EPISODE6 朧月善

朧月善二十六歳。本名は松萩善信。

有名な私立大学の付属高校を卒業後にそのままエスカレーターで大学へ進学し、文芸学科に所属。在籍中、『リライト・ファンタジー』でさざ波文庫大賞を受賞して商業作家となる。

彼は、創作をするために生まれてきたような人間だった。

頭の中にはいつも、雨が降るように物語のアイデアが浮かんでおり、それらの無数の原石をまるで息を吸うように錬成し、息を吐くように次から次へと物語を文章化していった。

同期で入賞した友人に「どうして小説を書くのか」と聞かれたら、彼は「小説が一番早く完成出来て、一番ダイレクトに読み手に伝えることが出来るから」と答えた。

彼にとって、小説とは物語を創るための手段の一つでしかなく、また、常に発想し続ける彼の脳内をすぐに整理することが出来るのも小説しかなかった。

しかし、彼は同時に、文字に込められた無限の可能性にも魅了されていた。そのきっかっけを与えたのが、大学時代に同じ学科で同じく小説家を目指していた、織白原柚という女である。

 朧月は、彼女が言っていた「文字とは、なによりも心に肉薄できる」という言葉に心を突き動かされ、いつしか文字で物語を組み立てていくことを誇りに思うようになっていった。

 それからも、美しい詩的表現や格好いい言い回しなどを読んで書くことに高揚を覚えるようになった。

 そして、朧月は感受性にも優れているところがった。

 例えば、一世を風靡いた名作について多くの人が五つ語るとしたら、朧月はその二倍や三倍、詳細かつ丁寧に語り、一つ一つを分析し、自らの血肉として貪り尽していくところだ。

 同時に、影響も受けやすい。それも、自分にとってプラスに働くだろう習慣や心がけを、本能的にフィルターをかけて吸収していく。

 作中の主人公が、己を成長させるために、身の回りのことを全て自分でこなすような描写があれば、朧月はすぐにそれに倣って同じくことをやり出す。

 一流の作家が、資本である身体の健康を保つために、筋力トレーニングやセルフマッサージ、タイピングを心地よくするための爪の手入れなどを念入りにこなしていると言っていれば、朧月はすぐさま文献を読み漁ったり、その道に詳しい友人たちをあたったりして、知識を蓄えて習慣化していく。

 勿論、食事や睡眠などにも気を遣い、整理整頓や瞑想などで創作に集中できる環境を作ることにも尽力した。

 ——俺は、人生と言う名の物語を歩んでいる。

 常日頃から、自分に向かって言っている言葉。

 ——俺が、娯楽の皮を被った劇薬を、文字でこの世に刻み込む。

夢、そして野心。二つの大望を備えた男が大勢の者達の心を穿つのは時間の問題だった。

 やがて、朧月は様々な作品を書き上げては多彩なメディアミックスを展開し、作家として大成を重ねていった。

 大学卒業間近には、デビュー作のアニメ化が決定しており、彼の物語は一段と華やかになっていった。

 卒業式の日の別れ際に、織白原は言った。

「私は神門先輩を追いかけて母校で教師やるから、いずれか教科書に載るように頑張りなさいよね」

 神門先輩とは、大学で二人の先輩だった男だ。ゼミで一緒になった際に色々とお世話になり、人一倍、朧月の才能と熱意を買っていた人物でもある。そんな先輩に、織白原はずっと恋をしていた。

 朧月は、彼女の真っ直ぐで強い想いと期待に応えるように、強く返事をしたのだった。

「お前の恋物語、いつか本にして読ませてやるよ。その時には二人ともそれぞれ願いが叶っていればいいな」

 朧月と織白原は、さくら舞い散る木の下で別れを告げ、各々が目指す道へと歩んでいった。

 それからも、朧月はアニメ化を成功させ、デビュー当時から続いていたシリーズを完結させた直後に新作シリーズを二本も手がけるようになり、朧月作品は純文学やライトノベルの垣根を越えて人気を博し、書店やアニメグッズ店では他の商品を抑えて主役を張るようにまで大成した。

 嵐が、松萩善信を、朧月善を中心に渦巻いていた。そして彼もまた、自分の時代が到来していることを肌で感じていた。

 やがて彼はさらに一流の作家とな

 開花した花はさらに上へと育っていく。自分はもっとクオリティの高い作品を書ける。もっと進化出来る。

 人として。作家として。

 過去に手を振って、今を踏み締めて、未来という大空に向かって羽ばたいていった。

 その、最中——、

「本当の意味で、人生は物語であると痛感させられたよ。確かに、起伏の無いストーリーは見ていてつまらないからな」

 順風満帆かと思われた朧月の足跡。だが、彼が遠くに向けていた目を朔也に戻した瞬間、温度が低くなっていくのを肌で感じていた。

 その瞳に、光が宿っていないことに気付いたからだ。そして、革ジャンパーのポケットから出されたそれを見て、朔也は言葉を失った。

「たとえノーベル賞を受賞した作家でも、その末路が自殺で終わることはある。立場は違えど、俺も似たような道に進んでいた。……おかしな話だ。全てが上手くいっていると感じていた一方で、気付いたらこれに手を出していたんだからな」

 これ、と軽く揺らしたポリ袋に入っている白い粉を、朔也の意識は必死に否定しようと足掻いていた。

「こいつのせいで……いや、こいつに手を染めてしまう寸前から、既に俺の人生は終わっていたんだ」

 麻薬。

いつから、なんて明確なことは言わなかった。そもそも覚えてすらいないのだろう。

 言葉を失ったままの朔也に、朧月は尚も自らが歩んできた道のりを語っていく。それはまるで、罪人が神父に己の咎を告白するような場面を思わせた。

 だが、同時に、朔也は気付く。

 こんな大勢の人間がいる場所で違法物を晒すなど、自殺行為過ぎる。もっとも、本人が自らの人生を諦観しているのなら、たとえ逮捕されたとしても関係は無いのかもしれないが。

 そんな朔也の疑問を察してか、朧月は、「なぜ、こいつを人前に出せるかって?」と、己の悔恨を自白する前に麻薬を堂々と晒せる理由について答える。

「簡単な話だ。周りを見てろ」

 そう言われて朔也は周囲を見渡し、その異常さに気付く。

「時間が……止まってる……?」

 乾いた口でそう漏らした朔也に、朧月が他人事のように解説する。

「厳密に言えば、物凄くゆっくりに時が流れているって現象だ。まあ、もっとも、これは不明瞭なオカルトではなく、きちんとしたエビデンスのある超常らしいがな」

「まさか……」

 朔也は目を見開いて、目の前の男の顔を見る。脳裏には、憧れの作家と会うことになった理由が過った。

「そう、そのまさかだ」

 朧月は力なく笑って種明かしをしていく。

「俺も、お前と同じく蜂に見初められた人間だ。しかし『オーラ』ってのは凄いな。見事に俺の業を実現してやがる」

「……つまり、この現象が先生の業を現している……と?」

「ああ、だが面白いことに、これは俺の業であって俺が体現した原風景すら再現しているってことだ」

「原、風景……?」

 朧月は、首を傾げて疑問符を浮かべる朔也から目を落とすと、コーヒーを飲んで唇を湿らして答える。

「走馬灯ってあるだろ? 死ぬ寸前、記憶が濁流のように過る現象……お前さんとこの妖精からアポが来る直前、それが俺の身に起きたんだよ」

 朔也は再び、驚愕に染まった表情を見せる。その一方で、朧月が言った意味を理解してしまっていた。

 走馬灯を見て、死の間際の緩慢な世界を体験して、それが今、悪魔蜂が齎す『オーラ』となって超常現象として顕現している。

「先生は……」

 重々しく、それでいて震える唇を動かして、朔也は問う。

「先生は、死のうとしたんですか?」

 答えを知りたくない質問が言葉となって朧月に届く。彼は肩を竦め、

「ああ、その通りだ。意を決してトラックの前に躍り出たよ」

「——どうしてッ!」

 朔也は勢いよく立ち上がり、机に手を置いて前のめりになって叫ぶ。

「どうして、そんなこと……っ」

 心臓が激しく鼓動しているのが分かる。息が荒く、喉が急速に乾いていくのを感じる、

 ショッキングな出来事が重なって、そして憧れた人の心の闇を知ってしまって、酷く混乱しているのだ。

 そんな彼の心情を他所に、朧月は力なく答える。

「夢を実現させて、夢のような日々を送って、他人に夢を与えられるようになって……そんで、気が付いたら悪い夢の中に居て逃げ出せなくなっていた」

 悔恨を込めて。しかし、それ以上に、己自身に無頓着で、生きることに対して怠惰な情を交えて。

「出来なくなってたんだよ……創作が。呼吸をするようにやってきたそれが、今ではまるっきり出来ないんだ。どうやってアイデアが沸いてたいたか、そうやってプロットを組み立てていたか、どうやって小説を書いていたか……その全て、今はもう、俺の中から消えていった」

「でも……じゃあ、今放送しているアニメや刊行されている本はどうなるんですか! そもそも、物語が動いているということは先生が書き続けているってことじゃあ——」

「そりゃ俺じゃねえ」

 唐突に遮った否定の言葉に、朔也は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。

「ゴーストライターってヤツだ。熱心なファンが、影武者になってでも俺の物語を続けてみせるって奮闘していくれていたんだよ。……恋模様を描いた本を見せるって約束が皮肉な形で実現されてしまったがな」

 自嘲気味に笑う朧月。

 朔也は、自分の頭が段々と色の濃い感情に侵されていく感覚を覚えていた。

「なんで……」

 怒り。圧倒的で、激しく蠢く炎のような怒りだ。朔也は一度、奥歯を割れそうな程に強く噛み締めて叫び散らす。

「なんで、そんなにあっさりと自分の人生の諦観を述べられるんですか! 先生は……あなたはまだ死んでいない! だったら、やり直すことだっていくらでも出来るじゃないですか! せっかく悪魔蜂の力を持っているんですから、それをうまく使えば薬も心の病もどうとでもなる! だから——」

「なあ、少年。勘違いしているようだから言っておくが」

 朧月は自分を見下ろす新人を睨み上げて言う。

「俺は別に後悔なんてしちゃあいない……ただ、悟っているだけだ。自分が主人公である俺の人生という名の物語は、こういった結末で幕を閉じる……そう、悟っているだけだ」

「な……」

「だから、この話をお前さんにしたのは、お前さんに同情して欲しいからじゃなく、確認をしたかっただけだ」

 ゆっくりと立ち上がってそう言った朧月に対し、朔也は「確認……?」と、眉を寄せていぶかしむ。

 朧月は「ああ」と顎を引き、

「俺の物語を終わらせて受け継いでくれる相手が本当にいるのかっていう、確認だ」

 無機質な瞳で朔也を射抜いた。

 その瞬間、

「……っ! 景色が……」

 ぐにゃん、と。周りの人々や店の中、外の街並みが丸ごと、眩暈に苛まれた時のように歪曲し始めたのだ。

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