EPISODE7 憧憬

「さあ、新人。さっさと終わらせてくれよ、俺の物語を……願わくば、劇的で王道な形でな」

 耳鳴りと共にそう聞こえたと同時、朔也の腹に重く鋭い一撃が生じた。

「が、はぁぁ……っ⁉」

 ミシミシミシッ、と骨肉が軋む音を聞きつつ、朔也の身体は店外へと投げ出されていく。

 窓ガラスが盛大に砕け散り、無数の破片と共に路上へと転がる。

 戦いは既に始まっていた。そして、

「……だが、俺も一度チャンスを貰った身だ。お前さんが出し惜しみしている限りは、簡単には散らねえ」

 文字を纏い、異形の怪物へと変貌してゆく朧月は、仰向けで倒れている朔也の隣に立って言った。

「『役者』なら……『筆者』なら、最高の物語にしてくれよ」

 身の毛がよだつ程の怖気を感じたと思えば、その時には既に、朔也は紫に猛る炎に囲まれていた。

「また、『シナリオ』通りに……っ」

 自分の無力さに歯噛みする朔也。だが相対する怪物は、悔恨に浸る時間を許さない。

「自分が無力だと思うなら、抗ってみせろ」

 朔也の身体が、朧月によって背中から蹴り上げられる。

 馬の半身と化したそれによって抉られた背筋と背骨が悲鳴を上げ、朔也は宙を舞いながら激痛に悶える。

 しかし、次もまた朧月から意識が逸れたら最後、五体満足ではいられないだろう。

 地へ落下するより前に、朔也は激情を堪えて唱えた。

「憤怒……紅のオーラッ‼」

 鮮血の如く煌めく赤い雷光と共に、無数の文字が中空に現れ、朔也を包み込む。

 やがて、憤怒を滾らせる鬼が顕現し、怠惰を焦がす半馬天狗と激突する。

 朔也の拳が朧月の突き出した鉤爪と交錯。一拍遅れて甲高い金属音と衝撃波が周囲へ広がり、緩やかな時流を孕んだ歪みは人々を飲み込んでいく。

 朔也は一度、朧月と距離をとって着陸し、自分の耳に手を当ててターチスとの交信を試みる。

「ターチスッ! ……くそ、応答しねえ!」

 織白原の時には悠然とナビゲートしていたあの高慢な妖精の声が、今は何故か聞こえない。

 そして刹那の動揺を見逃す程、朧月も『役者』として妥協している筈も無く。

「応答しないのではなく応答出来ないんだよ。この紫の炎に囲まれたお前とはな」

 彼が不敵に笑ってそう言った直後、視界の端に淡い柴炎が生じた。すぐさまその方を見て、朔也は自分が置かれた現状の劣悪さに絶句する。 

 紫色の炎は檻のように辺り一面を囲んでおり、人々は勿論、たった今、朔也すらも柴炎に飲み込まれてしまった。

 つまり、緩慢な時の流れが作り出す世界に放り込まれてしまったのだ。それが、何を意味するか。

「俺の業に飲まれるのなら、それまでだ」

 認識を越えた速さで、朧月の蹄が朔也の装甲を穿つ。

 ゆっくり過ぎた速度の世界では、平常に動く朧月が音速で行動しているように見えるのだ。

 朔也の身体が、天高くへと蹴り上げられる。

「げ、はぁ……っ⁉」

 白目を剥き、金縛りに遭っているかのような重い感覚と遅れて迸る激痛に顔を歪め、しかし本能は真下より迫る死の危機を捉え、身体が強張る。

 それを意識した時には、もう遅かった。

「さて……もっと足掻いて成長してくれよ、新人」

 宙を舞う朔也と同じ位置に朧月は浮いており、猛禽的な爪を備えた右手拳が身体にめり込んでいた。

 朔也の身体が鈍い音を立てて大きく凹むや否や、瞬間移動の如くその場から消え、街並みの上空を高速で吹き飛ばされていく。

 柴炎の檻から脱したことで速度はもとに戻るも、そもそもの受けた威力が常軌を逸しているため、あまり意味は無い。

 そうして、朔也はいつの間にか一キロ以上もの距離を滑空しており、すかさず追ってきた朧月によって今度は地面に向かって蹴り落とされる。

「……っ‼」

 もはや声すらまとも出せず、瞬きより速く地に叩きつけられ、理解と認識を越えた世界で死を垣間見る。

 その間も、死神は無慈悲に近付いて鎌の切っ先を鈍く光らせる。

 霞む視界にケンタウロスが映り込んだ時、再び紫の炎が吹き荒れた。轟々と音を立てて猛るそれは、瞬く間に朔也を取り囲んでスーパースローの世界へと誘う。

「迷いは無用。躊躇は即座に死へと繋がる……なあ、分かってるだろう。既に一人の『役者』を倒しているお前ならなあ……」

 最後の方に強まった語気が、朧月が織白原の死を知っているということを意味していた。きっと、ターチスから連絡があった時に知らされたのだろう。

 火に油を注いでどうする、と悪態をつきたかったが、当然ながらその暇が与えられる筈も無く。

「俺を倒すつもりが無いのなら……せめて、答えろ。お前さんがどうして物語を書くのか」

 蹄を鳴らして、鉤爪をかき鳴らして、死神は悠然と朔也のもとへ歩を進める。

 ——どうしてこうなったのだろう。

 朔也の頭の中には、その言葉のみが渦巻いていた。

 目の先、夜空で輝いている星々が、他人事のように朔也を見下ろしている。

「いいから答えろ。お前さんはどうして小説を書くのか……そして、お前さんは自分が綴る人生に、一体何を望んでいるのか」

 爪や蹄と共に、半身半馬の異形の背から生える翼が重々しく音を立てて靡き、遠くから聞こえるような彼の気怠いような声と相まって朔也の神経をささくれ立たせ、怖気づかせる。

「俺は……人生とは、刹那の時の中に生まれたエアポケットのような時間を、どう満足に生きるかを問われる『物語』だと思っている」

 天狗のような仮面の下では、どのような表情が浮かんでいるのだろう。響き渡る声に微かにこもった熱が、場違いな共感と好奇心を掻き立てた。

「人は皆、人生と言う名の物語を歩んでいる……。お前もそうだろ。お前はお前が主人公として、お前の物語を歩んできた。それなのに、何故お前は人生という名の物語の中で、また物語を作ろうとするんだ」

 足音が消え、傍らでケンタウロスが立ち止まった。

「なあ、答えてくれよ。若き新人」

月明かりに照らされた鉤爪が鈍く光り、それが自分の額に迫り来る。

 朔也は両腕に力を込めてそれを庇おうとするが、緩慢な時の中でそれが成されることは無く。

「夢や大望が、必ずしも劇的に叶うとは限らない」

呪詛のように放たれたその言葉は、朔也を酷く動揺させた。

 他人が無責任にそれを言うのと、憧れの相手からそれを言われるのとはわけが違う。

 だが、朔也は今この瞬間、心の中で静かに決意の篝火を灯した。

 憧れた相手から否定された夢。しかし、簡単に諦めてたまるかという叫びもまた朔也の心の底からの叫びで。

 ——夢や希望の諦観を、簡単に認めたくない。

 意志が明確に形を帯びていくのを感じ、全身に張り巡らされた血管の中で血液が熱く沸騰するような気がした。

 ——憧憬の念を抱いたこと、そして夢を追いかける自分に向ける唯一の信頼。それらを簡単に否定してたまるか。

 熱塊のように胸底へと沈殿してゆく意志。それは怒りの業火となって、朔也を緩慢な時の檻籠から解き放つ。

「う、あああッ‼」

 金具がひしゃげるような音と共に、朔也は両腕を豪快に振って紫炎の檻から勢いよく抜け出して勢いよく立ち上がった。

 そして、眼前まで迫っていた鉤爪に自身の拳を交錯させ、虚ろな双眸を怒り猛る瞳で射抜いて言った。

「あなたが自分の人生に、この先の未来に希望の光を見出せないのなら……俺が、この憤怒の炎で照らしてみせるッ!」

 怒りを孕ん熱は全身へと伝播し、朔也の拳の威力を爆発的に増加させる。

「叫ぶことはいくらだって出来る……だがな、有言実行ができるっていう人間は、そんなに多くは無い」

 しかし、激情が乗せられた鬼の拳を、朧月は顔色ひとつ変えずに止めている。

 明確な実力差。それも、『役者』としてだけではなく、作家としても。

「う、ぐぅっ……」

「感情も大望も必要ない。求めるのはただ一つ……時の流れだ。枯れ葉が宙を舞うような、虚無にも等しい怠惰な時間……」

 生気を感じさせない声でそう言った彼は、背に生える翼に柴炎を灯して轟々と唸らせ、先端を氷のように凝結させて双方より朔也へと迫らせた。

 朔也はそれを直感で捉える。だが無情にも、緩慢な時流を孕んだ炎が彼を包み込んで回避を阻む。

「諦めの渦の中に消えてゆけ。そうしたら、俺の苦しみも分かるだろうから」

 意識したところで、逃れられない。

 こうしよう、ああしようと決めたところで、意思が行動へと結びつくことは無い。ましてや、努力や願いがそのまま結果を形作るとは限らない。

 でも。

——そんなの、今までの挫折した自分がよく知っている。

「諦観は……人の成長を鈍らせる……」

 もう一度、朔也は全身に力を込め、腹の底から叫んだ。

「敗北も、挫折も、過ちも……いつか必ず、なにものにも代えがたい財産となって背中を押してくれるッ!」

 そう。まるで、今この瞬間のように。

 事実、その言葉は朔也に纏わりつく恐怖と時の支配を引き剥がし、彼の拳に力を乗せていた。

 目の前の壁を、脅威を、憧れを、打ち砕いて前に進む程の圧倒的な力だ。

「……っ!」

 朧月が僅かに怯み、一歩後ろへ後ずさった。その一瞬を、朔也は逃さなかった。

「分かった……そして決意した。俺は……あなた(憧れ)を越えていくッ‼」

 朔也の拳が、朧月の頬へと直撃した。柴炎を振り払い、時の支配は意にも介さず。

 憤怒に燃える鬼は、そのまま紅の雷光を轟かせ、地割れが起きる程に大きく一歩踏み込んで今度は左拳を突き出す。

「彼岸咲、朔也……ようやくか。ようやく、お前は俺を……!」

 柴炎の翼を目一杯にはためかせる朧月は、硬質な蹄でアスファルトを砕き蹴り、朔也と同じく左手の拳を握り締める。

 そして、激突。

 雷と炎がひしめき合い、大気がけたましく泣き叫ぶ。その交錯の最中、さらに一手重ねたのはまたもや朔也だった。

 彼は、朧月が柴炎を撒き散らして低速化させるのを読んでいた。だからこそ、朔也の身体は刹那の唸りを上げた直後に朧月の眼前から消えた。

 全身をバネのようにしならせ、大きく跳躍したのだ。

「きっかけがあれば、人はいくらでも前に進める……それを教えてくれたのは、他でもない、あなただ!」

 宙を舞う朔也は、夜空を背に、右手の手のひらで雷光を瞬かせながら叫んだ。

 そんな彼を見上げて、朧月は微笑みを漏らした。

「……ありがとな。俺のワガママに付き合ってくれて」

 直後、柴炎が一段と鮮やかに煌めいて燃え盛る。

 朔也は右腕に左手を添え、手のひらに集約させた雷光を、朧月に向けて思い切り放った。

「いけッ‼」

「迎え撃つ!」

 朧月もまた、両手を広げて柴炎を爆ぜさせ、迎撃の態勢をとる。

 今一度、雷炎が狂乱し、大地と空気が慟哭する。

 同時、噴煙を孕んだ衝撃波が二人の視界を遮り、仲裁の役割を成す。だが、その間、二つの異形の影は既に煙を斬り裂いていた。

「う、らあああああッ‼」

 着地すると共に、低速の炎を回避して駆ける朔也は、勢いに任せるまま朧月に向かって両手を向ける。

 赤雷の鳴動。眼前に迫るそれを、朧月もまた読んでいた。

「段々温まってきたじゃねえか!」 

 朧月は、馬の後ろ脚で地を蹴って柴炎の翼で大きく飛翔。直後、両手の手のひらに火の玉を浮かばせ、それを朔也に向かって連射していく。

「速度低下の、火球……!」

 大っぴらに燃え盛る檻や波動ではなく、銃弾のように飛んでくるこれも相当厄介だ。だが、朔也は全身に雷光を帯電させ、反射神経を無理矢理に向上させて対策をうつ。

 『憤怒・紅のオーラ』の能力内容が単純に強化にあるのだとしたら、神経系もまたその対象。つまり、朧月がどんなに低速化の火球や炎波を繰り出してこようとも、朔也がそれらを上回る速度で懐に入り込めばいい話。

 これらの概算を脳裏にて一瞬の間でこなし、朔也は心臓の鼓動より速くその場から加速し、飛翔している朧月の真下へ入り込み、両掌を彼に向けて雷撃を放つ。

「機転を利かせてくれて嬉しいよ。全力を出されてこそ、散りに花があるってもんだ」

 感嘆したようにそう言った朧月に、紅の雷撃が襲い掛かる。

 だが、不思議と、朔也は彼が笑っているように思えた。それも、今すぐに自分の物語が満足に幕を閉じていくことに対しての喜びではなく、もう一手、何か隠しているかのような不敵な笑み。

 その旨を察し、理由を推測出来た時には、それが起こっていた。

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