第12話 日記。

 私は、深く深く、息を吸って吐いた。


 大丈夫、大丈夫。


 あの海で香里と過ごした時間から4ヶ月後の1月。


 香里は退職した。

 その後は、私と一緒に暮らし、パソコン教室通いとハローワークへも足を伸ばしていたが、事務職の求人は少なく、経験のある人が優先との条件もあり、上手くいかない事に時折いらついた様子も見せていた。

 

 それでも体調を整えつつ、友達と会ったり、自動車教習所に通ったりと少しずつ、行動範囲を広げている様子に、少しの安堵を覚えた。


 それから、夏になり、再び介護の仕事に再就職を決めたのだった。


 灰色に黒色の飾り枠。古い大学ノートを思わせる表紙。


 中央に日記と印字が入っている。


 

 何が書いてあっても、受け入れるから。あんまり自信はないけど、受け入れるから。



 最初のページ。


 あの時に焼き付いた「お母さん嫌い。」の文字が刺さる。


 服の上からでもドクドクと分かるくらいの胸の鼓動を感じた。


 最初のページは何も書かないと言っていた香里の言葉を思い出した。

 みんなそうしてるからと。


 後から書かれたであろう、その感情的な文字は、香里の荒れた心を伝えるにには十分だった


 伝わってくる香里の声に目を閉じた。


 そして、ゆっくりと呼吸と整え、目を開け、ページをめくった。


 2ページから日記は始まっていた。


 横書きで日付ごとに8行ずつの範囲内にびっしりと書かれてある。

 あまりきれいとは言えないが、丁寧で分かりやすい字だった。


 8月3日(日)

 明日から、仕事。不安だけど、頑張る。

 今、思い出した嫌なこと。

 お母さんに出て行けと言われた。面と向かって言えないくせに。


 明日の仕事で、家以外に居場所ができると嬉い。そうなるように努力する。イライラが少しでも減ったら嬉しいな。

 痩せたい!


 

 確かに、この頃は一緒にいる事でイライラしていている様子で、口もきかない日が続いていた。一人暮らしした方が楽なのかと香里にメールをしたことがあった。

 

 いきなりの私への不満か。

 そんな出てけって…。そんなこと言って無いのに。

 

 私は、何も見えない霧の中で地雷を踏まないように、私は細心の注意を払いながら、香里を探していた頃だ。

 それでも、地雷を踏んでしまい、お互いの傷を隠したまま、また彷徨い続けていた。



 8月4日

 この日は二日分のスペースを使って書かれていた。


 初出勤。

 前の施設と比べると、ここは、まだ一年しか経ってないのに職員の出入りが激しいようだ。仕事は老健に比べてゆっったりしている。することを見つけるのに時間がかかりそう。

 今日の嫌なこと。

 何、あの看護師!?ゲロムカツク!💢

 私が今日が初めてって言ったよね?10時の点眼やった?とか知らん。

 入居者の名前なんて、まだ覚えとらんわ!入居者への口の悪さも気に食わん。

 何なのあの言葉遣い!あり得ない、呆れた。私への教え方下手すぎ。職員同士のチームワークも皆無な感じ。何が何だか。

 嫌な職場。事故って3ヶ月くらい入院したいわ。それで辞めたい。

 死にたい。眠剤欲しい。デパス欲しい。不機嫌隠せないし、自分の感情をコントロール出来ない。

 態度間違えると、お母さんキレるし。ほんまにどっかに消えてしまいたい。

 なんで怖いんやろ。人にどう思われるか気になる。嫌われたくない。責められたくない。完璧じゃないと。必要無い人になったら終わり。お母さんに捨てられる。本当にそろそろ死んだらいいと思う。一日一日を無感情、無表情で!!


 8月5日(火)

 ムカツク!ムカツク!質問に答えてくれたらいいのに。金切り声で、言い返してくるし、ベラベラと人のこと悪く言いふらしてるし。二日目で何も聞かずに仕事しろっていうのか。服薬なんてナースの仕事だろ!マジ辞めてくれ!カショオ酷くなりそうだし、リスカも復活しそう。もういいっか。傷隠す気もないし。どんどん性格悪くなってる気がする。元々、考え方が自己中だし。


 8月7日(木)

 この日は6日分のスペースに書いてあった。

 昨日、リスカした。ニードルでも刺した。少しスッキリした。

 昨日の夜も、今日の朝も、仕事へ行きたくなくて、動悸が酷くて息苦しかった。でもなんとか行った。今日も、あのナースがいる。気分が悪くなった。

 立ちくらみもある。

 尿測したときの性状を報告しなかったとまた言われた。他の介護士は、あの人あんな言い方しか出来ないから、気にしないでと言う。

 もう無理。

 何か質問しても、怒ったようにまくし立てて怖い。あの金切り声で、またリスカしたくなる。ODしたくなる。消えたい。誰も私を責めないで。

 戻りたい、2年前に戻りたい。



 怖い、怖い怖い責めないで、無視しないで。今までのSOSは全部無視された。親が看護師なんてろくなもんじゃない。

 食べなくなっても、腕切っても、お母さんは、キレるか、機嫌とってくるだけ。失敗した途端には香里は邪魔になる。捨てられる。死にたい。意識無くしたい。なんで、私はダメな人間なんだろう。もっと、明るく、おどおどしないで、聞きたいことすぐに聞けて、実行に移せて、自分の思っていることを人に伝える力があって、みんなに愛される人になりたい。

 でも今は関わらないで、一人でいたい。何も期待しないで、指示されないと動けないの。失敗して怒られたくない。


 自分の感情がコントールできない。

 お母さんに言うのが怖い。

 それを言うと、お母さんは自分を責めると思うし。

 昔のこと、トラウマもある。美保にも、お母さんにも話せない事もある。お母さんは、香里を置いて出て行ったことがある。私は要らない子。香里が悪いのは分かってる。


 小学校から、私の人生は狂いっぱなし。


 そう、娘たちが小学校の時、私は兄との確執が原因で実家を出て、職場の寮で生活をしていた。


 その数ヶ月後、私はアパートを借り、娘たちは転校も転校し一緒に暮らし始めた。


 それから、香里が中学3年の時、私は、美保の大学へ行きたいと言っていたが、自分だけの収入では進学は無理だった。娘たちの将来の事も考え、婚活サイトで知り合った人と再婚をした。しかし、優しかった夫は結婚した途端、DV夫に変貌した。家の中にいてもストーカーのようにどこ行くのかと聞かれ、美容院にも付いてくる。そして綾の美容院ではなく、自分の知り合いの美容室に変えられた。仕事で遅くなれば、誰といた?から始まり、仕事と言っても納得しない。しびれを切らし、暴言、物を投げるが始まる。


 そんな日々に耐えれず、私は娘を2人連れ、県外へ逃げた。警察へも届け、いわゆる駆け込み寺へ逃げ込んだのだった。そこでは、担当のケースワーカーが付き、離婚調停の段取りを整えてくれた。


 そして離婚が成立し、私はその土地で無我夢中で働いた。


 香里は、中学3年でもう卒業を控えていた。新しい土地での中学へはほとんど通わず、何の縁もない卒業証書を受け取った。そして高校へと進学し、あの写真の友達との出会いとなった。


 いつだったか、香里に言われたことがあった。


『自分らには、お母さんについて行くしかなかった。

 何の選択肢もなかった。言えなかったけど、小学校の時、本当は友達と別れたくなかったし、お母さんの再婚なんて嫌だった。

 お母さんを取られたみたいで、お母さんと話すのも怒られたし。』


 私は、この時、ハッとした。

 自分は必死に子どものためと思って生きてきた。

 でも結局は、自分の気持ちしか考えてなかった事に気がついたことがあった。


 日記のまとまりのない文脈が、香里の感情の起伏の激しさを表していた。

 香里は自分を責め、私を責め、怖くて怖くても助けを呼ぶ声が届かない。私、母親に向けて、壮絶な苦しい辛い思いを伝えていた。

 

 

 香里は、再就職したばかりの仕事も辞め、今度は人との関わりの少ない入浴介助専門の求人に応募し面接も受けたことも、不安しかないと書かれていた。


 8月28日

 その採用の電話を受けた日で、この日記は止まっていた。


 亡くなる2週間ほど前であった。


 そして香里は、9月11日初出勤した翌日に亡くなったのだ。



 私の人生が、香里を変えてしまった。


 いっそのこと、辺り構わず、地雷を踏み爆発させた方が良かったのかもしれない。

 埋もれたまま、抱えたまま、耐えきれず自爆してしまったのだから。



 あなたを死なせてしまったのは、やっぱり、お母さんね。


 自殺ではなかったけど、同じ事よね。

 

 解剖をしてくれた医師が言った言葉を思い出した。


 風邪を引いても、肺ではなく、膵臓にくる事もあるし、またストレスが膵臓に影響することもある。

 

 不運としか言いようがないですと。


 辛く苦しい思いをしながら、逝ってしまったのね。


 私がいたのに助けを求めなかったのは、倒れてそのまま意識がなくなったから助けを求めなかったと思ってた。


 でも、もしかして死にたかったから助けを呼ばなかったの?

 痛かったでしょ。苦しかったでしょ。


 本当に助けられなくて…ごめん。


 数日まえから、疲れたと言っていたね。爪の色も少し悪かった。

 最後のSOSだったのにね。

 

 あの時、病院へ連れて行ったら、助かったかもしれない。


 後悔しかないよ。


 今更遅いって、香里の怒る声も聞けないね。



 私は、これからどう向き合えばいいのか。


 お墓の前でどんなに手を合わせても、許してもらえないよね。



 私は、ノートを抱え、声をだして泣き崩れた。

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