化け物の姿を持つ蝶は、花に止まる。花は蝶に蜜の代わりに名前を与えた。

 女の子は、家の扉を開けた。


 薄暗い廊下が続いている。しかし、女の子が電気を付けたとたんに、坂春は驚くようにため息をついた。

「……失礼なことを言うが、中は意外と奇麗なんですな」

 坂春の言うとおり、ぼろぼろだった外見とは違い、中はほこりひとつない清潔さだ。

「適度ニ掃除シテイルンダケドネエ、サスガニ外マデハ手ハ回ラナクテネエ……ソンナコトヨリ、オ茶デモイカガ? 晴那ハルナ、オ茶ヲ入レテ来テオクレ」

「はーい!」

 晴那とよばれた女の子は右手を挙げ、奥へと走って行った。

 それに続いて白いまんじゅうのような変異体、坂春、変異体の少女が奥の部屋に向かう。




 テーブルに1席の木製のイスがあるだけの簡素なダイニングルーム。

 そのテーブルの上には、氷とストレートティの入ったガラスコップが3つ用意されていた。

「ちょっとまってね……よいしょっと」

 晴那はパイプイスを2つ設置すると、木製のイスに座った。

「座っていいよ!!」

 坂春と変異体の少女は、それぞれパイプイスに腰掛ける。まんじゅうの変異体が晴那の足元にくると、晴那はそれを抱き上げて机の上に置いた。


「……なかなかいけるな」

 ストレートティを数量ほど喉に通した坂春がつぶやく。

「おいしい?」

「ああ、より上達すれば店でも出せるな」

「えへへ……お姉ちゃんは飲まないの?」

 変異体の少女は辺りを見渡していた。その近くにあるストレートティの量は減っていない。

「ア……ゴメンナサイ……私、食ベタリ飲ンダリスルコトハデキナイノ」

「もしかして、おかあさんみたいに空気を食べているの?」

 一瞬首をかしげたが、変異体の少女はすぐに納得した様子でうなずいた。

「タブン……ソウダト思ウ」

「そうなんだ……それじゃあ、おかわりとしてもらっていい?」

「イイヨ」

 少女がストレートティを渡すと、晴那は「ありがとう」と無邪気な笑顔を見せた。

 坂春はもう一度コップを口につけると、まんじゅうの変異体に目線を向けた。

「それにしても、本当にだいじょうぶですかな? 俺とこの子がここに泊まっても」

「エエ。オ客サンヲ連レテクル機会ナンテ、ソウソウナイモノ。ソレニ、イツモミテルワヨ……プログ」

「なんだ、わかっていたのか」

「サスガニ変異体ノ女ノ子ヲ連レテイタノハ驚イタワイタワ」

 それを聞いた変異体の少女は、いきなりお辞儀をした。

「ねえ、どうしてお辞儀をしているの?」

 少女の行動が気になった晴那が首をかしげる。

「驚カセチャッタカラ……ナンダカ申シ訳ナクテ……」

 3人の笑い声がダイニングルームに響き渡る。パンケーキのような、膨らんだ暖かい音。


「ねえお姉ちゃん、お風呂にはいらない?」

 交渉が終わった後、ストレートティを飲み終えた晴那は変異体の少女を誘うように話しかけてきた。

「オフロッテ……体ヲ洗ウコト?」

「そうだよ! 今からわかすから、一緒に手伝ってよ!」

「……ウン!」

 晴那と変異体の少女は、ともに玄関へと向かっていった。


「アラアラ……スッカリ仲良シニナッチャッテ」

 小さなダイニングルームに取り残されたまんじゅうの変異体は、口だけであるにも関わらず、ニコニコとした表情を作っていた。

「……」

「アラ、ドウシタノ?」

 坂春の表情が、何かを考えるようにこわばっていた。

「あ、ああ……ちょっと気になったことがありまして……少し……気になったことをお尋ねしてもよろしいですかな? 答えづらいかもしれませんが……」

「……ドウシテアノ子ト暮ラシテイルノカ……デショ?」

 坂春はまるで心を読まれたかのように身震いをする。

 もしも目があったのなら、まぶたを閉じていたのだろうか。まんじゅうの変異体は思い起こすように天井を見上げた。

「私ガマダ人間ダッタコロ……変異体ニ育テラレタノ。年ノ離レタ妹ト一緒ニネ。ソノ変異体ハ私ガ中学生ノコロニ警察に処理サレタワ。姿ヲ他人ニミラレテ、パニックニナッテ襲ッタンダッテ。妹ハ数日後ニドコカニ失踪シテシマッテ……ソノコロカラ体ガ代ワリ始メタノ」

「……」

「コノ家ニ隠レテ生活スルヨウニナッテカラ……森デ親ニ捨テラレタアノ子ヲ見ツケタ。私ハ育テテクレタ母ノヨウニ、コノ子ヲ育テルコトニシタノ」

「……いつか、あの子にも同じような経験をさせてしまうとわかっていて?」

「エエ。デモ母モワカッテ私ヲ育テテクレタト思ッテイルワ」






「ウッ……」


「ふううう……」


 湯気の立つ風呂場にて、変異体の少女と晴那は湯船につかっていた。

「ナンダカ……ポカポカスル……」

 変異体の少女は全身の力が抜けているような表情をしながら肩に湯をかける。全身は影のように黒く、手の爪は鋭くとがっている。

「体に染み渡る感じがするよね!」

「ソウ……ナノカナ?」

「そういえば、お姉ちゃんはどうして旅しているの?」

「特ニ理由ハナインダケドネ……コノ世界ヲ見テ回リタカッタカラ」

「そうなんだ……ねえ、あのおじいさんは坂春って言うんでしょ?」

「ウン」

「それじゃあ、お姉ちゃんの名前は?」

「……」

 変異体の少女は黙り込んでしまった。

「名前……覚エテナイノ。コノ姿ニナル前ナンテ、覚エテナイカラ……」

「そうなんだ……それじゃあ……」

 晴那は少し考えた様子を見せたあと、手をたたいた。


「ちょうちょさん! ちょうちょさんってのはどう!?」


 変異体の少女はポカンと口を開けていた。

「ソレ……私ノ……名前?」

「うん! いい名前でしょ?」

 自信満々で晴那は提案したが、変異体の少女は納得していない様子だった。

「他ニ……案ハアル?」

「うーん……おかあさんにも聞いてみるね!」






「名前ネエ……」


 ダイニングルームのテーブルの上で、まんじゅうの変異体は天井を見上げた。


 風呂上がりの後、そろそろ夕食を食べていてもおかしくない時間帯。四人は小さなダイニングルームに集まっている。

「うん、お姉ちゃんの名前。何かいい名前はある?」

 木製のイスに腰掛けて、晴那はまんじゅうの変異体と坂春の顔を見る。

「そういえば、前に名前を考える約束をしていたな……ちょうど、ひとつだけ案ができたところだが」

「坂春サン、思イツイタノ?」


「ああ……“マリア”ってのはどうだ?」


「……」

 変異体の少女は触覚を出し入れする。

「おじいさん、それ、ありがちだよ……」

「そうか? かわいいと思うが……」

「モウチョット……響キガイイノガイイナ……」

「ねえ、お母さんはどんな名前にする?」

「チョット待ッテ送レヨ……」

 まんじゅうの変異体はしばらくの間、考えるように口を閉ざし、やがて何かを思いついたように口を開けた。


「……タビ」


「……」「……」「……」

 3人は同時にまばたきを繰り返した。

「坂春サンカラ聞イタワ。旅ガシタイッテイウンデショ?」

「だからってそのまんま“タビ”とは……」

「やっぱりちょうちょさんがいいよね! ね!」


「……タビ……イイカモ」

「!?」「!?」

 変異体の少女はまんざらでもない表情をした。


「デモモウチョット長イノガイイ……カナ?」

「ソレナラ、タビニ何カヲ付ケ加エルトイイワ」

「あ! はいはーい!!」

 晴那が手を上げる。

「タビチョウチョ! タビチョウチョはどう!?」

「ウーン、チョット長スギ……」

 上げた手が下がると同時に、晴那の顔も下がった。

「いいと思ったのにな……おかあさんがくれた晴那のような、ステキな名前、上げたかったのに……」

「いや、晴那ちゃんのおかげで、いい名前が思いついた」

「え!?」「……」「……」


「……“タビアゲハ”。これが3人からの贈り物だ」




「タビ……アゲハ……」


 変異体の少女は、その名前をつぶやいた。


「私ハ……タビアゲハ……町トイウ花ヲ渡リ歩イテ……触覚デコノ世界ヲ見ル……チョウチョ……」


 その名前に呼び起こされるように、少女は言葉を出す。


「ヨッポド気ニ入ッタノネエ」

「ウン……思ワズ変ナコト言ッチャッタケド……」

 少し恥ずかしがるように、彼女は指先で頬をなでる。

「ねえ、アゲハって、ちょうちょのことなんだよね! あたしの意見も入っているんでしょ?」

「ああ、3人で考えた名前だからな……」


 グゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥルゥルゥルゥゥゥゥゥゥ


 突然、奇妙な音が鳴り響いた。


「……そろそろ、飯の時間じゃないか?」

「あ! すっかり忘れてた! すぐに作るね!」

 晴那は慌ててイスから降りる。

「ゴハンハ、晴那チャンガ作ルノ?」

「エエ。アノ子ノ料理ハ食ベタコトナイケド、キット美味シイノヨ」




 晴那がダイニングルームを去る直前、振り向いた。




「タビアゲハさん、旅のお話、後で聞かせてね!」




 タビアゲハは、笑顔でうなずいた。

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