化け物バックパッカー、ホームランを打つ。

ボールは自らは動かない。なにかにぶつかった勢いで、転がるだけだ。




 小さな野球場から、歓声が響き渡る。


 それが子供の声であることから、球場で動いているほとんどの人間は子供だということがわかる。


 子供たちは、球場の中で野球の練習をしているのだろうか。


 カキーンと、バッドがボールを打つ心地よい音が響き渡った。


 球場の開かれた空を突き抜け、夕焼けに野球ボールが重なった。


 ホームランだ。






 それから、長い年月が過ぎ去った。


 その球場は相変わらず存在している。多少汚れが目立つようにはなったが、その雰囲気からか、時々人々が出入りしている。


 しかし、子供たちの歓声は聞こえなかった。




 その日の夕方には、球場の入り口にふたりの人影が現れた。


 ひとりはベンチに座り、辺りを見渡していた。

 体は黒いローブで包まれており、顔もフードで隠している。しかし、その体つきは女性のようで、興味深そうに辺りを見渡すしぐさは10代の純粋な少女そのものだ。

 その腕には、黒いバックパックが大切そうに抱きしめられている。


 もうひとりは今、自動販売機の前に立っている。

 黄色のデニムジャケットの背中には、ローブの少女と似たバックパックが背負われており、ハードな雰囲気を出すデニムズボンと派手なショッキングピンクのヘアバンドが、奇妙なファッションセンスを感じさせる。


 その人物は自動販売機の取り出し口から缶コーヒーを取り出すと、ベンチに腰かけているローブの少女に顔を向けた。


「タビアゲハ、なにか珍しいものでもあるのか?」


 その顔は、怖い老人だった。


 凶悪な顔つきで見つめられても、タビアゲハと呼ばれたローブの少女がおびえることもなくうなずくその様子から、ふたりは長い付き合いあるようだ。


「ウン。野球場ッテ、想像シテイタノト全然雰囲気ガ違ッテタカラ」

 どこか奇妙な声質が感じられるタビアゲハの隣に、老人は腰掛ける。

「どんな想像をしていたんだ?」

「エット……大キナドームニ包マレテイテ……イッパイ人ガ訪レテイテ……トニカクハナヤカナ感ジ」

 老人はタビアゲハの予想に笑みを浮かべながら、缶コーヒーのふたを開けた。

「ドームがあるのはドーム球場と呼ばれる球場の場合だ。この球場にはドームがない種類のようだな。それに、人が多く訪れるのはだいたい野球の試合があるときだ。最も、試合の内容で訪れる数は違うがな」

 缶コーヒーの中身を喉に流し込む老人の隣で、タビアゲハは改めてもう一度辺りを見渡した。

「ナンダカ人ノイナイ野球場ッテ……心地イイホド寂シイネ」

「さて、それでは人がいなくてもっと寂しい、観客席のところに行ってみるか」


 老人は空き缶を近くのゴミ箱に捨てると、野球場の中へと入っていった。


 その後を、すぐにタビアゲハは追いかけた。






 観客席からは、野球のフィールドが一望できた。


 誰も座らぬプラスチック製の椅子の前を横切るふたり。


 ふと、タビアゲハはイスの一席に目線のようなものを向けた。


 そこに乗っていたのは、硬球の野球ボール1個。


 タビアゲハは鋭い爪の生えた影のように黒い手で野球ボールを手に取った。


 その野球ボールには、傷のような穴が空いている。


 中に緑色のようなものが見えたと思うと、中から閉じるように穴はわずなか隙間になった。


「タビアゲハ、どうしたんだ?」

 先行していた老人が振り返ると、タビアゲハは老人に野球ボールを差し出した。

「“坂春サカハル”サン、コノ子……“変異体”ミタイ」

「……見たところ野球ボールにしか見えないが、また中に何か入っているのか?」

 “坂春”と呼ばれた老人はタビアゲハから野球ボールを受け取ると、眉をひそめながら野球ボールを眺めた。


 その凶悪な顔におびえたのか、野球ボールはぶるぶると震え始めた。


「大丈夫ダヨ、坂春サンハ顔ダケ怖イカラ」


 タビアゲハが野球ボールをなでると、安心したのか、震えるのをやめた。


「それにしても、この変異体……あのイスで寝ていただけかもしれんぞ?」

「……考エタラ、ソウカモシレナイ」


 坂春から野球ボールを取り、タビアゲハは元のイスに野球ボールを置き、「起コシテゴメンネ」と告げ、坂春とともにそこから立ち去った。




 その後ろで、野球ボールはイスから落ちた。






 グラウンドには、緑色の芝生と黒色の砂が敷き詰められていた。


 砂の上を、タビアゲハはブーツごしに踏み心地を味わうかのように、海の海岸と似たように1歩1歩深く歩いて行く。


 その前を先行する坂春は特に気にもせず歩いていたが、ふと立ち止まり、しゃがんだ。

「坂春サン、ナニカアルノ?」

 後ろからタビアゲハがたずねると、坂春は両手で砂を集め始めた。

「いや……昔から、ちょっと憧れていたものがあってだな……」

 坂春は手のひらに乗った砂の山をじっと見つめると、ため息とともにそのまま下に落とした。

「……甲子園の砂を持ち帰るってやつをやってみたかったが、やはりもっと大きい野球場の方がいいな。それに、持ち帰る場所もない」

 純粋な子供の好奇心から現実を見た大人の姿に戻った坂春の背中を見て、タビアゲハは坂春に気づかれないように静かに笑った。


 その足に履いているブーツのかかとに、何かが当たった。


 タビアゲハが振り返ると、そこには土まみれの野球ボールがあった。


「……ツイテキチャッタ?」


 タビアゲハが拾い上げようとした時、野球ボールはひとりでに転がって行った。


 転がる先は、三塁側のダッグアウトがある方向だった。




 選手が座るであろうベンチが並べられたダッグアウトの中で、野球ボールは箱のような物に体当たりをした。


 箱は揺れ、そのまま床に倒れる。


 その中から、数本の金属バットが箱から飛び出してきた。


 ダッグアウトにタビアゲハが訪れた時には、野球ボールはバッドのうちの一本に何度もぶつかっていた。


「……まさか、野球がしたいのか?」

 タビアゲハの後ろでこの様子を見ていた坂春は、野球ボールに問いかけた。

 野球ボールはその問いに対してうなずくようにその場ではねた。

「野球ッテヤッタコトナイケド……ドンナコトヲスルノ?」

 首をかしげるタビアゲハに対して、坂春は野球ボールに近づき、バットを拾い上げた。

「そうだな……野球をやる人数が足りないから、ひとりが投げたボールをこのバッドで打ち返す遊びになるな」

「坂春サンハヤッタコトアルノ?」

「中学生のころ、部活の体験入部の時以来だけどな……タビアゲハ、やってみるか?」


 タビアゲハがうなずくのを確認すると、坂春は足元の野球ボールを拾い上げた。


「ボールはおまえだ」


 野球ボールにそう告げると、坂春はタビアゲハとともにグラウンドに出た。






 グラウンドの打者が立つ位置に、バッドを手に取ったタビアゲハが立つ。


 足元にはホームベースがない。必要ないからだ。


 代わりに本来キャッチャーと審判が立つ方向の壁に、クッションのようにベースが敷き詰められている。


 その目線の先には、グローブをはめて野球ボールを手にした坂春が立っている。


 タビアゲハが左利きの打者と同じ構えを取ると、坂春はボールを構え、大きく振りかぶった。


 手から離れた野球ボールは豪速球のストレートとなり、


 タビアゲハの振るバットをかわし、


 敷き詰められたベースにたたきつけられた。




「……坂春サン、本当ニ中学生以降、野球ハシテイナイノ?」

 野球ボールを拾ったタビアゲハは坂春の元に向かいながら首をかしげた。そのニュアンスには怒りはなく、単純に疑問に思ったことを好奇心で質問しているようだ。

「すまんかった。ほぼやっていなかったからフルパワーで投げても問題ないと思ってな……次は手加減する」

 誤りつつ野球ボールを手に取る坂春だったが、タビアゲハは首を振った。

「サッキト同ジボール、投ゲテ」

「? でもあれじゃあ、打てないだろ」

「ウウン。1回見タカラ、次ハ打テル。ソレニ……」


 タビアゲハは坂春の手にある野球ボールを見て笑みを浮かべた。


「サッキノヨウナボールジャナイト、コノ子、満足シナイト思ウ」


 野球ボールは坂春の上で、興奮しているように小さく飛び跳ねていた。




「それじゃあ、同じように本気でいくぞ」


 坂春の言葉という打者に向けたサインを、打者であるタビアゲハはうなずいて返事した。


 坂春は再びボールを構え、大きく振りかぶり、豪速球のストレートを投げた。


 それに反応して、タビアゲハは地につく足に力をこめ、


 大きくバッドを振った。




 カキーンと、バッドがボールを打つ心地よい音が響き渡った。


 豪速球のスピードとバットに当たった勢いで、


 野球ボールは空高く飛んでいく。


 球場の開かれた空を突き抜け、夕焼けに野球ボールが重なった。


 ホームランだ。




「……」「……」

 飛んでいく野球ボールを、坂春とタビアゲハは口を開けて見送っていた。


「……タビアゲハ、本当に野球をやったことはなかったのか?」


「ウン。街頭テレビデ写ッテイタ野球選手ヲ真似シタダケ……ダケド……」






 空を舞った野球ボールは、徐々に高度を落とし、


 市街地に止まっているトラックの荷台に落ちた。


 トラックの運転手はそれに気づかず、トラックを走らせる。




 揺れる荷台の上で、野球ボールはこんなことを思っていたのかもしれない。


 自分はこれから、どのような場所に向かうのだろうか。


 誰のキャッチャーミットにも捕らえられず、


 さまざまな物にぶつかっていきながら、どこに向かうのだろうか。




 野球ボールは、かつて人間だったかのように、期待と不安で震えていた。

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