第8話 お母さん、何も知らなかったんだね。
私は、休職中を利用し整理をしようと、娘たちの写真やノートなどを無造作に保管してあった段ボールを開けた。
各辺が交互に重なるようにして閉めてあった段ボールの蓋を解いた瞬間、一枚の写真が跳ね出てきた。
あ、この写真、懐かしい…。香里に泣かれたやつだ。
娘たちが小学生の時、夏休みの自由研究のため、雲を調べようと近くの浜辺で、撮った写真だった。
やっぱ、暗く写ってたわね。
『なんで、顔が真っ暗なんよ。こんなの嫌や』
『何言ってんの、日焼けで黒んぼの顔に、夕陽が後ろだったもの。香里がここで撮ってってきかなかったんじゃないの。雲撮りに来て、海で泳いでばっかりで、遅くなったんだから、しょうがないでしょ。』
私もむきになって、言ってしまったもんだから、あの時は大泣きして大変だったの思い出した。
でも、可愛い笑顔、しっかりわかるじゃない。
香里ったら、両手を思いきり上に広げてる。確か、香里の手が右の美保の頬に当たって、あの後、ケンカしてたわ。
あれ、何かな。何か手に持ってる。
メガネをかけて、目を凝らしてみると、香里の左手には何か小さな影が見える。
もしかして…。
桜貝だ。帰ったあと小瓶に詰めて、自分の分と、私の分もくれたんだ。
そう、この時の桜貝、お棺に入れたよね。
そっか、天国いっても持ってたんだね。大事にしてくれてたんだね…。
あら、裏に何か書いてある。
―美保4年生、香里2年生。西浜海水浴場にて―
やだ、香里かしら。美保はこんなきれいな字じゃないしね。漢字もしっかりしてるし、大きくなってから書いたのかな。香里の字、初めて見たかも。こんな字だったんだ。
少し緩んだ頬に、涙が伝った。
一枚の写真が、いろいろな思いを蘇らせてくれる。
私は、床に座り込み、段ボールの中から、昔、ネガと一緒に写真屋でもらった古い紙製のミニアルバムの埃を払いながら、写真をすべて出し、自分の周りに広げた。
シワシワ、色あせ、何かをこぼして変色したもの、被写体が不明なもの、そういった統一感のないバラバラな写真たちが、床を埋めた。
何とも…良い眺めね…。
何千枚とデーターとして収まっている小さな薄っぺらい箱に比べ、この不揃いの写真たちは、圧倒的に写真の枚数こそ少ないが、その一枚一枚は、見た者の気持ちを何かしら動かしてくれる。
私は、涙を拭いながら、スマートフォンにこの風景を収めた。
そうだよなあ、今なんて、目を閉じちゃったり、どこを撮っているのわかんないものなんて、すぐ削除はする事が出来ちゃうしね。だからかなあ…。
特別感が薄いというか、それほど感情にはあまり刺さらないんだよね。
娘たちがまだ幼い頃の写真というのは、カメラで撮ったネガを写真屋へ持参して現像してもらう。そして仕上がりの日時に取りに行くというものである。失敗作でもなんでも現像されてしまうのである。ネガに合わせた横長の袋の蓋を開けて、見る瞬間まで成功なのかどうかが分からない。だから、写真を撮るときは、やり直しがきかない緊張感がある。そのためであろうか、どこで、どんな時に撮ったかは大体覚えているものである。
よく引っ越しなどの荷造りで、アルバムに見入って作業が進まないという事があるのもそういう事だろう。
電子媒体と紙では、脳への作用が何かしら違うのであろうか。その当時の緊張感と思い入れからか、スマホの中の写真を見るより、紙の写真の方が、不思議と感情が湧きやすいものである。
目を閉じてしまった写真も、それは、それで愛着を持って見れるものである。
そんな、写真たちを、すべてを年代ごとに区分けし、大容量の抹茶色の布を張った新しいアルバムに一枚一枚、手に取りレイアウトしていった。
案の定、時間を緩やかに使ってしまった。
そして…こんな写真にも涙した。
香里が、高校生の時に学校の友達と行った北海道の旅行の写真。
奏ちゃんに、栞ちゃん、藍子ちゃんに、沙耶ちゃん。
よく、香里の話に出てきた子たちだった。
この子たち元気かな…。
私は、ある場面を思い出した。
電話の向こうの声が詰まった。
香里が亡くなった事を赤川先生に電話で伝えた時だった。
香里のスマホのパスワードが分からず、友達に香里が亡くなった事を伝えることが出来ず、通っていた高校に連絡をしたところ、高校卒業後も同級生とともに交流のあった2年の時の担任だった赤川先生に連絡が取れたのであった。
「えっ…。」
「自宅で、朝、亡くなってるのを見つけて…。それで、仲良かったお友達とも連絡取れなくて、伝えていただけないかと。あと、先生にも良くしてもらって、娘からは、良く先生の事聞かされてたもので、ご挨拶に伺わせてもらいたいのですが。」
「そうなんですか…。わかりました。連絡は取れます。いやあ、ちょっと、すみません、信じられません。本当なんですか?って、お母さんが嘘をわざわざ言うわけありませんもんね。すみません、変な事言って。ちょっと動揺してます。」
数日後、その赤川先生から、連絡が入り、指定された日に、高校へ向かった。
教室に案内されると、仲が良かった、あの写真の4人集まってくれていた。
実は、2年の担任だった赤川先生と会うのは初めてだった。想像していたイメージとはかなり違っていた。
香里は、シュッとした男性が好きだったはず…面食いだと思っていたが…。
ふくよかな赤ら顔に、ずんぐりむっくり。まさに田舎のおじさんという感じだった。
『赤川先生がね、赤川先生ってね、赤川先生…。』
香里の話に本当によく出てきた登場人物であった。たいてい学校の先生の話というのは悪口が定番である。しかし、この赤川先生の話となると、悪口が何一つ出てこない。恋心さえ感じたくらいに楽しそうに話すのである。
そうか、そうなんだ。この先生が…。
ほっとしたというか、かえって安心した。
「すみません、突然に。香里の母です。みんなも集まってくれて、香里も喜んでると思います。」
一つの机を囲むように、奏ちゃん、栞ちゃん、藍子ちゃん、沙耶ちゃんの女子4人。そして赤川先生が、弧を描くように座っていた。
私は、そんな皆と向かい合うように、そっと座った。
そして、机に橙色の小さな巾着袋を置いた。
「香里を連れてきました。喉仏が入ってるんです。」
「こんなに小さくなって。ほんと、里田は親不孝者だ。叱ってやらないと。」
赤川先生の声は震えていた。
「頼んで分骨してもらって。お墓まだ出来てないので、大きい方の骨壺は実家に置いてあるんです。この小さいのは、私の自宅に。本当は、お墓には入れたくないんですけどね。そばに置いておきたくて。」
香里と一番仲が良かった奏ちゃんが、香里が入った巾着を、そっと撫でて涙ぐんだ。
「かおりん…。この前会ったばかりなのに。信じられない。また、今度って言ったじゃん。嘘つき…。こんなことなら、もっと、もっと話しておけばよかった。」
赤川先生は、奏ちゃんの肩にそっと手を置いた。
「お母さん、すみません。この子らがどうしてもって。お母さんだって、そっとしておいてほしいと思うだろうから、大げさな事はしない方がって言ったんですけど。」
「いいえ、そんな事はありません。私は、そっとしてほしいというより、香里の生きてた証を知るだけでもいいんです。忘れられてしまいそうで。」
「そんな、忘れるわけないです。」
栞ちゃんが、そう言いながら、一冊の本を差し出した。
「あのう、お母さん。急遽、これをみんなで作ったんです。」
A5ほどのサイズのアルバムだった。
「ありがとう。すごい。良くできてるわね。」
表紙には、リボンが飾られ、笑った香里の顔写真が。
一枚一枚めくっていくと、高校生活での楽しそうな香里の表情が、可愛い文字や、プリクラの写真で彩られていた。
アルバムの最後には、『かおりん、天国へ行っても、かおりんの事は忘れないよ。また会おうね』と大きな飾り文字で書かれていた。
「本当にここでの高校生活が楽しかったんやね。中学校ではあまり学校の事話さなかったけど、ここでの事は、よく話してたもの。ありがとう。大事にします。」
人前では大人しい香里が、みんなに『かおりん』と呼ばれていた事、学園祭でダンスのリーダーをしてた事、先生方とも気さくに話しをしていた事もわかった。
ごめん、香里。
お母さん、香里が、ここで、こんなに生き生きしてたなんて、何も知らなかったよ。
「香里ね、夢にまだ出てきてくれないんですよ。私を恨んでるのかもしれないと思って…。なんかね。私にいっぱい不満あったんだろうなって。」
一番華奢な、白いレースのワンピースきた栞ちゃんが、リーダー的な背の高い藍子ちゃんに、目配せをしていたのが、わかった。
「あの、お母さんのことで、ちょとだけ言っていたことがあって。」
藍子ちゃんが話始めた。
「お姉さんの事言ってました。お母さんはお姉さんの事になると、一生懸命だったって。自分は放っておかれたって。発達障害があって仕方ないんだけどって。」
「そうなんだ。そんなこと思ってたんだ。まあ、確かに志保は、不登校だったもんですから、先生との面談でとか、学校から急にいなくなったとかで、私が本人よりも学校に行ってたかもしれませんね。香里はしっかりしてたので、美保ほど、かまってあげられなかったのも確かですね。父親がいない分、動物園や遊園地とか夜勤明けとかでも、連れて行ってたんですけどね。二人に平等に愛情を注ぐって難しいんですかね。」
私の言葉に赤川先生が答えてくれた。
「でも、お母さんの事、看護師なんだと自慢してましたし。私には大好きなお母さんだと話してましたよ。それに、夢って、自分の母親が亡くなった時も、なかなか出て来なかったです。何年も経ってから出てきて。他人からそう言うもんなんだと言われましたけどね。寂しいですよね。」
時折、他の先生も教室に入ってきては、香里との思い出を話して行った。
一人の女性教師が、深々をお辞儀をして入ってきた。
「お母さん、何と言っていいか。香里さんは、本当に優しくて、いい子でしたよ。一見大人しいと思ったら、慣れたら人懐っこくてね。私が紙で指を切ってしまったとき、絆創膏持ってきてくれて、石鹸でしっかり洗ってから貼ってねと。消毒はしない方がいいからねって。お母さんが看護師だから、間違いないからって。ほんとに…残念です。」
女性教師は涙ぐみながら、色紙を差し出した。
「あの、これ、連絡がとれたクラスメートと教師で、寄せ書き書いたんです。」
「すみません。ありがとうございます。傷の手当はしつこいくらいに言ってたものですから。でもこんなに慕われてたのね。人見知りで、引っ込み思案の香里が…。皆さんのおかげで、いい高校生活を送れていたのね。」
色紙には、香里との楽しかった思い出が書かれていた。また逢おうねと何人もの生徒や先生がメッセージ寄せてくれていた。
香里、お母さんは、香里の事、本当に何も知らなかったね。友達親子みたいになんでも話してくれてたと、ずっと思ってたよ。
夢でもいいから、出てきてよ。
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