第9話 母として…。

香里は高校卒業後、介護老人保健施設で介護の仕事に就き、職場が管理するアパートに一人暮らしをしていた。

 就職後1年半ほど経ったころだっただろうか、香里が体調不良でしばらく休んでいると職場から連絡が入った。


 体調不良…。電話のニュアンスからは、精神的な不調を思わせるものであった。

 メールのやりとりや、一緒に食事に行くこともあったが、香里はそんな素振りは全く見せなかった。


 何でも話してくれていたと思っていたのに…。

 我慢してたのかな…。


 職場の上司からの連絡をもらったあと、すぐに香里にメールをするが、返信も無い。とりあえず、今から行くからとだけメールをして、私は、香里の好きなドーナツを持ってアパートを訪ねた。


 朝晩は涼しくなり、ようやく秋を感じる頃ではあったが、昼近いこの時間は、まだ夏のような日差しが射していた。



 鍵が開いたドアを開けると、むわっとした空気が私の身体に気色の悪さを残し玄関から逃げていった。



 うあ、なに、台所も、床も…。

 臭っ…。


 服やペットボトルで埋められた床の隙間に足を慎重に置きながら、部屋の奥から聴こえる細い声の元に寄った。


 声の主は、頭まですっぽりかぶった布団の中ですすり泣く香里の泣き声だった。


「香里…どうしたん?」


 そっと声をかけると、布団の中のその声は、しゃくり上がるようにボリュームをあげた。


「ドーナツ持ってきたから、食べてね。部屋…かたづけるよ。」


 こんもりと盛り上がった布団の縁の枕元と思われる場所に、ドーナツが入った紙袋を置いた。


 私は、締め切ったカーテンと窓を開けた。


「香里、ほら、外の方が涼しいよ。」


 淀んだ湿った黄色い空気が、乾いた透明な空気に入れ替わっていくのが見えたような気がした。


「こんなに天気良いじゃない。もったいないなあ。」


 後方で紙袋がガサガサと鳴った。


「何か飲む?」


 布団の盛り上がりがモゴモゴと動いた。


「飲むってことか?」


 また動いた。


 予想どおり、冷蔵庫の中も…酷かった…。

 いつからこんな…。


 腐敗した食べ物や、飲みかけのチューハイの缶。


 冷蔵庫の中をさらうように掻き出しレジ袋に押し込んだ。


 賞味期限内のべたついた缶コーヒーを、水で洗い、開けられたドーナツの紙袋の横に置いた。


「やだ、布団汚れるでしょ。」


「ごめんなさい…」


布団の端をぎゅっと握りしめた香里が、泣きはらした瞼を伏せ気味に顔を出した。


「香里、髪も顔も部屋も酷い有様ね。ね、何にも食べてないでしょ。」


 いつもキチッとして、おしゃれに気を遣っていた香里の姿に、私は深くため息をついた。


「ごめんなさい…」


 香里のまだ濡れた目から、また、大粒の涙があふれ出た。


「わかった、わかった。じゃあ、洗濯機回してる間に掃除するから、顔洗ってきて。終わったらどっか食べに行こ。」


香里はティッシュで鼻を思い切りかみながら、うなずいた。


私は、娘たちと深く話しをするときは、食事をしながらと決めていた。


美味しい物を口に入れている時は、人は気持ちが穏やかになる。


空腹感では、イライラして負の言動が出がち、逆に満腹だと、喋らずゆっくりしたいという心理が働く。


あくまで持論ですが…。


だから、序盤は食べているメニューの話から、食べ始めて半ばほどのタイミングで、本題に。食べ終わったあとは、別の話題をするようにしている。


この日も、どこ行こうかと、掃除をしながら香里に聞いていた。


「海に行きたい…。」


「海?またどうして。感傷チックなこと?」


「…。」


「そうね、久しぶりに行こうか。お弁当買って海で食べよ。」


 ふたたび泣き顔になりそうな香里に、私はそう言った。


 娘は仕事を初めてまだ浅く、学生の時とはまた違った人間関係のもと多々壁にぶつかっていたのであろう。


 自分自身も、人間関係に悩んだことは腐るほどある。だから気持ちはよく分かるが、この時は、母親として、そんな娘にどう関わっていけばいいのか悩んでいた。


 とにかく、何かしら香里が何か吐き出すことが出来ればと…。


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