第11話 香里、ごめんね。
写真の整理をし終え、段ボールの中に残っていたノート3冊と手帳を手に取ると、段ボールの角の隅で小瓶が転がった。
あら、これ。
中には、あの桜貝が2枚。
割れてない…ということは、香里が小学生の時にくれたものよね。
でもなんでこんなところに…。
蓋のコルクに『はは』と黒のマジックで書かれてあった。
こんなの書いてなかったはず。
そうか、私がいつまでも探さないから、見つけて書いたのかしら。きっとそうね。
「香里…ごめんね…。」
私はそうつぶやきながら、香里の書いた『はは』という字をなぞった。
丁寧で素直な字…。
少しでも、香里の痕跡に触れたいと思った…。
それも嘘ではない。嘘ではない。
しかし、それとは相反し、奥底に眠っていた私の中の黒い感情が見え隠れしているのを自覚した。
その理由は、このノートの中の1冊にあることを私は知っている。
おそらく、私が香里と向き合ってこなかった事実がここに書かれている。
そう、おそらく…である。
このノートと手帳、私は書かれている内容のすべてを知らない。知る勇気が無かったのという方が正解かもしれない。
グリーン、ブルー、グレー。それぞれデザインの違う3冊。
ブルーのノートは、韓国語の勉強をしていたらしく、ハングル文字が並んでいた。
そうか、香里は韓国の女性アイドル歌手のファンクラブに入るほど好きだったな。韓国行きたいって言ってたわ。
私には場違いなコンサートにも引っ張り出されたな。
香里のあんなに大きな声初めて聞いて、ビックリしたの思い出したわ。
前を向いていたのにね。
グリーンのノートには、黒マジックで太く大きな文字で、1ページだけ書かれていた。
したいことみつける
車の免許
簿記 職業訓練
大学 薬学 農学
話す
性格 明るく 元気に
不気、何かかけかけて止まっていた。
不機嫌をやめるとでも書きたかったのか。
文字は力強く、一生懸命生きようとしていた香里の姿がそこにはあった。
そして、このノート。
グレーノートの最初の1行。
『お母さんは、自分を嫌い。死にたい。』
前向きに生きようと書かれていたグリーンのノートとは、正反対の言葉。
忘れもしないこの1行は私を震えさせた。
私のせいで、香里が死んだ。
そういうことになる。
でも、それを私は認めたくなかった。
その先を読む勇気は、私にはなかった。
そう、私は、香里の死後も彼女の深い闇に向き合うことを拒んだのだった。
香里の心の中で、私はどんな姿を映しているのか。苦悶に満ちた姿なのか、狂気的な姿なのか、暗く濁った世界を見てしまう事を恐れた。
香里が、私に対して不満を感じている事をなんとなく感じていた。
なんとなく…。
その曖昧さを突き詰めることは、悲運な母娘の物語の印象を崩壊してしまう。子どもを亡くした可愛そうなお母さん、でなくなってしまう。
あなたのせいでしょ。
母親のくせに。
そんな声が聞こえてくる。
娘が亡くなった因果関係に自分が関わっているなんて思いたくなかった。
自分自身を擁護し、逃げていた。
香里が亡くなって、こんなに悲しくて、辛くて、直後の私は、ぼろぼろだった。
それも事実…。だけど、そんな繕った化粧の下に隠した黒い欲。
娘の死を利用して、可愛そうなお母さんと思われたい。
自己憐憫(じこれんびん)、悲劇のヒロイン症候群…というらいしい。
認めて欲しい。だから、自分に不利なことは隠したい、知りたくない。
自己顕示欲が強いのかもしれない。
自分は、汚くて、卑怯で、都合の悪いことは体裁を繕って、それでも、思うようにいかなければ逃げる。その繰り返し。
探し求めた居心地の良い場所に身を置くことが出来ても、常に不安定な人生。
だから、その不安定さを矯正するためには、娘の死も武器だった。
酷い母親ね…。
どうしよう…。
小瓶のコルクの蓋に書かれた『はは』と言う文字が、私の指から何か訴えているように感じた。
分かったよ。もう逃げない。
香里と向き合う事は、自分自身と向き合う事。
でも、どうしよう…。
手に取った3冊のノートを床に置いた。
あれ、なんか出てる。
ブルーのノートから少しはみ出した一枚のレポート用紙が目に入った。
何だろ?こんなのあったっけ。
重い決断から逃れるように引力は強かった。何の躊躇もなく、私の意識はこのレポート用紙に集中していった。
領収書?
レポート用紙にクリップで留めてあった黄色い領収書が目についた。
この会社、パソコンスクールのだ。
香里は老人保健施設を退職し、ハローワークからの紹介でパソコンスクールに通っていた事があった。
高校生の時に取得していた簿記の資格を生かそうと、介護関係の仕事以外にも選択肢として事務系も考えていたようだった。
だが、レポート用紙には鉛筆書きで香里の字ではない字でパソコンとは無関係の文字が並んだいた。
鼻炎薬や感冒薬の他に、ウット、エチラーム、クロフラニール。
その時に飲んでいた内服薬を書き出し、購入先と一回の服用数が何錠あるのかを整理したものだった。抗うつ、睡眠導入などのいわゆる精神安定剤である。薬局や通販で購入し、それらを何錠かづつ混ぜ一回に20錠内服したとの記載もあった。
このレポート用紙が書かれた時、つまり亡くなる8ヶ月前には、残薬は無くしばらくは飲んでいないと書かれていた。
クリニックでもらったとばかり…。
その内容には驚くことは無かった。
それより、私にではなく、関わってまだ浅いパソコン教室の講師に人にこんな相談をしていた事に不快感を覚えた。
確かに、亡くなった香里を発見した時、自殺を疑って周囲やゴミ箱の中を必死にあさっても出てこなかった薬の空シートが、警察が来てから、押し入れの中のトートバックの中に大量に入っていたのを見つけた時はショックだった。
その時のすべての空シートも警察へ提出したが、市販されているものばかりで、血液データーの結果も中毒性はなかったとのことで、死因には関係はないと報告を受けている。
そう言えば、一度、香里宛ての宅配を受け取ったことがあった。
すべて英語表示だったのを変に思ってはいたが、漫画だと言っていた本人の言葉を信じていた。今思えば、あれが薬だったのかもしれない。
薬の羅列の下に、ODを止めたい。とあった。
OD?って何?
調べてみると、over doseの略で、自殺願望や現実逃避のために睡眠薬などを指示量以上に大量に内服する事とあった。
市販薬の鼻炎薬も、ODの入り口として服用するらしい。
そっか、私には言えないよな…こんなこと。
その下に書かれていた文字。
親子関係に悩みか…。やっぱりね。ODと言う行為をするまでに至った原因は私にあるのよね。
やっぱり、この中か…。
私は、床のノートに問いかけた。
「ねぇ、香里、お母さんに言いたかったことは何?
分かってるのよ。お母さん、あなたと、ちゃんと向き合ってこなかった。そこでしょ。言いたかったんでしょ。
そうよね、いつだったか、薬で、呂律がまわって無くて、ふらふらな事もあったけど、水分だけ促して、お母さんは病院へつれて行かなかった。
だって、病院の救急外来で、同じような患者が運ばれることもあったけど、点滴して意識が戻ればすぐ返されるのわかってたし。まして、あなたを連れて行くとしたら自分の病院になるでしょ。他の病院だったら医療費返ってこないし。だから、連れて行くなんて出来なかった。というより、そうよ、体面を考えてしまったのよ。
香里のSOSだったのにね。
そんなこと関係なく、連れて行って欲しかったよね。きっと。
ごめんね。こんなお母さんでごめんね…。
香里…。やっぱり、会いたいよ。会いたい。
私は、ノートを抱きしめた。
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