EPISODE8 彼岸咲朔也・死亡ルート
「……やられたッ!」
眼下より怒号の如く地鳴りが響き始めたかと思いきや、橋の上に広がる地面が次々と割れ、朔也を中心に巨大な火柱が巻き起こったのだ。
紫色の、速度をふんだんに鈍らせる呪いの炎。それが、柱となり、そして束となって朔也ごと辺り一帯を飲み込んでいく。
「確か、このミスディレクションじみた戦法は、俺が過去に書いた作品の中でも使ってたっけな」
そういえば、といった具合にそう語った朧月に、直前に朔也が放っていた雷撃が届くことは無かった。
それどころか、
(息が、出来ない……⁉)
水中で溺れるよりは、いくら息を吸っても口や鼻から空気が入っていかないような苦しさに近い。
おそらく、外見的な動作性だけでなく体の中身にまで低速化の効能が及んでいるのだろう。
だって、既に朔也は莫大な量の炎で身体ごと焼かれているのだから。
暖炉の中に身体ごと放り込まれたかのように、視界一面を柴炎で塗り潰されながら、業火によって身も心も焼き尽くされていく。
数拍経って、自分が今、この炎によって殺されようとしているという事実に気付く。
それも、『怠惰・紫のオーラ』の力か、単純な炎による影響か、いずれにせよ、思考も呼吸も鼓動も……生命を形作る何もかもが極限まで鈍くなっていく。
「善戦だ。思った以上に……そして、満足に近いぐらいに良い戦いぶりだった。だが——」
耳鳴りに混じって、朧月の声が耳朶に響く。それはどんどん近くなっていき、気配と共に朔也の間近まで迫った。
「満足……その一歩手前だな。お前さんにとっての逆境、それをもっと劇的な形で脱して一矢報いる……これが、理想図だった」
溺れていく。
死の淵に、怠惰なる時の流れの濁流に。
「この『シナリオ』の結末は分からない。だから、この戦いも俺の望み通りにいくとは限らなかった」
黒く、暗い翳りが心を浸し、絵の具を水面に垂らしたかのように染み渡っていく。
「……さよならだ、若き新人。お前さんは俺の物語を終わらせることが出来なかった……だが、俺の心の中で生き続けるだろう。俺が死ぬまで、永遠に」
舞台の幕が下りるように、朔也の命が消え失せようとしている。だが、それは予感でも明晰夢でも無く、今この瞬間に起きていることで。
「——さよならだ。彼岸咲朔也」
プツン、と。
テレビの電源が消える時の音がした。
視界一面が、おぼろに映る柴炎から一転、真っ暗な何かが一面に広がり、五感が切り離されたかのような喪失感に晒される。
心臓の鼓動は感じず、それどころか、普段なら覚えるだろう幾つもの感情——それも、全く感じない。
死。
その一文字で、この状況を説明できてしまう気がした。だが、それも気のせいではない。
——彼岸咲朔也は、たった今、死亡した。
その事実を示す確固たる証拠が、既に現れていた。
『憤怒を騙る鬼は、怠惰を貪る半人半馬の天狗によって、時の止まった世界で永劫の時を過ごすこととなった。
黒く深い海の底に、死以外は何も無い。
沈みゆく鬼は世界と分かたれ、命を落とした。
何も無い空間で、しかし彼は——』
彼岸咲朔也が死したことで、『シナリオ』の内容がこの世に顕現された。
同刻別所、朔也の自室にて、妖精は。
ターチス=ザミは、その現象を目の当たりにしていた。
「朔也の死亡……なるほど、それがどうやって覆るかが、『貴様』のやろうとしていることなのか」
彼女は、パソコンの画面越しに、まだ見ぬ明確な敵に向けて不敵な笑みを作ってそう言った。
相変わらず、画面では『シナリオ』の内容が勝手に記されていくという不気味な現象が起こっている。
だが、今回は織白原の時とは少し違った。
朔也を示す『憤怒』の敗北と、朧月を示す『怠惰』の勝利を表している文面。しかしそれがこれ以上刻まれることは無かった。
代わりに、音を聞いていた。
ぱらぱらと、ページがめくれる音。そして、もう一つ、声が聞こえた。
小鳥の囀りのようで、天使の嘶きのような、歌声。
女神の祝福ともいえるそれが、ターチスの耳に響き、やがて町全体に透き通っていく気がした。
それが何を意味しているか。
それは——
『曇天の歌姫は、彼岸の側に誘われた子羊をうつつに帰した。
その者は姫に酷く感謝し、一生をかけて報いると誓った。姫は、慈愛に満ちた貌でその者の報いを断り、自らの成した善行をその者の記憶から消し去った。
何故なら、その者は既に、姫が張り巡らせた蜘蛛の巣に囚われてしまっているのだから。
曇天の歌姫は、笑っていた。
その者を嘲るように、それでいて愛でるように。
ただただ笑っていた』
彼岸咲朔也の末路は、たった今、明確に刻まれたのだった。
*
出口の見えないトンネルを延々と歩いているようだった。
深く暗い水底へと沈んだ時と似た恐怖と喪失感が、朔也の全身を襲う。しかし、あの時とは違うのは、そこに居るのは自分だけではないということ。
周りで、大勢の人々が列を作って歩いている。自分もその中に居て、列を乱さずに淡々と歩いている。真っ白な衣と光を纏って、一言も発さずに、ただ淡々と。
——死者の参列。
そんな言葉が脳裏を過った。
やがて、出口のような明るい何かが見えた。各々の周りに浮遊している淡い光ではなく、目が眩むほどに煌々と照り輝く太陽のような光。
皆がそうであるように、朔也もまた同じように光に引き寄せられていく。
このまま流れに乗って進んでは駄目だ、と頭の中で警鐘が鳴り響いている。しかし、足は止まらない。
そこへ。
肩を、ぐいっ、と掴まれて朔也の歩みが止まった。そして、耳元で囁かれた。
——私の同胞が、こんなところで死んでいい筈が無いだろう?
途端、意識が急激に醒めていくような気がした。一抹の夢から覚めるような、そんな感覚。
何にせよ、今、この瞬間。
彼岸咲朔也は『七匹の悪魔蜂』の『筆者』でありながら、シナリオから逸れた末路を辿っていくのだった。
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