第25話 温泉
「はぁ、気持ちぃ」
「ふにゃぁ。ここは天国ですかね」
岩肌に身を預けて、ゆっくりとお湯につかる。もくもくと立ち上る湯気からは硫黄の匂いが漂っていた。キトリーはお湯から手を出して大きく伸びをする。全身から疲れが抜けていくのが分かる。
乳白色のお湯に浸かっていると、すべてがどうでもいいことのように思える。
ここには貴族も、平民も、卑人もない。
あるのは雄大な自然と、天然の温泉に、かわいい女の子だけ。
湯船に浸かるのは実に40~50年ぶりくらいかしらとキトリーは思う。
キトリーが風呂に入れる環境にあるわけもなく、オーストリアではそもそも入浴の習慣がなかったので、最後の入浴は美玖の時代まで遡らないといけない。
「キトリー。私達はこんなことをしてていいのでしょうかぁ」
「いいんだよ。いまだけは」
自分だけが幸せを享受することに罪悪感を感じているのだろう。王都までの道はもう少し。最後の町にたどり着いても、ルーの弟に関する有力な情報はなかった。もちろん、大きな町でたった一人の人間を見つけることは難しい。だから、町の出入りの際に、門兵に聞いていたのだ。キトリーたちのほかに卑人の出入りはなかったかどうか。
王都にいればいいと思う。でも、情報が何もないのは心配で仕方がないのだ。ルーもこの旅路で、卑人がどういう扱いを受けるのか痛いほど理解していた。同じ境遇にある弟が、どうやって生活をしているのか想像もできないのだ。
ルーにはキトリーがいた。それは、金銭的な意味だけでなく、彼女を支えてくれた。
湯船から出した腕をさすると、すべすべしている。顔や脚も全身がつるつるのもっちもちになっていた。横を見るとルーのほっぺがピンク色に上気し、肌もぷるんとしている。視線を動かし、湯船に浮かぶ双丘に目を向ける。
-大きい。
純粋にうらやましく思う。自分の胸元に目を落とし、がっかりする。特別小さいわけではない。でも、美玖の時も小ぶりだったので、ちょっと憧れていた。どうせ生まれ変わるなら、理想のプロポーションに転生できればいいのにと、どうでもいいことを夢想する。
「キトリー、何見てるんですかあ?」
「いやぁ、立派だなって」
「もう。またですか。大きいのなんて肩が凝るだけですよ」
「ああああ。わたしがどれだけ願っても言えない台詞を!」
「そんな怒ることですか!わたしは逆に、キトリーみたいに背が高くてスリムなのに憧れますよ。キトリーの脚すごいキレイじゃないですか。それに、キトリーって食べても全然太らないですし。ほんとにうらやましいです」
「うーん。でもさ、太らないのは、運動してるからじゃない?」
「え?」
「だって、毎日、同じ量食べてるけど、基本的に戦闘はわたしだけだし……」
「そ、それは……そうですね。わたし食べすぎだったんですね」
悲しそうな顔をして二の腕をぷにぷにと触る。
キトリーと比較すれば丸みの帯びた体つきだけど、けっして太っているわけではない。人はだれでも自分にないものを求めてしまうもの。
「ここを出たら、もう王都だよね。ねぇ、弟さんってどんな子なの」
話をすっかり変えて、キトリーが聞いた。もう一月近く旅をしていたのだけど、なぜかルーの弟の話題を話したことは余りなかった。話題に上げれば、否が応でも考えてしまうから。だから避けていたというほうが正しい。
「アーブですか?アーブはね、すごく頭がいいんです。高祖父の残した兵法書なんかも子供のころから読んでいましたし、ちゃんと理解してたみたいです。私にはちんぷんかんぷんでしたけど、時々お父様と兵法について話をしていたんですよ。だから、たぶん、いまも状況にもちゃんと対応してると思うんです。でも、まだ14歳ですからね。心配は心配なんです」
弟のことを語るときのルーは実にお姉さんらしい顔をする。いつもは幼いルーが一気に大人びて見えた。
「兎にも角にも、まずは王都だね」
「はい」
「で……どうしようか」
「どうしましょう」
改めて周りを見る。
周囲には色の変った木々が生い茂る森が広がっている。
二人の入っている天然の温泉は、川の近くに沸いていた源泉に無理矢理川の水が流れるようにして温度調節をしたもの。
太陽はとっくに沈み、月明かりだけが二人を照らしていた。
夜の森のざわめきは人の心を不安にさせる。森で暮らしていたキトリーですら、知らない場所は恐怖の対象でしかない。どんな魔物が出るのかわからないのだから。
キトリー達もわざわざこんな辺鄙な温泉に入りたかったわけではない。
王都一つ手前の街、リースは避暑地として、または王都への長旅の疲れを癒す絶好の場所として温泉宿が軒を連ねていた。
卑人に対しての差別を覚悟していた二人だが、まさか街への入場すら禁じられるとは思ってもみなかったのだ。保養地として機能しているために、多くの貴族が滞在している。もちろん、護衛は引き連れているとはいえ、自身の屋敷とは勝手が違う。そんな中で、犯罪者予備軍とも言える卑人が、普通に街に入ってくるというのは許されなかった。
ルーから話を聞いて、数十年ぶりの入浴、しかも温泉を満喫できるかもと心躍らせていただけに、キトリーは奈落に突き落とされたような絶望を味わった。
山を分け入った先に、秘湯と呼ばれる幻の温泉がある。日本ではそんな場所もちらほらと耳にする。源泉がすべて発見済みということはないだろうと、キトリーは山に入ることを断行した。普段の冷静な彼女からは想像できない愚行。
だが、温泉を前に垂涎し、拒絶された瞬間、キレた。
山を彷徨った二人は、幸運にも源泉を発見することが出来たのだが、すでに夜の帳が下りていた。今から街に戻る方が危険を伴う。そもそも、自分たちのいる場所すら正確には把握していない。明るい日の元ならともかく、足元も不確かな夜に動くのは愚かな行為といえた。
「とりあえず今日はここで野宿するしかないね。どの道、街に入れなかった以上、野宿するしかなかったんだし」
「ふぇえええ。温泉に入れたのはよかったですけど、なんだか悲しいですね」
「しょうがないじゃない」
「それに、お風呂から出たら風邪ひきそうですよ」
秋に入り、朝晩の気温差はかなりある。それに加えて、ここは山の中だ。平地に比べると当然のことながら気温は低い。
「かといって、出ないわけにもね」
「うぅ。わかりますけど…」
踏ん切りのつかないルーを置いて、キトリーは湯船から上がる。もう指先がふやけそうなくらい長湯している。お湯から上がるキトリーは当然真っ裸だ。二人以外に誰もいないのに、恥ずかしがる必要もない。近くの木に引っ掛けていたタオルを手に、体をふく。
あったまった体に夜風が染みる。
「ほら、あったかいうちに」
「ふぇええ」
情けない声をあげながら、ルーもお湯から出てくる。月明かりに照らされてルーの体が闇夜に光り輝いているように見えた。
「女神様?」
「な、なに言ってるんですかぁ!」
「いや、あんまりきれいな体してるから」
「もう!変なこと言わないでよぉ」
ルーは慌ててタオルを巻いて体を隠す。
キトリーは体をさっと拭くと、服に着替える。体が冷え切らないうちに、薪に火をつける。あいにくとテントのようなものはないので、地面にそのまま横たわるしかない。仕方ないので落ち葉を集めて、タオルを敷くのが精一杯だ。
大きな木によりかかるようにして体を下ろし、ルーと体をくっつける。バッグの中からジャケットを取り出して毛布代わりにかけた。多少の寒さはあれども、人と密着していればある程度の暖は取れる。
「ちょっと眠りにくいかもしれないけど、今日はこれで我慢してくれる」
「キトリーの方こそ大丈夫ですか?」
座った状態では疲れが取れないのでは、とルーが心配するけども、知らない森の中で熟睡するわけにもいかない。感覚の研ぎ澄まされたキトリーなら、森の中でも接近するものがあれば気づくことも可能だ。
「大丈夫だよ。明日も早めに動くから今日はもう寝よう。おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
夜は更けていく。月が傾き、本当の闇が忍び寄ってくる。
ルーの安定していく寝息を聞きながら、キトリーも意識の半分だけを沈み込ませていった。
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