1-6『始まりは尿意から』

 ――時は、夜明け前に遡る。


「……おしょん」


 未だ陽は昇らず、けれど地平線から微かに漏れ出すせっかちな光が、まだ暗い夜空を仄かに明るく彩り始める頃。

 鼻提灯を膨らませ、深く穏やかな寝息を立てるキツネから、唐突にそんな言葉が発せられた。


「……ん、ん~。……ん?」


 唸り声を上げ、冬眠明けの熊のような挙動で地面を這うキツネは、瞼を擦りつつ覚束ない足取りで立ち上がると辺りを一望する。

 視線の先には、なだらかに波打つような凹凸が特徴的な緑の大地が広がり、空には弱々しく光を放つ星々がまだ少しだけ散らばる光景があった。足元に短く生える草の葉には、微かだが朝露が降り始めている。


「……あ、そっかぁ」


 一瞬、キツネは見慣れ無い景色に数度瞬きを繰り返した後、昨晩ここで野営していたこと、そして異世界に召喚されたことを思い出す。振り返れば、先程まで自身が寝床としていたテントがあり、穏やかな風が杭の先に余った布をはためかせていた。

 そんな様子を意味も無く呆然と眺めながら、少しして尿意を思い出したキツネは大きな欠伸を一つしてトイレはないかと周囲を見回す。

 その時、胡坐を掻き背中を丸めて寝息を立てるシェイドの姿が視界に写った。


「……」


 その時、キツネは何を思ったのか寝ぼけ眼のままシェイドに近付くと、指先でそっと撫でるように、少年の背中に触れる。

 その行動の意図は、実のところ本人もよく分かっていない。故に理由を訊ねられたとしても、答えることは出来ないだろう。

 しかしキツネは微睡みに視界をボヤけさせたまま、それでも延々とシェイドの背をなぞり続けていた。

 それから少しして、


「!?」


 シェイドの背中の下側、尾てい骨付近から突如発生した禍々しい気配に、キツネは弾かれるようにその手を離す。

 あまりに突然の事に反応が遅れ、後になって全身の毛が僅かに逆立った。

 そこで漸く、ハッキリと目が覚めたのだろう。


「……厠の代わりになりそうな場所でも、探すかの」 


 キツネは自分の手と、未だ寝息を立てるシェイドの背中を交互に見ると首を捻り、直後ブルリと身体を震わせ早足で丘を下り始めた。

 それは、シェイドが大百足を倒した時に見せた黒腕を思い出したから――という訳ではない。単純に、我慢の限界がすぐそこまで迫っていたからだ。

 無論キツネとて、黒腕のことを思い出さなかった訳でもない。むしろあの時感じた禍々しさは、今すぐにでも忘れ去りたいとすら思っていた。

 しかし同時に決壊寸前の尿意の前では、そんなことを気にする余裕もなかった。


「おぉ、都合の良い茂みがこんなところに。ちょいと失敬」


 そうこうしている間に、キツネは丘を下ってすぐのところで程よい茂みを見つける。

 腰を下ろせば全身を隠せる程度の高さもあり、ホッと息を吐き腰に手を掛けた。

 その時――


「おう、嬢ちゃん。朝早くからこんな場所で、なにしてんだい?」


「なぁに、ちょいと小べ――ッ!?」


 背後から発せられた知らない男の声と共に、背筋にヒンヤリとした固いモノが中てられる。危機を直感した時には、既に手遅れだった。

 キツネが振り返ろうと咄嗟に腰を捻った直後、


「ギャン!?」


 固いモノから弾けるような光が迸り、身体を真っ直ぐ貫くような痺れがキツネを襲う。

 当然それを受ける準備も心構えも出来ていないキツネに抗う術は無く、彼女の意識はあっという間に途切れてしまうのだった。



※ ※ ※ ※ ※



「――そういえば、目が覚めてから一向に尿意を感じないのじゃが。それに妙に袴が湿っておるんじゃが、これ如何に?」


「「……」」


 ガラガラと、キツネ達を乗せた馬車が車輪を小刻みに鳴らし、速さを感じる揺れに変わってから数十分が経つ。そんな状況にいい加減暇を持て余し始めていたキツネは、そう言って再び口を開いていた。

 対して監視するように立つ強面の男と、御者席で馬の手綱を握る痩せた男は、揃って神妙な面持ちで一層黙り込む。

 言うまでもなく、キツネの疑問に対するこれ以上無い答えだった。


「なんとか言うてくれんかの!?」


 どうやらその反応がひどく堪えたようで、キツネは羞恥から八つ当たり気味に声を張り上げる。しかし、誰からの反応もない。

 それが余計に羞恥心を煽られ、少女はムキになって顔を真っ赤に染め睨むように視線を彷徨わせた。どうやら本人に、恥の上塗りをしているという自覚はないらしい。

 やがてキツネの視線が自分と一向に目を合わせようとしない強面の男を捉えると、せめて一言物申そうと腰を上げた。

 だが、


「こんの――グェ!?」


 当然、捕えられた者にそんな行動の自由がある筈も無く、少女の手足を繋ぐ鎖が伸びきり反動から激しく尻餅をつく。

 それに遅れて反応した強面の男は一瞬動揺を見せたものの、その様子を見て何を思ったのか、これ以上なく勝ち誇った表情かおで嗤ってみせた。


「ハ……、ハハッ! 獣人っつっても、ガキなら所詮こんなもんか。受け入れる素振りで俺たちが油断した隙に脱出しようと企んでいたんだろうが、んな浅知恵が通用するとは思わねぇこったなぁ!」


 それは、今のキツネに抵抗の術が無いという絶対の確信を得たからなのだろう。

 強面に似合わずキツネの挙動に逐一怯えていた男の態度が、自身の優位性が揺るがないと悟るや否や尊大かつ横柄なモノとなる。

 しかし、そんな男の姿を見て呆れるように首を振るキツネは、物怖じ一つすることなく答えてみせた。


「やっと喋ったか! って、深読みし過ぎじゃろ。確かに、どうやって逃げようものかと頭を悩ませてはいたが、そんな方法一切思い付かんかったわ」


「おいおい、この期に及んで強がりかよ。本当はビビってる癖して、素直に泣き喚いても構わねぇんだぜ? “隔音の水晶”もあるんだ、無様な声が外に漏れる心配もねぇよ」


 そう言うと、男は梁に吊られた小さな水晶を一撫でして、勝ち誇るように少女を見下ろす。

 対するキツネは眉間に皺を集めて顔を持ち上げると、男が触れている水晶を睨み付けた。


 水晶とは、日常生活の助けになる物から命懸けの冒険に必須な物まで、幅広い様々な分野で普及している魔法道具、通称“魔道具”のことを指す。

 男が持つ“隔音の水晶”もその一つであり、指定した範囲内に音を押し込め外に漏れ出ないようにするという効果を持っていた。

 当初は『隣家や周囲を気にせず大声で歌の練習をしたい』という、とある少女の声を受けて開発された物なのだが、現在では夜の営みが激しい男女の間で高く支持されている代物だ。電動マッサージ機もびっくりである。

 因みに内から外への遮音効果は大変優れているが、その逆は非常時における対応等を鑑み効果が薄く設定されている。


「生憎と、喚く程の涙は当の昔に底を尽いておる。ワシをか弱いだけの乙女などと思っておるのなら、とんだ思い違いじゃ。早々に認識を改めるがよい」


「……あん?」


 確たる策があっての言葉か、或いは考え無しの買い言葉か。先程までの軽い態度は成りを潜め、キツネは冷ややかに言う。

 当然、自身の絶対的な優位性に胡坐を掻く強面の男にしてみれば、その態度は癇に障るものだったのだろう。ましてや相手は彼が言うところの獣人、何かしら深い因縁のある相手に関わる者であれば尚更だ。

 その言葉に表情を険しくした男は、眉間に皺を集めて一歩、キツネに近付いた。

 そして、


「というかお主、偉そうなことを偉そうな態度で言う割に、先程まで随分と怯えておるように見え――ガハッ!?」


 挑発とも取れるキツネの言葉に耳聡く反応すると、まだ彼女が言い終わらぬ内に、無防備な腹部を容赦なく蹴り上げた。


「おい、今なんつった?」


「み、鳩尾……」


「ちげェだろォ!?」


 一切の加減無く放たれた一蹴は、キツネの鳩尾に深く突き刺さり呼吸を数秒間奪う。

 そして突如として発生した蹴りの衝撃と、なにより男の豹変振りに、キツネは一瞬何が起きたのかと言葉を失った。


「俺は怯えてなんかいねぇぞ! 獣人がなんだってんだ、俺ぁ怖くなんてねぇ!」


 しかし、キツネが状況を飲み込めずただただ痛みに唸っている間にも、男の執拗な蹴りは何度も繰り返し放たれる。

 その度に、キツネは内臓を掻き混ぜられているような苦痛と、細胞一つ一つが爆発しているような痛みに悶えた。

 加えて、


「ッラァ!」


「グ――ッ!?」


 鎖で行動を制限されているキツネにそれを避ける手立ては無く、であれば当然防御する手段もない。出来ることと言えば、当たる寸前に腰を引いて僅かばかり衝撃を緩和させるか、さもなくば腹筋に力を込めて気合で耐えるぐらいだ。

 けれどそんな抵抗も大した意味は成さず、キツネは苦悶の声を上げ続けた。

 その時、


「ちょちょちょちょーい!? 待つッスよアニキ! アニキが大の獣人恐怖しょ――嫌いだってのは知ってるッスけど、あんまりやり過ぎないで下せぇよ!」


 二人の間を縫うように割って入る声が、強面の男の動きを止めた。それは御者席で馬の手綱を握る、痩せた男が発したものだ。

 正に、捨てる神あれば拾う神あり。徐々に虚ろになりゆくキツネの目に、果たして痩せた男はどう映ったのだろう。

 兎にも角にもこの一瞬、キツネは大きく咳き込みつつも希望を込めて顔を上げた。

 だが、


「顔の傷一つだって市場での価値は大きく変わっちまうんスから、拾い物とはいえそんなことでムダに取り分が減るなんて、マジ勘弁っスよ!」


 痩せた男が口を挟んだのは、少女の身を慮ってのことではなく商品キツネが傷つく事で伴う価値の低下を恐れてのことだった。

 途端、そのことを瞬時に理解したキツネの顔色が真っ青に染まる。


「わかってらぁ、じゃなきゃわかりにくい部分ばっか狙わねぇよ! 内臓も、まあ引渡しの時点ならバレやしねぇだろ。あとで何かあっても、俺たちゃ知らぬ存ぜぬを通せばいい」


「ありゃ、そッスか? こりゃあ失礼したッス。にしても――」


 故に男がキツネを甚振るにしても、それが商品の価値を損なわないと判るや否や、以降彼女の扱いに口を挟もうとはしなかった。

 代わりと言うべきか、


「やっぱり怖いと、過剰に攻撃的になるんスかねぇ。悪いねお嬢ちゃん、アニキも普段はここまで情緒不安定じゃないんスよ? ただ昔、獣人と色々あってトラウマになっちまってですね……。まぁ許してやって下せぇ。あ、お姉さーん、アニキがここまで荒れるのは獣人に対してだけなんで、そんな怯えなくても大丈夫ッスよー」


「ン、ンンーッ!」


 痩せた男はキツネに口先だけの侘びを入れた後、同じく鎖に繋がれ目隠しと猿轡を嵌められている女の方を向き軽い口調で話し掛ける。

 けれど女はビクリと肩を震わせると、今も聞こえる暴虐の声に恐れ慄き、壊れた玩具のように只管首を振り続けた。


「……だーめだこりゃ、完全に怯えちゃってるッスよ。もー、アニキのせいッスからねー?」


「うるせぇ! テメェは黙って前だけ見てろ!」


 その様子から痩せた男は、会話など到底出来そうに無いと悟ると溜息を吐き、退屈気に目を細める。

 そして再び手綱を握るだけの退屈な時間が戻ってきたことに不満を零したところで、暴虐を再開した強面の男に怒鳴りつけられた。


「おー怖い怖――」


 しかし強面の男の叱責なぞ何処吹く風。慣れたもんだと言わんばかりに飄々としながら、痩せた男は前を向く。

 ――その時だった。そんな彼の頭上に、一つの影が重なったのは。


「ちょっと失礼!」


「え、何、のわーっ!?」


「――!?」


 直後、馬車を揺らす大きな衝撃が御者席に発生し、馬が興奮に嘶き脚をバタつかせて進行を止めた。

 続いて痩せた男は、悲鳴も上げる間も無く弾かれるように御者席から転がり落ちる。一方で強面の男は、バランスを取る為キツネを甚振る手を止めると静かにナイフを構えた。



「いやー、いきなり頭上から申し訳ない。無礼を承知で、ちょっと訊きたいことがあるんだけどさ――」



 そんな男二人に気を留めることもなく、言葉とは裏腹に一切悪びれる様子のない黒髪の来訪者は、いけしゃあしゃあと問い掛ける。


「――キツネって名前の、うるさい白毛の獣人を知らないか?」と。

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