1-2『当たり屋娘と追走少年』

「ドブフォ!?」


 少女から勢いよく放たれた鳩尾への一撃は、少年のそれほど大きくもない身体を吹き飛ばすのに充分な威力だった。

 バウンドするように何度も地面に身を打ちつけた少年は、痛みに地に膝を付け、悶絶の声を上げて蹲る。


「あぁ……くっそ痛ぇ……。やばい吐きそ、ウッ! ヴォエェ……」


『ハッハッハ! こりゃあいいもん貰っちまったなぁ!』 


 どうやら一切の受け身が間に合わなかったらしく、青い顔をして脂汗を流す少年は中々立ち上がることが出来ないでいた。

 一方それをどこで眺めているのやら、声は実に愉快気な哄笑を上げている。

 そこに、心配する様子は一切見られない。いやむしろ、腹を抱える姿がありありと想像できる程に笑い飛ばしてすらいた。


『イーヒッヒ……や、やべぇツボった、なんだよ吹っ飛んだ時のあの顔、ハーハッハッハ!』


「……おう、気は済んだか“ミギウデ”? だったら今すぐ出て来い、へし折ってやるよ」


 当然ながら、現在進行形で苦しんでいる少年にとって、その態度は癪に障るものだったのだろう。苛立ちを隠そうともせず、声――ミギウデと呼ぶものに向かって忌々しげにそう告げる。


『ほぅ。なら、やるか?』


「俺は構わないぜ」


 しかしミギウデも乗り気なようで、また売り言葉に買い言葉で答える少年の挑発から、二人の間に剣呑な空気が漂い始める。

 まさに一触即発。宛ら剣を持って向かい合った戦士のように、緊張感に場が静まり返った時だった。


「すまーん、独り言で盛り上がってるところ悪いんじゃが」


 なんとも今の空気にそぐわない暢気な声が、その諍いに待ったを掛けた。


「……」


『……』


 途端ピタリと、少年とミギウデふたりは口を閉ざし声の元へ視線を走らせる。どうやら口論に夢中になっていたようで、すっかりと元凶の存在が意識から抜け落ちていたらしい。

 そして少年はそのことを思い出すと、未だ衝突直後の姿勢のまま地面にうつ伏す少女に向けて、ジットリとした恨みがましい視線をぶつけた。


「やっ、ワシも悪いと思ってるから、そんな睨まんでくれ。そして理由わけを聞いてくれ。そして同情してくれ。ついでに助けてくれ。ワシ、もう動けない。それと、食い物もあればパーフェクト」


「なんだこいつスゲー図々しい!」


 余程切羽詰っているのだろうか。申し開きも程々に、少女は早口にそう告げる。

 果たして、自分が全力で少年を突き飛ばしたという自覚はあるのだろうか。もっともSOSの中にシレっと自分の要望を紛れ込ませる辺り、少女の胆の強さが見て取れるのだが。

 しかし、


「何一つ理解が及ばぬままの状況で力尽きるなぞ、死んでも死に切れん……。じゃから推定・極楽浄土にてようやく見つけた第一村人よ、礼は後で必ずするが故どうかお情けを……。……ついでに害虫駆除を受けてくれたら、ワシ嬉しい」


 今にも泣きそうな声でそう語る少女は、重そうに首を持ち上げると少年を見る。その宝石のような山吹色の瞳に涙を蓄え、捨てられた子犬のような悲哀を滲ませながら。

 情に訴えかけるとは、正にこのことか。此処で少女を見捨てようものなら、人でなしの汚名は免れない。

 なによりそんな少女の姿に、少年も心揺さぶられたようで――。


「此処が極楽浄土なら、死ぬもクソもあるか。悪いが当たり屋娘にくれてやるもんなんざ一つもねぇよ」


 そう吐き捨てるとその場に座り込み、荷物の無事を確かめるように巾着袋を覗き込んだ。


「うっそじゃろ!?」


 少女もその反応は予想外だったようで、思わず身を起こして驚愕を露にする。


「幼気な美少女が涙を流して懇願しておるというのに、お主はそれを放置すると!? 現代っ子ですらお年寄りには席を譲るというのにか! 無情過ぎるんじゃが! じゃが!」


「ハッ、やっぱりな」


 動けないと自己申告していたにも関わらず、どういう訳か少女は勢いよく立ち上がってみせると、責め立てるようにそう言い放った。その姿に、数秒前までの弱々しげな面影は見当たらない。

 しかしそんなことはお見通しだとでも言うように、荷物の確認を終えた少年は少女の抗議を鼻で笑うと、そそくさと立ち上がり言った。


「じゃあな、あんまり人様に迷惑かけるようなことすんなよ。つーかまだ痛ぇ」


 そして少年は、未だズキズキと鈍痛が続く鳩尾に手を添えながら、これ以上の関わり合いを拒むように背を向け、再び歩き出す。

 一見非情に思えるこの態度。しかしそれは、身にならない面倒ごとを回避する為の彼なりの処世術でもあった。

 しかし、


「……おい、離せ。……離せぇ!」


「いやいやいやいやいや、旅は道連れ世は情けと言うじゃろ? それにさっきもずーっと独り言を繰り返しておったじゃろう? そんな寂しい一人旅に、華を添えたいとは思わぬか? 思うじゃろう? 思え」


「別に独り言じゃねーし、寂しい訳でもねーよ! ていうか意外と力強いなコイツ!?」


 ミシミシと腰の骨が軋む音を響かせながら、気付けば少年は一歩進むことすら困難な状態に陥っていた。

 理由は簡単なこと、少女が腰に全力でしがみ付き離れようとしないことが原因している。


「離さんもん離さんもん! ここでお主ガイドを逃そうものなら、ワシは大百足の腹ん中じゃ! もっぺん死ぬならせめて多くの人間に囲まれて看取られたい! いや、そもそも死にたくもないんじゃがな!」


「だからって此処で俺を捕まえたってどうにもなんねーよ! ……てか、大百足ってなんの話!?」


 互いに譲歩する気は一切なく、掴み掴まれの攻防が崩れぬまま膠着状態が続く。それは、互いの力が均等であるという事実に他ならなかった。

 故に少女は腕に、対する少年は脚に更なる力を込める。そんな二人の様子を例えるなら、宛ら限界まで引き絞った弦のようであり、または反発し合うも無理やり押さえつけられる磁石のようでもあり。

 やがて終わりの見えない根競べは、意地の張り合いへと移る片鱗を覗かせた。

 だがその時、


「あ、すまん。ワシ用事を思い出した」


 少女は唐突にそれだけ告げると、驚くほど呆気なく少年の腰から腕を解いた。


「――は?」


 当然そんなことをすれば、少女の束縛から逃れようと力み続けていた少年がどうなるかなど容易に想像出来るだろう。

 弓から放たれ勢いよく飛ぶ矢の幻が、一瞬少年の脳裏を過る。


「ベフッ!?」


 もっとも、少年は人であり矢に非ず。結果見事にバランスを崩し、勢いのままに地面と熱い接吻を交えることとなったのだが。


「おっ前、それはダメだろ……。人が座ろうとした椅子を後ろに引くくらいやっちゃダメだろ……」


 少年は痛みを堪えるように鼻を押さえ、物悲しげに言うと立ち上がる。そしてなんとも複雑な表情をしながら、少女が居た方向へと振り返った。

 しかし、


「……」


 し気付けばその姿は遥か遠くにあり、始めに衝突した時と同じ速さで少年との距離を開けていた。

 まるで嵐のような一連の出来事に、少年の絶句するように開いた口は塞がらない。


『追わねぇのか?』


「え? あ……う、うーん?」


 数秒の放心の後、暫く黙っていたミギウデが見計らっていたかのように口を開く。その言葉にハッとした様子の少年は、あやふやな返事を返す。

 だが、それが気つけになったのだろう。今は何を優先すべきかを思い出した少年は、両頬を軽く叩くと深い溜息と共に応えた。


「……いや、いいよ。物を盗られた訳でもなし、なら追っかけても疲れるだけだ。そんな無駄な労力使うくらいなら、さっきまでの出来事は全部忘れてトーポリに向かうとするさ」


『そうかい。ところで、後ろに注目して欲しいんだが――』



※ ※ ※ ※ ※



「ワシの名はキツネ! 日本のとある地方で神の現し身と奉られていた、少し毛が白いだけのごく普通の狐じゃ。狐だし神じゃが、メジャー所のヤベー奴らとは無関係じゃぞ!」


 獣の耳と尾を生やした一人の少女が、地面スレスレを水平に浮遊しながら奇妙な言葉を呟きつつ猛スピードで翔け抜ける。それは宛ら、宙を泳いでいると表現するに相応しい光景だ。

 尤もそんな何処と無く雅な光景も、愛でる者が居なければ意味は無い。なにより当の本人が、そんなことを気にしていられる状況ではないのだから。

 それは、額から止め処なく流れる汗の様子から窺える。


「しーっかし、どうしてこんなことになったんじゃろうな。とうとう迎えが来たと思ぉてみれば、童女化して未知の地に放り出されるとか意味が分からん。加えて土煙を挙げ地中を走る大百足に追われたり、心無い現地人との交流だったりとイベントに事欠かぬ。もしや、前にちょろっと読んだ小説に記されていた『異世界』というやつか? これがホントの神様転生、ってやかましいわ!」


 浮遊したまま掌で膝を叩く少女は、相変わらず奇怪な言動をしつつも自分が置かれている状況について思考をフルに回転させる。

 そして導き出された一つの結論に、内心『そんなバカな』とは思いつつも、同時に今の状況を否定する材料も持ち合わせていないことに渇いた笑声を上げていた。


「アッハッハ。――やっ、マジでどうすりゃいいんじゃ。そろそろ凹凸も収まり見通しもよくなってきたというのに、地平線の先には未だ人工物の一つも見えやせんとか。幸い、大百足はもう追って来とらんようじゃが」


 少女の言う大百足とは、少年と邂逅するまでの間延々と少女を追い回していた土煙の正体である。間違っても、あの土煙は高速で移動する少女によって巻き上がったものではない。

 そして大と付くだけあって、一般的な百足とは明らかに異なる巨体を誇り、また頭部には特徴的な細く長い角のような突起を有していた。

 地上に突起の先端を僅かに突き出し、本体は地中を高速で移動することにより土煙を巻き上げるとされ、本来はそれに併せて地中に響く獲物の足音を察知して追い込み猟をするのだが、幸いにも少女は浮遊していたことで正確な特定を免れていた。

 もしも少女がそのか細い脚に頼って逃げていたならば、少年と邂逅するより先に、百足の腹の足しとなっていたであろう。


 ともあれ、少女は疲れた声でそう言いながら、少しばかり移動の速度を下げてチラリと後方を覗く。その視界に、土煙は映らない。

 それで漸く、緊張が解かれたのだろう。移動を止めて膝に手を付く少女は、肺の中の空気を全て入れ替えるように大きく深呼吸をした。

 しかし、


「スゥ~、ハァ~……。どうやら撒けたよう――いや待て、あの無情な現地人はどうなった」


 安心も束の間、少女は途中で出会った少年のことを思い出す。そしてそれに気付いた瞬間、即座に顔から血の気が引く感覚に襲われた。


「まさか、喰われたとか……。いや、あんな生き物がその辺に居るんじゃ、このくらい日常茶飯事な筈じゃし大丈夫じゃろう。……いや、だからって本当に襲われていたら、寝覚めが悪いなんてもんじゃ済まんぞ」


 続いてガタガタと指先が震えだし、徐々にその震えは全身へと伝播する。数秒前まで疲労により荒くなっていた呼吸は、また違う荒々しさを見せた。


 少女にしてみれば、ほんの二言三言交わしただけの悪印象甚だしい少年に過ぎない。『ワシに無礼を働くからじゃバーカ』と、倫理面はともかく知らん顔をすることもできた。

 加えて状況が状況故に混乱していたこともあり、それを言い訳にすることもできた。

 だが、


 ――主は、本当にそれで良いのか? かつて人間にくれてやった慈愛の約定を、こんなことで反故にするのか?


 少女を少女たらしめる心の深根が、それだけは許さぬと静かに喝を浴びせる。

 それは良心の呵責からきたものか。或いは、全く別のものか。


「――うむ、やはり一旦戻って確認を」


 しかしながら少女の胸を穿ったその一喝は、迷いを晴らすのに充分なものだった。続けて少女は考える間も無く来た道を振り返る。

 もはや手遅れではないかという、そんな不吉な予感から目を逸らして。

 直後、


「見つけたぞ、当たり屋娘ぇええええええええ!」


「ヴァアアアアアア!?」 

 

 少女が振り返った先には、件の少年が必死の形相と共に全速力で走り迫る姿があった。そしてよくよく見てみれば、彼の背後には巨大な土煙が存在を主張している。

 少女もこれには堪らず濁った悲鳴を上げると、再び逃げるように背を向けた。


「待て逃げんなコラー! こんなもん押し付けやがって、ミギウデが気付かなきゃ今頃百足の腹ん中だったぞクソッタレ!」


「ああ悪かったワシが悪かったとも、じゃからこれ以上こっち来んでくれソレを近づけるな百足の腹で即身仏とか死んでも御免じゃー!」


「テメェが元凶だろーが!?」


 数秒前までの葛藤は一体なんだったのか。いざ直面してみれば、少女は再び身体を浮かせ一目散にその場から逃げ出す。

 当然彼女の内心を知る由も無い少年は、引き離されまいと懸命に後を追った。


「待たんかいこのクソガキィ!」


「待つから、待つから後ろの百足をどうにかしてくれぃ!」


 先の葛藤など見る影も無い。とはいえ横幅だけでも一・五メートルを越え、体長は“見えた部分だけで”推定六メートル以上の大百足など、少女の手に余ることこの上ないのだが。

 それでも他力本願丸出しの絶叫は、完全な被害者である少年から罵られても文句は言えないだろう。

 しかし、


「……言ったな?」


「へ?」


 その言葉を聞いた少年の反応は、実に意外なものだった。


「言質は取った。やるぞ、ミギウデ」


『あいよ、シェイド』


「え、ちょっ」


 そう言った直後、少年――シェイドは足を止めると即座に背後の土煙へと振り返る。

 そして少女が何かを言うより先に、身体を屈めて両掌を地面に当てた。

 併せて、小さく呪文のような言葉を呟く。


土よグノーマ、噴き上がれ」


 すると土煙が収まり、直後爆発音に似た音が大地を裂いた。

 そして噴火の如き勢いで地中から溢れ出した土流が、すぐ足元まで迫っていた巨大な百足を空高くに押し上げたのだ。


「なっ……!」


 突如として眼前で起きた光景に、少女は思わず目を見開き驚愕を口にする。

 当然だ。露となった大百足の全長は裕に十メートルを超えており、おまけにそんな巨体が、不可思議な力に押し上げられて宙を舞っているというのだから。

 しかしその巨体もやがて重力に引かれ、少年目掛けて降りかかる。


「危な――」


 距離がまだ少しばかり開いていたことが幸いし、少女が巨体の下敷きになることはない。

 けれど少し離れた位置から俯瞰してそれを眺めていたが故に、このままでは少年が押し潰されるであろうことを少女は理解した。

 理解したからこそ、咄嗟に手を伸ばしていた。その手が、到底届く筈も無いと知りながら。


「『そんじゃあ仕舞いっと』」


 だが直後、


「……へ?」


 少年の尾てい骨付近の位置から突然現れた巨大な黒い物体が、大百足を横殴りに勢いよく吹き飛ばす。結果、落下の軌道を強引に書き換えられた大百足は、少年の頭上から影を除けた。

 そして、本来落ちる筈だった場所とは全く違う位置に勢いよく身を落とした大百足は、それ以降動くことはなかった。


「な、なんなんじゃ一体……」


 少女は声を震わせ、少年の腰から尾のように生える人の右腕の形とよく似た黒い物体を凝視する。

 それは空気に触れて暫く経った血のように赤黒く、微かに浮き出た血管のような組織が絶え間なく脈動し、百足程度では物足りぬとでもと言わんばかりに蠢いていた。

 なによりその禍々しい気配に、少女は思わず胃を絞り上げられるような感覚に襲われる。


 しかし、そんな少女の様子を知った様子も無く、少年は振り返ると言い放つ。


「さて、それじゃあ色々聞かせて貰おうか」と。

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