第33話 自分だけのものじゃなくなった笑顔

「失礼致します」


 丁寧にお辞儀した後、環は職員室を退出した。


(まったく、大した用事でもないのにわざわざ職員室にまで呼び出さないでいただきたいものですわねぇ……おかげで、兄様との貴重な時間が削られてしまったではありませんの)


 内心では不満タラタラだったが、それを表に出すことはない。

 これで、環は常識を弁えた少女なのである。


 もっとも、庸一に関連することではその常識が完全に投げ捨てられる傾向にあり、そして環が庸一に関連していない時間などほぼ存在しないため実質常識知らずも同然なのだが。


「あっ、見てあの人」


「二年に転校してきた……確か、魂ノ井先輩!」


「綺麗だよねぇ……」


「クールビューティーって感じ」


「きっと、頭の中では哲学的なこととか考えてるに違いないわ」


 下級生らしき女子たちのそんな会話が耳に入ってくるが、環としてはほとんど認識していない。


(はぁん、兄様! 今会いに参りますわ! これだけ離れていたのですから、ハグくらいは許していただけますわよね! いえ……もしかしたらワンチャン、ペロペロくらいまでいけるかも……!?)


 頭の中でそんなことを考えているということが知られれば、果たして彼女たちはどう反応することだろう。


 その答えは、環のクラスメイトたちが示していると言えよう。


(もしかしたら、そのまま流れで最後までいくことも可能……!? 教室に戻る前に保健室の空き状況を確認しておくべきでしょうか……! はぁはぁ……なんだか興奮してきましたわね……!)


 思考にR18指定が必要になってきた辺りで、環は自分の教室に辿り着いた。


「兄さ……」


 教室の扉を開けると同時に、満面の笑みで呼びかけようとして。


 出かかった声が、つっかえる。

 踏み出しかけていた足が、止まる。


 別段、何があったというわけでもない。


「庸一、完璧の『璧』ってこれで良かったっけ……?」


「それじゃ『壁』だ……『土』じゃなくて『玉』だよ」


「あっ、そうか」


「そういやヨーイチも、前にそこ間違えて満点逃しとったことがあったの」


「ははっ、あったそんなこと」


 光が、黒が、庸一が、談笑している。


 ただ、そんな光景が目に入っただけ。


 本当に、何気ない日常の一ページである。

 会話の内容だって、きっとすぐに忘れてしまうであろう他愛ないもの。


 けれど、それが。


 兄が自然な笑みを浮かべていることが、たまらなく環の胸を締め付ける。


 かつて、環がメーデン・エクサという名で生きていた頃。

 兄が本当の笑みを向けるのは、妹である自分に対してだけだった。


 早くに両親を亡くし、兄妹二人だけで生きてきたから。

 頼れる者はおらず、むしろ子供相手でも容赦なく毟り取ろうとしてくる者ばかりだった。


 二人が特別周囲の人間に恵まれなかったというわけではなく、前世の世界ではそれが当たり前。

 現代日本ほど豊かでなかった世界では、誰もが自分が生きるので精一杯だったのだ。


 だからこそ。


(この平和な環境で兄様が穏やかに笑ってらっしゃることを、喜ぶべきなのに……)


 目の前の光景に嫉妬を覚えている自分こそが、環にとって最も忌むべきものだった。


(わたくしだけに微笑んでほしい……わたくしだけの兄様でいてほしい、だなんて……)


 己の浅ましさに、歯噛みする。


 けれど。


「おっ、環」


 そんな環の方に、庸一が振り返ってきて。


「……どうしたか? 呼び出し、そんなヤバい件だったのか?」


 環の内心を察したかのように、表情を改めて尋ねてくる。


「あっ、いえ……」


 環は、慌てて表情を取り繕った。


「別段、大した用件ではありませんでしたわ」


 笑顔を作って、庸一の方へと歩み寄る。


「……そうか」


 そう言いつつも、庸一の表情に納得の色はなかった。


 やはり、環の心境などお見通しなのだろう。


 実際、環の心は未だ晴れやかとはとても言い難い。


「何かあったら、言えよ? なんでも相談に乗るからな?」


「はいっ! ありがとうございます兄様! その日の下着からお風呂でどこから洗い始めるかまで何でも相談しますわねっ!」


「いや、それは相談しなくてもいい……」


 苦笑気味にではあるが、庸一が笑ってくれた。


 恐らく、環の意思を尊重してくれているのだろう。


(いくら兄様でも、こればっかりは相談出来ませんわね……)


 前世の頃、兄は平穏な生活を何よりも望んでいた。


 それは、メーデンだって同じだ。

 兄と平穏に過ごせれば、それで良かった。


 けれど、前世では環境がそれを許さなかった。

 戦いに身を置かなければ、生活すら出来なかったから。


 そして、最期には──


 だからこれは、前世の頃にいくら望んでも手に入れられなかったものなのだ。


 なのに。


(本当に、贅沢な悩みですこと……)


 そんな想いを、消し去ることも出来ず。


 環は庸一から見えぬよう、そっと自嘲の笑みを浮かべた。







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