貼られた物

「万年補欠のパパは無理しなくていいから」




 日曜日、朝食を腹に入れた俺がジャージ姿になり適当にランニングしようとすると、俺の学生時代のサッカー部での実績を覚えている娘からそんな事を言われた。ただの運動だと言ってもにたにたした表情ですり寄って来る。


「ちょっと、パパはあなたのためにいいとこを見せようと真剣に頑張ってるんだからそんな事言っちゃダメでしょ」

「私パパがケガする方が怖いからいい、ビリでも無事ならいいから、ああビリじゃなきゃ何位でもいいから」

「しょうがないわね。あなた、私もやせたいので付き合いますから、決してオーバーペースにならないようにしてくださいね」


 ちょっと前までいやらしい笑みを浮かべていた娘が少しだけしょぼんとした表情で俺を見上げている。俺の事を必死に思っている。あと数年もすれば俺に強く反発するのだろうか。

 せいぜいかっこいいおっさんになっていたいものだが、どうしても年相応にはカッコ悪くなってしまうのだろう。



「仕方のない事でしょう、私だって今年で文字通りの四十路よ。個人的にはまだまだきれいでいたいと思うけどね」

「そりゃ人生八十年時代だからな、まだまだ中間点に過ぎないからな」

「でも十年もすればあの子たちも好きな子を私たちに紹介するかもしれないわよ、その時お互い今のまんまだったら私は逆に不安だなと思うんだけど」


 寂しくはあるが、仕方がない話だ。いつか親って奴は子どもに巣立たれる物だ。生物の本能としてやがては親に対する嫌悪感って奴はどうしても芽生える。俺も来た道と割り切るしかないのだろう。




 夫婦二人、夫唱婦随ならぬ婦唱夫随のペースで走る。少し物足りない気もするが、オーバーペースよりは数段いい、いやなまっていた体にはこれぐらいがちょうどいいのだろう。


「そう言えばあなた子どもの頃はどうしてたんです、反抗期はいつ来たんです」

「さあな。そう言えば正直全然わからんのだよ」


 両親からも先生からもそう言われた。世間的に第二次反抗期と言うべき中高生の時代、俺は成績はともかく授業だけは真面目に受けていた。大学に入ってからも似たような状態で、そしてそのまんま今の企業に採用されてしまった。


「本当にないの」

「ああ、少なくとも俺の認識の中にはない」

「両親とか先生とかじゃなくて」

「じゃあ誰だって言うんだよ」

「無駄に体力を使うのをやめません?」


 女房は言いたい事だけ言って話を打ち切ってしまった。それから微妙に釈然としない気持ちのままとりあえず走るだけ走って家に帰って来ると、息子がちっぽけな財布を持って立っていた。


「どこへ行くんだ、何かお菓子でも欲しいのか」

「おじさんのおみせ。この前パパとおねえちゃんが言ったでしょ、欲しいものがあるならばちゃんとその時に言わなきゃだめだよって、だからいまからいってかってくる」

「覚えてるのか名前を、それからあんまり高いようならば無理をしないであきらめろ、ああ三〇〇円ぐらいまでな」


 俺の家と史郎の店までは歩いても二十分程度の距離しかない。五歳の子どもにとっては遠出かも知れないが一人で行けない距離でもない。どこで作ったのかわからない地図を持ちながら高揚した様子で歩いて行く息子の背中を、これ以上つかむ理由もない。


「パパどうしたの、オーバーペースになっちゃったの」

「大丈夫だよ、ママが付いていてくれたから」

「でもなんか疲れた顔してるけど」

「普段使わない所を使うとこうなるんだ」


 息子を送り出しながら麦茶をすすっていると、娘が俺たちが走りに出た時と同じように心配そうな顔をして寄って来た。実際、足のあちこちが痛い。すぐ痛くなるのは若い証拠だしと威張ってみたいが、もっと若ければそもそも痛くならない。まあ大した問題ではないだろうし、実際昼飯を作っている見る限り女房は元気だ。

 俺がへたれていてどうする、とばかりにとりあえず洗濯物を干してやった。相変わらず日射しは適当に細く、あれだけ浴びていたはずなのに真夏のようにぐったりと言う事もない。

 いくらそれが仕事とは言えこんな所に建物の中に籠っているのは実に気の毒だ。もちろん平日の俺だってそうであるが、こんなさわやかな日曜日にわざわざこんな所に籠っている理由など疲れているとか妻子が求めるとかでなければ別にない。


「パパ頑張りすぎないでね」

「大丈夫だよ」


 小学生の娘に凝ってもいない肩を揉まれるのは、ありがたさとくすぐったさが同居する。そして後者の方がより威張っている。








「ただいまー」

「お帰りなさい、ちゃんと手を洗ってうがいをしてね」


 昼食が出来上がりそうになる頃、息子が出て行った時と同じような顔で帰って来た。小さなリュックサックの中には二枚のシールが入っており、手をきれいにした息子は得意満面の表情で俺にその二枚のシールを見せた。


「いくらだったんだ」

「四〇円と二〇円で六〇円」

「ならいいんだ、大事にするんだぞ、さあご飯だ」

「パパ、パパはおじさんのおはなしをききたくないの」


 話したくて仕方がない感じだった。往復で一時間程度しかかからないはずなのに出かけてから帰って来るまで二時間もかかっていたのはだいたいがそんな事だろうとは思ったが、ここは黙って聞いてやる事にした。厄介払いがばれれば息子は俺を恨むかもしれない、まったくどこまでも厄介な弟だ。







 合計一〇枚のシールに描かれた彼は、最初は新たなる大地を求めて進みその過程で二度パワーアップした。そして更なるパワーアップを遂げてこれまでより格上の存在になったのがあの六枚目の三〇〇〇円のそれであり、最終的に仲間たちを導く虹となって消え残った力が、これまでの男のキャラクターのそれとあまり似ていない少女を生み出した。

 そして時は流れ力の衰えた末裔がその力を狙った悪魔に連れ去られ、その際に遺伝子が覚醒して祖先の力を取り戻した。その後に彼女ら、いや彼らはかつての同志や友人と共にまた別の大地へと向かうが、彼はそこで悪魔になってしまう。それからその後にかつての宿敵の末裔が今度は従者となり、そして全てを決める大戦へと臨む事になる―――。

 それで残り三枚はその宿敵の一族らしい―――。







 息子が食事中にしたとりとめのない話をまとめるとこんな風になるが、ざっと聞いただけでこれが俺には必要ない物だと言う事がよくわかった。

 子どもに覚えさせるにはあまりにも複雑で難解なストーリーだ。大人の俺だって手におえないし、その必要もない。確かに壮大で面白いかもしれないが、だからと言ってその時の俺がそこまでの事を考えていた訳ではない。断じて、ない。


「へぇ……」

「おじさんってすごいね」


 俺が小学校時代あんなに遊びほうけていたのは、一番無責任で上から目線の言い方をすれば史郎のせいだ。俺より三つ下の史郎は俺が幼稚園の年中だった頃にはもうおしめも取れていたし、俺より早く漢字も書けていた。

 俺が勝っている事と言えば、年齢ぐらいの物だった。弟のはずなのに何をやらせても上、そうなれば当然親や近所の人たちの期待も俺より史郎に集まる。当たり前の事なのに腹が立って仕方がない。だからと言ってお兄ちゃんと言う権力を振りかざして弟に八つ当たりするような事ができる訳ないし、実際親から固く禁じられていた。

 史郎の奴が大学を卒業し、名の知れた企業に就職したと聞いてからずっと俺はまともに史郎と連絡を取らなかった。次に連絡を取ったのは、あの店の店長になったと聞いてからだ。

 それもあくまでも向こうから来ただけで、こちらは結婚式の時にさえ呼ぼうとしなかった。一応お義理で呼んだものの来なかった時にも、大した感慨はなかった。




「なあお前、お前の親類に三十代半ばぐらいの独身女性いないか」

「あなた、史郎さんの結婚相手の事ですか?」


 産まれた時から貼られて、生涯消える事のない印。はがす事など絶対にできない印。生き物ってのはそれぞれの印に刻まれた行動をするしかないのだろう。だったらその印にふさわしい行動をしてやってもいいじゃないか。




「親父とお袋にも今度言っとくよ、こんないい家庭を築く権利をみすみす手放すようなバカな話があっちゃいけない」

「まだ反抗期やってる人がよくもまあ」




 女房は笑った。娘と息子も笑った。まったくその通りだ、史郎に対しての反抗期を続けていて何が悪いと言うのだ。今こうして安定した収入とあたたかい家庭を手に入れられているのだから何も悪くあるまい。

 大学を出てから今まで一体何をやって来たのかなど知った事か、これから俺が新たな栄光への道筋を貼り付けてやる。それにしても、今日の昼飯は実に美味い。昨晩のビーフシチューがかすむぐらい美味い。

 その美味さと女房子供の顔に釣られて、思わず俺も笑ってしまった。

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