第10話 海にて。

 香里は、器用に整えたくせの強い長い髪を大きめの髪留めでまとめ、襟にスタッズの飾りのついた白いシャツを黒のインナーの上に羽織った。

 そして、たるんだ細身のジーンズが香里の不調を物語っていた。


「食べないとね。」


「このままでいい。」


 この時の3ヶ月ほど前に、私の兄から太ったと言われたことで、泣いたことがあったのを思い出した。来年成人式なのに、ちゃんとしろと。


 身体をストイックに鍛えている兄が、軽い気持ちで言ったことが香里には敏感に響いてしまった。


 ほんと、余計なことを言ってくれたもんだわ。


 私は、途中のスーパーでお弁当とお茶を買ってから海までの30分の道のり、そんな事を心の中でつぶやいていた。


「痩せたいのはわかるけど、食べるもん食べて痩せないと。」


「そうかもね…。」


 車内では、沈黙を取り繕うように香里にそう話しかけていたが、香里は口数少なく、窓の外を眺めるばかりだった。


 ほとんど会話もないままただ時間が過ぎ、長く感じた道のりも、ようやく右手に海が見えてきたことで、気持ちを高めた。



 砂地の不規則に交差するタイヤ痕を抜け、波打ち際から10mほどの位置に車を停め、車を降りた。


 この当たりの砂浜は、細かな砂粒で硬く締まっているため、波打ち際まで車を乗り入れることが出来る。


 

 自分たちの他にも、小さな子ども2人と母親らしき女性と年配の夫婦らしき二人連れ、女子会なのか、若い女性が3人、同じように車を停めそれぞれの時間を楽しんでいた。


 少しひんやりと感じる潮風、ちょうど流れてきた雲が日差しも遮ってくれていた。


「あぁ、この潮の香り。すごい久しぶりだわ。気持ち良いね。」


 思い切り背伸びをしている私の隣に、香里は折りたたみの椅子を車から降ろし降ろし、砂地に食い込ませるように2台設置してくれた。


「ありがとう。気が利くじゃん。」


 そして香里は何も言わず椅子に座り、お弁当とお茶を私に渡してくれた。


「サンキュー。じゃあ、食べよっか。」


 私が食べ始めると、香里は箸を持ったまま、しばらく静かに海を眺めていた。


 頬を一筋の涙が伝ったのが分かった。


 声をかける事も出来ず、そのまま静観していると、5歳くらいの女の子が香里のそばに寄ってきた。


「お姉ちゃんどうしたの?」


 香里は、鼻をすすりながらも、女の子に笑みを向けた。


「かなちゃん、ご迷惑よ、戻りなさい。」


 女の子は、母親の声に一旦振り向いたが、


「これあげるから泣いちゃダメだよ。」


 女の子はそう言って、砂だらけの小さな手に持っていた一枚の桜貝を、香里のお弁当の蓋の上に置いた。


「これ、持ってると良いことがあるから。かなね、いもうとが出来たんだよ。」


 女の子のあとを追って、赤ちゃんを抱いた女性が小走りに寄ってきた。


「すみません。この子、桜貝をみんなにあげるのが好きで。」


「ありがとう、かなちゃん。大事にするね。」


 香里は、天使のような女の子の笑顔に、つられるかのように笑顔で返した。


 香里って、こんないい顔するんだ。


 かなちゃんに助けられたな。ほんとに天使ね。


「香里、小学校の時の桜貝思い出したね。あれまだ持ってる?」


「持ってる。お母さんにもあげたよね。」


「もちろん、どっか探せばある。」


「どっかって、なにそれ。」


「どっかって、どっかよ。あんな部屋じゃないもん、すぐ探せるわ。」


「そうだね…。お母さん…ありがとう。」


「ん?」


「掃除してくれて。」


「そのことね。」


「あのね…。」


「何?」


「仕事…辞めたい。」


 予想どおりの言葉に、私の返事は決まっていた。


「そ、辞めれば良いじゃん。しんどいんでしょ。やっぱ介護は大変だった?」


「ううん。違う。違う。」


「ん?」


 香里は、主任からのメールのメッセージを見せてくれた。


「なにこれ。香里の体調気遣ってるみたいだけど、食事も誘ってきている。それに、ずいぶん遅い時間ね。」


「電話も何回も。断ったら、仕事ですごい怒られてばっかりになって。大嫌いや。仕事いつくるんやって昨日もかかって来たし。もう、ややわ。」


 香里は、両手で顔を覆った。


「パワハラ、セクハラみたいね。そうやったんや。その主任の上の人には言った?」


「そんなことしたら、何されるかわからん。」


「そっか、わかった。でも、このまま何にもしないでいてもしょうが無いし、心療内科受診して診断書書いてもらって少し休んだら?診断書出れば、その主任だって、あれこれ言って来れなくなると思うよ。」


 香里は深く頷いたあと、お弁当の蓋を開けて、勢いよく食べ始めた。


「ほら、よく見て蓋あけないと。せっかくの桜貝、落ちちゃったじゃない。」


 拾った桜貝は二つに割れていた。


「天使ちゃんは、良いことあるって言ってたけど、これじゃ、御利益半減ね。」


「お母さん、変なこと言わないでよ。テープでくっつけるわ。」


「テープで?それだけ、大雑把な性格なのにね。」


「それとこれとは別よ。」



 香里は、割れた桜貝を大事そうにティッシュでくるんで財布に入れた。


 溜まったもの吐き出せて、この時は、いつもの香里に戻ったかのように思えた。


 


 しかし、この1年後に起こったあの強烈で残酷な記憶。

 

 その悲劇へと向かう始まりだった。

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