1-16『王女エステル·アウニグラル』

「お、戻ったか。丁度今から呼びに行こうと――って、どうした? えらく疲れた顔して。ていうかなんでビショ濡れ?」


 三つに分かれた道の真ん中、広場から王城へと伸びる道に、千鳥足で歩く少女の陰がシェイドに迫る。その正体は、すっかりと草臥れた表情をしたキツネだった。

 広場へ向かう時はあれほど元気があったというのに、今は微塵もその面影が感じられない。そのことに不安を覚えたシェイドは、急ぎキツネの傍に寄ると肩を抱いた。

 対して少女は、気丈に振舞う病人のように力無く笑って言う。


「ちょいと個性の塊のような人間に絡まれての。アレはちょっと、ワシにはレベルが高過ぎた」


「なんだそりゃ……。いや、でも」


 途端、シェイドはガクリと肩を落とし表情を呆れたものへと変えた。言わずとも、その顔には『何言ってんだコイツ』という思いが深く篭められている。

 しかし直ぐにキツネの言葉に違和感を抱くと、神妙な面持ちを浮かべた。


「お前がそこまで言うなんて、上には上が居るもんだな」


「まったくじゃ。……おい待て、どういう意味じゃそれは?」


 思わず頷きかけて、キツネはア゛ァン? とシェイドを睨み飛ばす。そんなキツネの姿に、数秒前までの弱々しげな様子は見られない。

 しかし、どうやらシェイドの目にその姿が映っていないらしく、片目を瞑り尚も独り言を漏らし続けていた。


「キツネ以上の変人ときたか……出会わないことを祈――いや、一周回って会ってみたい気も」


「喧嘩を売ってると判断していいんじゃな。よろしい、破傷風にしてくれる」


 そう言って威嚇するように爪を立てるキツネは、既に臨戦状態で鋭く爪を立てていた。

 一方、漸くそのことに気付いたシェイドは、血相を変えて弾かれるようにキツネから距離をとる。けれど、もう遅い。

 片や襲う為、片や身を守る為の間合いの謀り合いは、やがてこの場に緊張の沈黙を生んだ。

 その時、


「あの、シェイド殿。お連れ殿の確認もさせて頂きたいのですが……」


「あ、ああ、すまん。ほらキツネ、腹と爪を立てるのは後だ後。まずは入城の確認と検査を済ませるのが先だ」


「……主とは、後でじっくり話し合う必要がありそうじゃな」


 完全に声を掛けるタイミングを失っていた門番が、ここぞとばかりに間に入ることで、どうにかこの場は収まりを見せたのだった。








「魔法使い、黒腕のシェイド――」


 そんなやり取りを、遥か高く、王城上部の塔から見下ろす影が一つ。

 クスリと口元に笑みを浮かべるその人は、宛ら初恋の相手との再会を喜ぶように、頬を赤く染めていた。


「およそ十年、この時を待ち焦がれておりました」


 それは、柔らかで耳に心地良い優しげな少女の声。

 声の主は己が呟きで自らの心を奮い立たせるように、歩く速度を僅かに早めて長い廊下を進む。


 向かう先は、来城者が真っ先に足を踏み入れるであろう場所、王城に入って直ぐの大広間。

 長く胸に秘め続けた思いの丈を吐き出さんとする乙女のように、煌びやかなドレスを纏った少女は自身の逸る足取りに気付かぬまま歩き続ける。

 魔法使い、シェイドの下へ――。



※ ※ ※ ※ ※



「ほぁ~。王城と呼ぶからにはと期待しておったが、いやはや想像以上じゃなこれは!」


「気に入ってくれてなにより。でも感動する気持ちは分かったから、もうちょっと声量を抑えてくれないか?」


 空間に反響する自身の声を聞きながら、キツネは瞳を輝かせて歓声を挙げる。

 そんな見た目相応の反応を見せる少女の姿を、シェイドは微笑ましげに、しかしどこか緊張気味に眺めていた。


 二人が足を踏み入れたのは、入城してすぐに通された大広間。吹き抜けの構造になっている為天井が高く設けられ、下から垣間見える上階の廊下では、鎧を着込んだ衛兵や執事のような装いをした老人、給仕服の婦人が忙しなく行き交う姿があった。

 また辺りを見回せば、絢爛豪華な装飾が様々な場所に施されており、それら全てが高級感漂う輝きを放つ。

 まさに、自身が思い描いていた王城というゴージャスなイメージ通りの光景に、キツネは思わず歓声を挙げてしまう気持ちを抑えることが出来なかった。


「のうシェイド、あの部屋には何があるんじゃ? あそこに居る執事らしき男は何の仕事をしておるんじゃ? 壁に施された模様にはどんな意味が? 柱の数は一体何本――」


「よーし、一旦落ち着け。気になることは山ほどあるだろうが、今は置いておけ」


 だが、些か興奮が過ぎたのだろう。

 アレ何コレ何と忙しなく向きを変えるキツネの頭を掴み、シェイドは少女の動きに一旦セーブを掛ける。

 そしてソワソワと、どこか警戒するような素振りで何度も周囲を見回していた。


「なんじゃ、お主も興奮しておるのか? ププー、まだまだお童子様おこさまじゃのう」


「お前にだけは言われたくねぇな! そうじゃなくて、あんまり城内で大声を出さないで欲しいというか」


「? 何故じゃ? 人の目なら気にせんでもよい。どうせ童が城内探索でキャッキャしてると思われているだけじゃろうし、主に恥は掻かせんよ」


 事実キツネの言う通り、上階の廊下を行き交う人々に彼女を小バカにしている様子は見られず、皆微笑ましげにその様子を眺めながら通り過ぎて行く。中にはキツネと目が合うなり笑顔で頭を下げる者や、小さく手を振る者も居た。

 「どうじゃ?」とでも言いたげに得意気な表情を向けるキツネに対し、シェイドは未だ落ち着かないまま応える。


「いや、そうことじゃなくて。あんまり騒ぐと案内人が来る前に、ちょっとややこしいことが起きるかもしれないというか、なんというか……。いや、杞憂であることを切に願っているんだが」


「何を言っとるんじゃ」


 陽炎のように曖昧な口振りに加え、シドロモドロなシェイドの言葉にキツネは理解出来んと首を振る。

 対してシェイドはどう答えたものかと考えるように頭を掻きながら、どこかバツの悪そうな表情を浮かべていた。

 その時、


「――何が、ややこしいことなのでしょう?」


 シェイドの背後から、不意にそんな言葉が発せられた。


「いや流石にそれは言えな…………。…………。…………んぇ?」


 シェイドに向けて掛けられたその声は、まるで羽毛のように心地良い優しげな少女の声。

 常人ならば耳にするだけで忽ち穏やかな気分になるような、そんな癒しを感じられる声だった。

 しかし、


「……」


 その声を耳にした途端、シェイドは一瞬で氷付けにされるが如く、指先一つ髪の毛一本に至るまでピタリと動きを止めてしまった。

 それから、暫くの沈黙。


「おいシェイド、訊かれておるぞ。ちゃんと答えたらどうじゃ」


 しかしキツネの言葉もあって、凍りついた身体はすぐに再び動き出す。

 そして意を決するように振り帰るシェイドは、誰の目から見ても分かる作り笑いを無理矢理浮かべながら、恭しく頭を下げた。

 そこに居たのは、


「お久しぶりです、エステル王女。本日はお日柄もよく――」


「まぁシェイド、そんな他人行儀な挨拶などお止め下さい。貴方と私の仲ではありませんか」


 煌びやかなドレスを身に纏い、クスリと上品な微笑みを浮かべつつ、仄かに頬を紅潮させた少女が一人。

 歳は十五~六歳程だろうか。肩まで伸ばした鮮やかな蒼髪と透き通るようなな翠眼を持つ、どこを切り取っても絵になる紛うことなき美少女が居た。

 しかし落ち着いた振る舞いとは裏腹に、その表情に秘めた感情を隠し切れていないのは若さ故か。

 だが、今キツネにとって注視すべきは、そんなことではなく――。


「王女……? シェイドお主、今王女と言ったか」


 「ん、聞き間違えかな?」と、キツネは恍けた様子で耳に手を当て再度シェイドに発言を促す。

 だが、それに応えたのは彼の前に立つ少女本人であり、


「はい。私はアウニグラル王国第一王女、名をエステル・アウニグラルと申します。――是非、この名を覚えて頂けたら幸いです」


 ドレスの裾を摘み、上品な仕草で一礼した少女――エステル・アウニグラル王女は、そう言ってキツネに優しく微笑みかけた。


「うわあああああああ!!! リアル王女様じゃああああああああああ!!!」


 途端、キツネは血相を変えて弾かれるように後ずさる。

 その表情は驚きに満ちており、「すげぇ! ワシ本物の王女様とか初めて見た!」と、興奮気味にエステルの顔を眺めていた。大変不敬である。

 しかしシェイドはそんなキツネの反応に目もくれず、未だ無理矢理な作り笑いを浮かべながら言う。


「わ、わざわざ広間にまで降りてくるとは、やんちゃ盛りは相変わらずのご様子で。一体どうされたのですか?」


「ふふ、白々しいこと。こうでもしないと、貴方は“また”勝手にどこかへと行ってしまうでしょう? 十年前、突然離れ離れになって以来、次に会えるのはいつかと待ち焦がれておりましたのに」


 その言葉にビクリと、シェイドの肩が跳ねる。キツネの目に映る彼の表情がどこか泣きそうに歪んで見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。

 一方エステルは、再び頬を紅潮させながら話を続ける。


「ですが、こうして再びお会いすることが出来たことを、私は運命に感謝しなくてはなりません。十年間、胸に秘め続けた思いの丈を、漸く貴方に伝えることが出来るのですから」


 その表情は清らかな聖女のように穏やかで、しかし恋を知った純心な乙女のように初々しい。

 彼女が抱くのは、誰もが思い、誰もが感じ、誰もが尊ぶ心の嬌声。その想いを抱くことを、一体誰が咎められるというのか。


「嗚呼、よく、よく――」


 故にエステルは王女としてではなく、立場の柵をまだ知らぬ幼子のように飛び切りの笑顔で打ち明ける。長らく胸に秘め続けてきたであろう、思いの丈を――。


「よくも、のうのうと顔を出せましたね。シェイド」






「お待たせしました、シェイド隊ちょ――殿。このイケト、案内人として馳せ参じ……え、えーと?」


 それから水を打ったように静まり返る大広間に、少し遅れて到着した若い案内人の声だけが木霊した。

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