゥが静かに首を横に振ると、ブラックは自分用にひとつだけグラスを作り、そいつを一息にあおった。

 ふぅ……と小さなため息をひとつ。

 気持ちを落ち着けようとしているのか、それでもまだ信じられないという表情だった。


 腑に落ちないメイルゥ。

 すがめた冷たい視線が彼を射る。


「……それにしてもどういう風の吹きまわしだ?」


 やっとのことで口を開いたブラックの問い掛けに「どうってこともないけどね」とメイルゥは返した。


「ミナス村でフレッドのお袋さんに馳走されてるうちに、なんだか里心がついちまってね。ま、あたしにゃそもそも故郷なんてもんないけど、ちょいと昔を思い出したのさ」


「……チェリーだな?」


 鼻を利かしたブラックが言う。

 ようやくメイルゥが料理をしているという事実を受け入れようとしているらしい。


「早摘みのチェリーさ。帰ってくる途中に朝市に寄ってね。調子のいい八百屋のダンナにうまいこと買わされちまったよ」


 悪態をつく割りに彼女の表情は明るい。

 サラの背を撫で、満足げに安楽椅子を揺らしている。


「じきに焼ける。ブラック、テーブルの支度を頼むよ」


 無言でうなずいたブラックは、フロアにあるテーブル席のひとつに洗いざらしのテーブルクロスを広げるのだった。


 しばらくして甘いパイの匂いに加えて、挽きたてのコーヒーの香りが室内を包む。

 メイルゥ自慢の琥珀の一杯。

 温められた白磁のカップにゆっくりと注がれてゆく。


「ほらできた」


 分厚いミトンで抱えるように手にした焼き皿のうえ。

 ほどよく焦げた生地とバター、そして主役の早摘みチェリーが優しいゆげのなかで、ダンスを踊っている。

 ぐつぐつと煮える音さえも、名演奏家の奏でるアンサンブルの調べだ。


 かぐわしい芳醇な小麦の香り。

 メイルゥはまだ冷めやらぬ焼き皿に顔を近づけ、肺いっぱいの空気を吸った。


「か、閣下……」


 そんなタイミングである。

 白銀の体毛に首からうえを覆われた紳士がやってきたのは。

 驚きのあまり、右の眼窩にハメた愛用のモノクルを落っことす。

 スイングドアのまえに立ち尽くすやいなや、かつてない震え声を絞り出した。


「そのパイ……まさか閣下が作ったなんてことは――」


「おまえらいい加減におし。そろそろ本気で泣くからね」


 せっかくの気分を害され「ふんっ」とそっぽを向いてしまったメイルゥは、ルヴァンに対してだけ「おまえにはやらない」とへそを曲げる。


「そんな殺生なっ」


 慌ててこうべを垂れる獣面の怪紳士に、妙齢の魔女はぺろりと舌を出した。


「さっさとお座り。いま切り分けてやっから」


 フロアに置かれた柱時計の針は、ちょうど正午を指している。

 テーブルのうえには切り分けられたチェリーパイと淹れたてのコーヒーのほか、瑞々しいサラダボウルに大きな生ハムの原木。


「黄色が欲しいね」


 と、食卓の彩りを考えてメイルゥは秘蔵のチーズを持ってきた。

 足もとではすでにサラがチェリーパイを食べ始めている。「行儀が悪いね」とすこし眉根を吊り上げながらも、メイルゥはやっと自分の席につく。


「さあ、お食べ」


 同席するふたりの男たちの顔を交互に見やると、自らもコーヒーカップを傾ける。

 鼻腔を駆け抜ける淡いローストの香りに、旅行疲れも吹き飛ぶようだ。


 仕込みの代わりにナイフを手にした人狼卿。

 サクッといい音を立ててパイ生地に沈み込む刃先をながめると、二度目のびっくり。モノクルはもうとっくのとうに外していた。


 真っ赤なチェリーのジュースがしたたる一切れを頬張ると、凶悪なオオカミが愛らしい子犬の表情をのぞかせる。


「うまい……」


 普段、口数少ない名うてのガンマンもこれには声を出さずにいられなかった。

 双方とも、フォークを動かす手が止まらない。


「どんなもんだい」


 してやったりという顔をしたメイルゥに、ルヴァンもブラックもお互いを見合わせ苦笑した。

 参りました――ふたりがそう口にする。

 機嫌をよくした魔女は、あらためて満足そうにパイを頬張るのだった。


「しかし驚きました。閣下がその……ここまで器用でらしたとは」


「そりゃどういう意味だい」


 切れ長の瞳をギラつかせて、またぞろルヴァンに睨みをきかせると、仕分けの続きをしていた手紙をパシンと机上にたたきつける。

 金色のシーリングワックスで封がされた、香水つきの書簡だった。


 恐縮したルヴァンはまた、人懐っこいあの笑顔で失言を誤魔化そうとする。「いやいや」と他意のないことを強調してから「いつもは外でお食事を済ませているから」と答えた。


 そばで聞いていたブラックもこれには同意と、「うんうん」とうなずいている。


「この歳まで生きてるとね、さすがにもう気合い入れて料理って気にもならないわさ。よそで済ませられるんならそれに越したこたぁないし、子供たちの世話もブラックがいるからね」


 そう言ってコーヒーを一口挟むと、まんざらでもなく頬を緩ませる。


「ま、たまにはこういうのも悪くないね。一家団らんってのもさ」


 ふと熱い視線を感じて顔をあげると、ふたりの同席者がまるで母親を見るような目で自分を見ていることに気が付いた。


「なんだいなんだいっ。そろいもそろって暑苦しい目で見るんじゃないよっ」


 照れ隠しにフォークをチーズに突き立てる。

 足もとではサラがチェリーパイのおかわりを催促していた。


 のどかな時間が過ぎてゆく。

 時計の針は、かれこれ一時間を刻もうとしていた。


「姐さん、いますかい?」


 食事もいい加減終わろうかとしたところに、暴れナイフのジョニーが現れた。

 入店するなり、テーブルに一切れだけ残されたパイを見つけて「お、うまそうっすね」と断りもなくかじり付く。


「こりゃうまい! どこの店のパイっすか?」


 メイルゥたちは顔つきあわせて、くっくと笑っている。

 ひとり状況が飲み込めないジョニーだけが「な、なんすか」と困惑した表情だ。


「なんの用事だい。盗品の質入れなら間に合ってるよ」


「ちょちょ、姐さーん。もうそういうのは足洗ったって言ってるじゃないすか。ちゃんとした仕事っすよ、ちゃんとした。田舎から戻られたっていうから、すっ飛んで来たってのに!」


「仕事だぁ?」


「へぃ。ちゃんとした金貸しの依頼っすよ」


 手癖の悪いジョニーは、言いながらもカウンターから勝手に持ち出してきたワインで、残り物のチーズと生ハムを胃の腑へと落とし込んだ。


「知り合いのボンボンなんですがね。ちょいともの入りで、なんとかいう祖父さんの代から引き継いだ『部屋』を丸ごと買い取ってほしいと言って来てるんでさぁ」


「部屋?」


「へぃ。そいつが言うにはわんだーなんとかって」


「それを言うならヴンダーカンマーだよ。驚異の部屋っていってね。古い金持ちの間で流行った物集めの道楽さ。博物学の前身研究って話もあるが……それを丸ごと?」


「だ、そうです」


「ふん……」


 一通りの話を聞き終わると腕組みしたメイルゥは、物憂げな表情で空になったコーヒーカップを見つめる。


「先方の名前は?」


「本名は知らねえ。仲間内じゃシーシーって呼ばれてます。凄腕の自動車乗りでしてね」


「自動車?」


「ご存知ありやせんか。蒸気機関で走る、馬なしの馬車みたいなもんでさぁ」


 ふとメイルゥがルヴァンに目配せすると「さよう」とひとつ首肯する。

 ブラックにいたってはすでに後片付けを始めており、カウンター奥のキッチンへと姿を消して久しかった。


「ご存じないのも無理はない。サムザではまだ交通法が定まっておりませんからな。レールに頼らず自由に動ける機関車とお思いなさるといい」


「その自動車を馬のかわりに競馬場で走らせるレースがありましてね。シーシーはそれに参加するレーサーなんでがす」


「あ、それなら知ってるよ。王室のじゃじゃ馬娘に連れられて観たことある。そうかい、あれが自動車ってヤツか」


 開封済みの手紙を一枚ひらひらと舞わせると、眉間にしわを寄せながらメイルゥは言った。


「外国じゃあんなもんが街中を走ってんのかい。おっかないねぇ」


「あの……閣下……もしやそのお手紙は……」


 ルヴァンが恐る恐るそうたずねると、さして気にするでもなく手にした書簡を封筒に納めながらメイルゥは答えた。「ああ王さまからだよ」と。

 金のシーリングワックスには、しっかりとサムザ公国の紋章が刻まれていた。しかも金の蝋封は国王以外に使うことが許されない。

 つまりは王、直々の文書であることを意味している。


「こんな中途半端な都会の風俗街に、国家レベルでしかやり取りされない封書が……」


 呆気にとられているルヴァンのモノクルが、本日二度目の落下をする。


「おっかねえのはどっちですかっ」


 ジョニーも腰を抜かした。

 一方、そんなことはどこ吹く風のメイルゥは、彼のためにとコーヒーを淹れなおしにカウンターへと席を立つ。


「面白い。詳しい話を聞こうじゃないか。そのシーシーとやらの」


 細口のケトルを手にして不敵に笑う。

 熱湯にさらわれ、ドリップフィルターのうえで渦を巻くコーヒーの粉。

 それはまるで時を刻む、柱時計のゼンマイのようにも見えた――。

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