1-5『最高の目覚めと止まない唇』

『お稲荷様、お稲荷様。どうか今後とも、よき実りの年となりますよう――』


『おきつねさまー、これ、あげる! どんぐり!』 


『お狐様、お狐様。ウチで採れた新鮮なお野菜です。どうぞお納め下さい』


『お稲荷様――』『お狐様――』『おいなりさまー!』『おきつねさま――』


 ふと自我が芽生えた時、そこでは老いた男の祈るような声が、性も判別つかぬ無邪気な童の声が、収穫を喜ぶ若い女の声が、老若男女様々な人間の声が、ワシを取り囲んでいた。

 その様は、まるで地に落ちた甘菓子に群がる小虫のようであり、始めはただ只管に嫌悪と恐怖に打ちのめされた。

 一体此処は何処だと、そもそも自分は何者なのだと、この者達はなんなのだと、降り注ぐ声の中混乱したことを今でも覚えておる。


『去年の同じ日、お狐様の一鳴きは雨雲を呼び、水不足から不作が続き滅びる寸前だった我が村に豊穣みらいを齎して下さった。今宵はそれを祝う祭り、呑めや騒げや! ハッハッハ!』


 当時のワシは、正真正銘ただの狐じゃった。故に人語を解していた訳もなく、宴の音頭が上がる度に尾を丸め、いつ食われるのかと震えておった。

 しかし、


『どうぞお野菜です、是非食べてくだせぇ』『この果物もおいしいよ!』『狐っつったら肉も食うんだろ? だったらこれも』


 人間達が一切の悪意無く差し出す多種多様な食べ物を前に、恐怖と空腹に震えていたワシはいとも容易く篭絡されていた。

 そして恐らくこれが、“自我を得た”ワシと人間との縁の始まりなのじゃろう。その後幾許かの月日を経て、遂に警戒おそれを無くしたワシを見た人間たちは、『我々は神に認められた』等と歓声を挙げていた。

 相変わらず、当時のワシにその言葉の意味を解する力は無い。けれど人間達の喜ぶ姿を見て、何故だかワシも無性に嬉しかった。



 じゃが――。



『――なんだ、やはりただの野狐ではないか。ワシらは酷い思い違いをしていたようだ』


『ただの野狐ならまだ良かっただろうさ。コイツはきっと人を化かして莫迦にする、悪鬼や物の怪の類に違いない! じゃなきゃこんなことになるもんか!』


『きっと雷神様が、この狐に怒りを覚えて災いを寄越したに違い無いわ。この火の所為で食料すらも儘ならないのだし、ならいっそコイツを食べてしまいましょうよ』


『穢れた肉など食ろうては、ワシらが祟られてしまうわい。生きたまま皮を剥ぎ、顎を砕き四肢をもいでから首を切り落とした後、山中にある祠にでも閉じ込めてしまおう。邪気が外へと漏れ出ぬよう、しっかりと封をしてな』


 雨も無いのに雷が鳴り響き、家々は燃え上がり、人間だったモノ達が地に倒れ付し、宛ら地獄と化した村へと景色が変貌する。

 そして、これまで出会う度に笑顔で食べ物を分け与えてくれた男が、毎日会いに来ては丁寧に毛を撫で付けてくれた女が、まるで初孫のように可愛がってくれた老人が、皆恐ろしい形相で一斉に縄や包丁を持ち出して――。



『どう……して……?』



 その言葉がはっきりと聞こえた時、プツリと場面が切り替わるかのように、これまで聞こえていた誰かの昔語りが不意に終わった。

 続けて視界が急激に白み始め、あれほどまでに激しく燃え上がっていた炎もまた、薄くなっていく。

 けれど最後に、


『殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!』


 傷だらけの姿で呆然と立ち竦み、ポロポロと大粒の涙を零す“黒髪”の少女の影と、語ることすらおぞましい、凄惨な幻が見えた気がした。


――――――――――――――――――

――――――――――――

―――――………



『よう、起きたか』


「んぁ……?」


 どこからか響くミギウデの声に、シェイドは重たい瞼をゆっくりと開き呆然と顔を持ち上げる。

 時は地平線から朝日が顔を覗かせ、空が透き通った蒼を描き始めた頃。簡易天幕を背にして胡坐を掻きながら眠り込んでいたシェイドは、固くなった体を解すように大きな伸びを一つして、再び微睡みを追うように頭を垂れた。

 そんな様子に物珍しさを覚えたのだろう。ミギウデは『ほぅほぅ』と興味深げな声を出し、けれどそれを妨害するように声を掛ける。


『お前が野営中に二度寝しようだなんて珍しい、いや、初めてじゃねぇか? 昨日はそんなに疲れたか?』


「……かもしれない。それより、変な夢を見た気がするんだ。俺の記憶に全く無い景色があって、凄惨で……。……あれ、どんな内容だったけか?」


 頭は垂れたまま、しかしシェイドは片目を開いて返事をしてみせる。

 どうやらミギウデの指摘を受けて二度寝はしないという意思表示らしく、眠気を紛らわそうと腕を組み、先程まで見ていた夢を思い出すことに意識を集中させていた。

 一方そんな様子を呆れるように眺め(?)ながら、間を置いてミギウデは言う。


『夢の話なんて知るか。それより早くシャキとしやがれ、キツネの嬢ちゃんが居なくなった』


「……んなっ!?」


 その言葉の意味を理解した直後、シェイドは血相を変えて後ろを振り返り、飛び付くように『全財産』と書かれたの巾着袋の中身を確かめる。

 理由は語るまでもなく、事と次第によっては今後の彼の人生設計に大きな狂いを齎すことになるからだ。

 果たして懸念の結果はというと、

 

「無事か!? ……よかった」


 袋に一切手を付けられていないことを確認して、安堵に胸を撫で下ろした。


『目は覚めたか?』


「……ああ、最高の目覚ましだよこの野郎。おいキツネ、どうせ見えないところで腹抱えて笑ってんだろ? 満足したなら出て来い」


 ミギウデの態度にシェイドは「脅かしかよ」とうんざりした口調で言い、先程の慌てぶりを陰から見ているであろうキツネを呼ぶ。

 しかし反応が返ってこないことに首を傾げると、木を見上げ、丘の裏に回り、再び天幕の中を覗いた。

 相変わらず、キツネの姿は無い。


「……おい、これ以上は心臓に悪いから止めてくれ。キツネは何処に行ったんだ?」


 途端、悪寒が背筋を走り気持ちの悪い汗が首筋を伝った。

 そして口端を引き攣らせながら、シェイドは声が震えないよう注意してミギウデにそう訊ねる。

 それは、まだ脅かしドッキリが続いてる可能性を危惧してのこと。なにより自身の中で最悪を結論付けるには、尚早だと思ってのことだった。

 果たして返答は、


『だから言ったろ、キツネの嬢ちゃんが居なくなったって』


「は?」


 たったの一言。しかしそれだけで、状況を理解するには充分なものだった。

 ミギウデのひどくあっさりとした返答に、シェイドは空気の抜けるような声を漏らす。

 それを無視して、ミギウデは言葉を続けた。 


『お前が起きる一時間ぐらい前だったか、のそのそとテントから起きて来てな。足元も覚束ない様子だったし、寝惚けながら野ションにでも行くんだと思って放っておいたんだが、まだ戻って来ねぇ』


「どうして止めなか……いや、確かにその可能性もあったのか、なら仕方ないな。すまん」


『いいってことよ』


 「どうして止めなかったんだ」と怒鳴りかけて、シェイドはそれが浅慮だったとすぐに考えを改める。

 見た目幼いとは言え、少女キツネも女であることに違いは無い。ましてや自己申告に因れば齢五百を越えていると言うのだから、色々と憚られることもあったのだろう。……尤も年齢の真偽については、未だ定かになっていないのだが。

 しかし恥じらいの面を鑑みても、本人の居ない場所で深く追求するのは紳士的と呼べないだろう。なにより、生理現象は責められない。

 だがこうして実際に姿を消した以上、どうしたものかと頭を抱えた。


「寝ぼけてフラフラしてるだけなら、そこまで遠くには行ってない筈だ。けど昨日みたいに高速で動き回ってたなら、正直お手上げ。この状況で見つける手段を模索するなら……、あぁ、頭が働かねえ!」


『……なぁ、思ったんだけどよォ』


 シェイドは顎を摘むと片目を瞑り俯いて、どうにかしてキツネを見つけ出す手段はないかと必死に脳を働かせる。

 しかし寝起きの脳を無理やり働かせても効果は薄く、反って苛立ちばかりが先走り、結果名案は浮かばない。

 焦りばかりが募り「ならせめて行動を」と、一先ず一歩前へ足を踏み出した時だった。


『お前がそこまでして嬢ちゃんを探す意味、あんのか?』


「……は?」


 ミギウデの言葉に、次に踏み出す筈の足が止まった。


『考えてもみろ。お前とキツネの嬢ちゃんは昨日会ったばかり、しかも出会い方にしたって碌なもんじゃなかった。おまけに召喚者である証明はなーんもなくて、挙句こうして勝手に居なくなった。俺なら探し出して掛けた手間の分だけ八つ裂きにするか、全部忘れて無かったことにするぜ? そもそも信頼関係だって、何一つ結んじゃいねェ。法やらなんやらは一先ず置いとくとして、わざわざ世話を焼く義理が何処にある?』


「法を置いとくのはどうかと思うが……でも、確かにそうか」


 ミギウデの冷や水を浴びせるような言葉はひどく薄情なようで、その実確かに的を射るものだった。

 そのあんまりな言い方にはシェイドも眉を顰めるものの、言い返そうにも言葉が浮かばず、それどころか全くその通りであることに同意すらしてみせる。


『そーゆーことだ。あの嬢ちゃんに付き合ったところで、お前は勿論、俺にだって得することは何一つない。お前の慌てふためく様が見られるってんなら、まあ考えなくもないが』


「おい」


『おっと、本音が』


 そう言いつつもミギウデが悪びれる様子は無く、シェイドも慣れたものだとそれ以上突っかかろうとはしない。

 やがて身体を完全に起こすように再び背筋を伸ばすと、シェイドは一頻り何かを考えた後ゆっくりとテントを片付け始める。

 そして全ての道具を巾着袋に詰め込んでから、


「それで、キツネ或いは馬車・・は、どの方角に向かった?」


 ミギウデにそう訊ねた。


『……気付いてたのかよ、つまんねェ。いつから?』


「たった今だよ、俺がわざわざ“歩き”でトーポリに向かおうとした理由を思い出してから。つっても正直、今の状況と結びつけるには限りなく根拠が薄いけど」


『なら、行動に移そうと考えた決め手は?』


 ミギウデの問いに、シェイドはフッと笑い、


「お前が露骨に、俺を面倒ごとから遠ざけようとしていたからだ。何年の付き合いだと思ってやがる」


『ざっと四百年に迫るかもな』


 二人にとって馴染み切った掛け合いをしてみせるのだった。




『さて、目標は東に向かった。都合よく、王都に続く方角と一緒な訳だが』


「仮にハズレでも、そん時はそん時だ。せめて冒険者ギルドに人探しの依頼をするくらいの面倒は見るさ。――それじゃあ、追いかけるとしますか」


 そう言って、シェイドは右足のつま先で二、三度軽く地面を叩きながら、遥か東を見据えて小さく呟く。


「――限外躯体オーバーロード、起動。一気に行くぞ」


 途端、シェイドの全身に血管のような緑色の紋様が薄く浮かび上がる。

 そして次の瞬間、少年は突風を起こすかの如き勢いで強く地面を踏み込み、飛ぶような速さで駆け出した。



※ ※ ※ ※ ※



 一方、件のキツネはというと――。


「異世界じゃしまぁ、奴隷や人身売買とかもあるじゃろう。ワシはあまり好ましく思わぬが、いずれ目にする機会もあると思っておった」


「……」


「カーッ! しっかしまさか自分がそうなるとは思わなんだ。はぁー、ドナドナ。この荷馬車はキツネを乗せて、一体何処いずこくのやら」


「……」


「最悪ワシだって、相手が人間ならば多少あだるちーな要求にも応えてやるつもりじゃがな。と言っても、知識はあっても経験の無い耳年増、おまけにこの身は愛らしい女児体型故、満足させてやれるかは分からんが」


「……」


「……ところで、この姿でもエキノコックスは感染すうつるのじゃろうか。というかワシは虫持ちなのじゃろうか。のう、主はどう思う?」


「……」


「なんじゃ、さっきからノリが悪いオーディエンスじゃのぅ。なら主等はどうじゃ? 」


「う、うるせぇぞクソ獣人! た、立場ってモンを、かかか考えたらどうだ!」


「声震えてるっすよ、アニキ。……ていうか、なんでそんな煩いの拾ってきたんスか」


「この見た目なら、獣人だろうと高値で売れると思ったんだよ。喋り出すまではな!」


 薄暗い馬車の荷台で“自身と同じく”磔のように両手足首を鎖で繋がれ、加えて目隠しと猿轡を嵌められた黒髪長髪の若い女と、馬車の持ち主であろうどこか怯えた様子の強面の男、そして御者席に座る痩せた男に向かい、機関銃の如き勢いで喋り続けていた。

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