EPISODE3 シナリオ
心臓が大きく飛び跳ねた。
だが、その冷酷な末路に意見するより早く、朔也はもう既に織白原の背中を両腕で抱えていた。
声が一段と強く震えるのを自覚しながら、朔也は頬を引き攣らせてターチスに言う。
「所詮、それは伝承の一節に過ぎないだろ……。現に、俺は今……先生が自害する前に助けたじゃないか」
黒い虫の装甲は徐々に消えていき、元の服装へと戻っていく。
不意に空を見上げれば、先刻に出ていた夕日が消えていて、代わりに濃い灰色の曇天が見下ろしていた。
『そうだな。あくまでこれは一節に過ぎない。先程までの姿も、その織白原という女の心の奥底に潜んでいた業がたまたま「シナリオ」に当てはまっただけだ。本編通りに事が進んだ今、その女が再び虫の化け物となることも無い』
その言葉を聞いて、朔也は安堵した。
急に足腰から力が抜けて、思わずその場に尻餅をつき、自らの両手の中に居る彼女を見下ろして息が止まった。
「先、生……?」
——織白原柚が、残っていた鉤爪で自らの首を突き刺していたのだ。
「先生ッ‼」
刺し口から滴り落ちた鮮血が朔也の指へと伝わると同時に、彼女の唇が微かに動いた。
「……濃密な、甘い匂い……」
寸前のターチスの言葉がフラッシュバックするのを振り払い、朔也は恩師を抱き寄せて叫ぶ。
「待って先生‼ 先生はもう、違う! 解放されたんだ! だから……! ……すぐに救急車を呼んで、それから——」
顔面を蒼白させながら彼女を抱きかかえようとしたその時。
「あ、ぇ……?」
段々と彼女の身体が軽くなっていった。そう感じた時、目の前で起きている光景に理解が追い付かなかった。
『それが、「シナリオ」の「役者」として散った者の末路、か……』
悲痛に、しかしどこか他人事のようにターチスがそう呟くのを聞きながら、朔也は呆然とその様子を見下ろしていた。
織白原柚の霧散。
それも、身体や身に着けている衣服が無数の文字となって、どんどん消えていく。
朔也は必死に文字の群れを搔き集めるが、どれも指の隙間を零れ落ちて自分の身体へと舞い込んでいってしまう。
自分で自分の身体を掻き毟って文字の濁流を止めようとするも、それは叶わない。
やがて朔也は壊れた人形のように、だらん、と両腕を下げ、無機質な灰色の曇り空を見上げて問いかける。
「なあ、一体……何が起きているんだ……」
虚ろな表情で天を仰ぐ少年に応じたのは、変わらず他人事のような冷たい声だった。
『伝承は事が起きたあとに創られる。私が先程言った一節は、私がたまたま覚えていたものだが……どうやら、お前の「シナリオ」は本物らしい』
まるで実験結果を分析するような物言いに、朔也は苛立ちを覚えながら聞き返す。
「単刀直入に言ってくれ。今ここで、何が起きた」
『では単刀直入に言おう。——「シナリオ」通りの出来事が起きたんだよ』
「朝の出来事のように、今この瞬間も……あの「悪魔蜂」の話通りの展開になったってことか?」
『らしいな。その証拠に、今私はお前の部屋の中で、お前が経験した出来事がそのままパソコンの画面に記されていく瞬間を目の当たりにしている』
全身に鳥肌が走った。
小刻みに生じていた震えは全身へと伝播し、その間も文字の残骸は無情に朔也の体内へと引き込まれていく。
「じゃあ、先生は話の通りの末路を辿らされたってことかよ⁉ しかも、無理矢理に……!」
『それが「シナリオ」に選ばれた「役者」の末路なのだろう。……しかし、どうやらその女の死には内容以外の意味もあったらしい』
ターチスの無慈悲な言い方に、朔也の苛立ちは増す。だが、そんな彼に構わず、妖精は新たに真相を付け加えた。
『恐らくは、その女も「筆者」だったようだな。別の「シナリオ」の』
「……は?」
『傍に落ちているプリントを見てみろ。文字が消失している最中だろうが』
言われ周りを見渡してみれば、確かに授業用のプリントが一枚、風で飛ばされようとしていた。朔也は手を伸ばしてそれを取り、内容を見てみる。
そこには、確かに消えゆく文面があった。
織白原の授業でよく使われているそのテキストの中に、文献の一節とも捉えられるような文章が映し出されていたのだ。
『灰色の空の下、歌姫は天を仰ぎ、その美しき音色を町中に響かせる。
人々は、そのあまりにも人離れした天使の囀りに涙を流し、目の前に煌びやかな楽園の錯覚を見た。
しかし、感嘆は刹那の時をもって悪魔の囁きへと変わる。
まるで蜘蛛の巣に縛り付けられた蝶のように、手足はいうことを利かず、ただ焦りが募るばかりで。
そうして、大勢の迷える子羊たちは黄泉の向こう側へと連れ去られていった。
曇天の歌姫は、今も尚、世を牛耳るあの傲慢な悪魔と共に——』
その一節は、そこで途切れていた。読んでいる内にもみるみると文章が消えていっているからだ。
朔也は震える息を漏らし、
「つまり、今かかってる曇り空は、この「シナリオ」の現象で……俺が先生を倒さなければ、先生が発動させた「シナリオ」によって大勢の命が奪われていたってことか……?」
『ああ、そうなる。お前は無意識の内にヒーローになっていたんだ。悲観する必要なんてどこにもない。なんたって、沢山の命を救ったんだからな』
望んだわけじゃない。そう叫びたかったが、それ以上に、自分の意識を侵している濃密で強い感情があった。
それは、獰猛なまでの強い怒りだ。
嵐のように吹き荒れるそれは、原因も矛先も不明瞭のまま、生まれたばかりの赤ん坊さながらに泣き叫んでいる。
「……っ」
朔也は、今にも割れそうな頭を抑えながら、消えゆく文字やプリントを置いて、屋上の出口へと向かう。
しかし、一刻も早くここから出たいという心情とは裏腹に、鬼を模した怪物の容貌が消えることは無い。
「ター、チス……怒りが……みんなの怒りが、聞こえるんだ……」
視界は赤と黒に明滅し、幾千の針を突き刺すに等しい激痛が朔也を捉えて逃がさない。
『お前が「憤怒」の「役者」となった所以は、そこにあるのかもしれないな』
朧になりつつある意識の中に、妖精の声が響き渡る。
『永劫の時を「先祖の呪縛」にがんじがらめにされて過ごしてきたお前の同胞たちの怒りは、さも形容し難いものであろうな』
段々と慈しむような声音に変わっていくそれは、しかし徐々に徐々に消えゆく朔也の意識が明確に捉えることはなく。
『頑張ってくれ、悲劇の英雄。運命と言う名の盤上で踊らされるのなら、まずはどのように踊ってやるかを考えろ』
声はやがて殆ど聞こえなくなり、底の見えない深淵が近付いてくる。
そして、朔也はその闇の中へと引きずり込まれると同時に、微かに聞いた。
——『唯一典』を生き返らせろ、と。
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