第89話 選択
手を繋いだまま、庸一と黒は夜の砂浜を歩く。
「なんか、二人だけってのも久々だな」
「そうじゃな」
「昔は、ずっと二人だったのになー」
「うむ」
「こうしてると、静かなもんだ」
「お主が厨二病だった頃は、二人だけでも随分と騒がしかったもんじゃがな」
「厨二病だった頃言うな……前世の件が本当だって、もうわかっただろ?」
「くふふ、じゃからと言って当時の印象までは覆らんよ」
「そうかい……」
ゴミ一つ落ちていない綺麗な浜に響くのは、波の音と二人の会話の声のみ。
「そういや、中学の頃にもこのプライベートに連れてきてもらったよな」
「うむ。お主はこんなところに来てまでトレーニングばかりで、こんな風にゆっくりとした時間は全くなかったがの」
「う……砂浜って、良い鍛錬環境だからさ……」
「くふ、構わぬよ。そんなお主をただ眺めるだけの時間も、妾は嫌いではなかった」
「そう……か」
月明かりに照らされる黒の愛おしげな微笑みに、庸一はトクンと心臓が跳ねるのを自覚した。
それこそかつて同じ浜で見た彼女は、庸一からすれば子供以外の何者でもなかったというのに。
いつの間に、こんな大人びた表情を見せるようになったのか。
それは、きっと。
いつから、という明確なきっかけがあったわけではなくて。
少しずつ、成長してきた結果なのだろう。
庸一は、黒のことを見ていたようで本当の意味ではちゃんと見ていなかったことに今更ながらに気付いた。
「あー、っと。アレだよな」
少し沈黙が続いてしまったことに気付き、庸一は慌てて話題を探す。
「暗養寺家のプライベートビーチって、他にもあるんだよな?」
「うむ、世界の各地に所有しておる。ここが一番近いがの」
「やっぱすげぇよなー」
「代々の当主が凄いだけで、妾はそれを享受しておるだけの身に過ぎんがな」
「ははっ、お前の立場でちゃんとそう完璧に切り離して考えられてるだけですげぇよ」
「それもお主のおかげじゃよ、ヨーイチ」
「えっ……?」
思わぬ言葉に、目を瞬かせる庸一。
「お主と出会う前の妾は、『暗養寺家の次期当主』でしかなかった。否……『暗養寺家』でしかなかった、と言うべきか」
黒は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「妾という個など存在せず、在るのは暗養寺としての歯車のようなもの。妾がそれに疑問を覚えることはなかったし、そんな発想さえもなかった。暗養寺に全てを与えられ、暗養寺に一生涯の全てを捧げる。それは当たり前すぎて、自覚以前の問題じゃった」
じゃが、と黒は続ける。
「お主が、妾を外の世界へと連れ出してくれた」
微笑んで。
「お主が妾を『暗養寺黒』にしてくれたんじゃよ、ヨーイチ」
黒は、繋いだ手にギュッと力を込めた。
「ははっ……んな、大げさな」
庸一は笑おうとしたが、口元が上手く動かない。
「大げさなものか」
一方の黒は、とても自然な微笑を浮かべたままだ。
「今にして思えば、家の者もあの頃の妾が良くないことはわかっておったんじゃろうな。様々な場所に連れて行かれた記憶があるが……所詮それも暗養寺によって用意されたもの。妾の心が動くことはなかった。そして、暗養寺の者以外で妾に本当の意味で近づくような命知らずなぞ存在せんかった」
その微笑みが、少し深まる。
「お主を除いて、な」
「まぁぶっちゃけ、俺は当時そんなの知らなかったしな……魔王が転生してんじゃねぇかって思いでいっぱいだったし」
「……もしも」
ふと、黒が真顔となった。
「もしも全てを知った上で、あの時に戻ったとすれば」
真紅の瞳が、庸一を見上げる。
「お主は、今と異なる選択を取るか?」
問うてくるのは、透明な表情。
「……そうだな」
庸一は、真剣にその仮定を考える。
「少し、違った選択にはなるだろうな」
答えは、すぐに出た。
「お前を止める、じゃなくて」
とても、簡単なことだったから。
「友達になろう、って言うよ。魔王じゃなくて、暗養寺黒に」
今の記憶を持ったままタイムスリップすれば、間違いなくそうするという確信がある。
「くふふ」
黒は、どこかくすぐったそうに笑った。
「ならば、その世界の妾も幸せじゃな」
そして、また愛おしげに微笑む。
出会った頃からは考えられないくらいに、コロコロと表情が変わるものだ。
黒はそれが庸一のおかげだと言うが、庸一自身としてはそこまで自分の与えた影響が大きいだなんて自惚れてはいない。
ただ……少しでもその助けになれたというのなら、心から嬉しく思う。
だから。
「えー……その、アレだ」
沈黙を恐れるように……というよりも、事実恐れて。
「明日も浜で遊ぶか? 裏の山の方に行ってみるっての手だけどさ。あっ、モーターボートとかもあるんだっけ?」
「それは後ほど、魂ノ井と天ケ谷がいる時に話せば良いじゃろう」
「そ、それもそうだな」
庸一は、何か話題はないかと頭をフル稼働させる。
「そうだ、じいやさんって……」
「ヨーイチよ」
それは、決して強い語調で発せられた言葉ではない。
だが、有無を言わさず庸一を黙らせるだけの何かがあった。
「気を使わずとも良い、何の件かはわかっておる」
それは、きっと。
「返事を、聞かせてくれるのじゃろう?」
黒の、覚悟。
「……あぁ」
ゆえに、庸一もようやく覚悟を決めた。
「黒」
ここまでずっと繋いだままだった手をそっと離して、黒と真正面から向かい合う。
「ありがとう」
真紅の瞳を真っ直ぐ見つめながら、まずはそう伝えたかった。
「黒の気持ちを聞いて、最初はただ驚いただけだったけど……時間が経つにつれて、それが嬉しさに変わっていった」
本心からの言葉を、送る。
「それで、考えたんだ。俺にとって、黒はどういう存在なのか」
それは、あの日からずっと考え続けていたことだった。
「黒は、友達で、相棒で、尊敬出来る相手で……」
思い出すのは、出会った日。
「俺を、救ってくれた人でもある」
「む……?」
ここまで静観の姿勢を貫いていた頃が、不思議そうに片眉を上げる。
「救われたのは妾の方じゃが……?」
「俺も、あの出会いに救われてたんだよ」
当時はそんなこと、考えもしなかったけれど。
「俺は、この世界に産まれた時から前世の記憶を持ってた。それは間違いなく俺の実体験だって断言出来る生々しさで……だけど」
小さく、苦笑する。
「それを証明するものなんて、何もない。俺の妄想だって可能性を否定しきることは出来なかった」
庸一にとって、前世の記憶という前提が崩れるのは己のアイデンティそのものが崩れるのに等しい。
がむしゃらに身体を鍛えまくってたのは、そんな不安を誤魔化すためという側面もあった。
いつか、己に『使命』のようなものが訪れるのだと。
そのために、自分は転生したのだと。
間違いなく……前世の記憶は、本物なのだと。
「黒に、出会うまでは」
前世の己を……エフ・エクサを殺した、恐ろしい相手。
けれど、それは。
平野庸一にとっては、間違いなく救いをもたらしてくれた存在だった。
「黒に出会って初めて、俺は俺であることを本当の意味で肯定出来たんだ」
「……くふ」
微笑む庸一に対して、黒も笑う。
「ならば、お互い様ということじゃな」
「だな」
出会った頃からは考えられない、気安いやり取り。
「黒……好きだよ」
前フリも脈絡もなく、庸一はその言葉を口にした。
「黒の笑顔が、俺の胸を暖かくしてくれる。黒の自信が、おれに勇気をくれる。黒の言葉が、俺を前に進ませてくれる。今回の件で真剣に考えて……あぁ、俺はこんなにも黒のことが好きだったんだって実感した」
自身の胸に手を当てると、いつもよりずっと速い心音が感じられる。
「だから」
それが、より一層高鳴った。
「ごめん」
胸に、強い痛みが走る。
「黒を、
ズキンズキンと広がっていく痛みは、無視。
「俺は、黒の恋人にはなれない」
きっと、黒の胸に生じている痛みは比べ物にならない程のものなのだろうから。
そう思って、グッと奥歯を噛みしめる庸一……だったが。
「そうかえ」
当の黒は、ケロッとした顔で。
「ならば、それで良い」
「……へ?」
思わず、呆けた声が出てしまう。
「さて、そろそろ戻るとしようかの。あまり二人きりでいると、また魂ノ井辺りが騒ぎそうじゃ」
「あ、あぁ……」
くるりと踵を返す黒に、慌てて続いた。
「え、えっと、黒……?」
とはいえ流石にこのままというわけにもいかず、おずおずと呼びかける。
「それだけ……なのか?」
「む? それだけ、とは?」
振り返ってきた黒は、不思議そうな表情だ。
「あー……いや、なんつーかその……俺が言えたことでもないんだけど、もうちょっと色々あるんじゃないかと……思ったり思わなかったり……」
気まずさから、口調は大変歯切れの悪いものとなった。
「くふふ」
そんな庸一を見て、黒はおかしそうに笑う。
「自らフッた女から、恨み言の一つでも聞きたいのかえ?」
「そ、そういうわけじゃ、ないんだけどさ……」
ならばどういうことなのかと言われれば、答えに窮するけれども。
「くふ」
黒が笑みを深めた。
「不思議そうじゃな? もっと動揺すると思うたか? 涙の一つでも見せると?」
「いや……」
「こうなることは、わかっておったからの」
「え……?」
さらっと出てきた言葉に、庸一は目を瞬かせる。
「ちゅーか、今まで欠片もそんな素振りが見られんかったのに急に実は妾に恋愛感情を抱いておったとか言われても逆に困惑するじゃろ」
「そ、それはそう………………か?」
庸一の立場では、大変コメントしづらかった。
「じゃから、それで良い。
ニヤリと、黒は不敵に笑う。
「今までは、そうじゃったじゃろう。じゃが、今のお主は妾のことを異性として意識しておるじゃろ?」
「……あぁ」
一瞬答えに迷うも、素直に頷いて返した。
「つまり、勝負はこれからということじゃ。一度や二度の告白を断られた程度、どうと言うことはないわ。ここは、スタート地点に過ぎぬ」
黒の笑みは、自信に満ちたもの。
「妾は、暗養寺黒」
誇らしげに胸を張る、その姿は。
「停滞をやめた妾は『強い』ぞ?」
月明かりの下、とても輝いてみた。
「……っと、じいやから電話じゃ」
とそこで、黒のスマートフォンが着信のメロディを奏でる。
「妾は少しここで話す、お主は先に戻っておるが良い」
「あ、あぁ……」
結局終始黒に圧倒されたまま、庸一はとても不思議な心持ちで来た道を戻るのだった。
◆ ◆ ◆
通話をオンにし、スマートフォンを耳に当てる。
『それではお嬢様、失礼致します』
開口一番、通話相手の言葉は別れを告げるもの。
「うむ、大儀である」
結局、たったそれだけのやり取りで通話は切れた。
「くふ……相変わらず、全てを見通しておる男じゃ」
今の電話そのものに、意味はない。
「嗚呼、この結果はわかっておったとも」
先の言葉に、嘘は一つもなかった。
告白した時点で、こうなることはわかっていた。
想い人のことだからこそ、十全に理解している。
だから。
「妾は、暗養寺黒」
夜空を見上げた。
「停滞をやめた妾は、強い」
月が、星が、ぼんやりと歪んでいく。
「じゃから」
ポタリ、ポタリ。
「これは……今だけ、じゃ」
砂浜に吸い込まれていく少し塩辛い雨が止むまでには、もう少しだけ時間が必要だった。
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