第4話 3度目の人生
加古川美玖は、アルノーを経て、キトリーとして新たな生を受けた。
どういうわけか、記憶のリセットは今回も行われなかった。
それはキトリーに絶望を与えた。
見返りを求めずに善行をすればよい。ただ、すべてを知るキトリーにそれは難しい。
善行を働くときに、見返りを求めないことはできる。どうせ、期待したところで、それは唯の偽善とされてしまうことが分かっているのなら、そこに何の期待も込められない。だとしたら、それは純粋な善行へと変わる。だが、だとしたら、自分は純に善き行いをしているのだから、天国に行けるのかもしれない。
知識が邪魔をする。
知っているせいで、思ってしまう。
思考のパラドックス。
悪事を見過ごすこともできず、かといって善行はすべて偽善へと転じる。
悪行は当然のことながら減点対象となる。どれだけ努力しようとキトリーのこの世界での得点は最大で0だ。慎重に慎重を期したところで、天秤はマイナス側に傾く可能性の方が高いのだ。
どんなことであれ、知識はないよりある方がいい。しかし、天界での出来事を知っているということは、マイナスでしかなかった。
なんて理不尽なことだろうと思った。
だが、理不尽はそれだけではなかった。
天界の男の言葉の意味を新たな生を受けて早いうちに理解する。キトリーの両親は盗賊を生業としていた。
一度、傾いた天秤は、傾きを深くすることはあっても、反対側に倒すことはできないようにできているらしい。一度、泥沼にはまれば抜け出せない。転がり始めたボールは底に着くまで転がり続けるしかないのだ。
なんなのそれはとキトリーは思う。
キトリーが生まれて間もないころ、母親は赤ん坊の彼女を抱いて市場に来ていた。野菜や果物の積まれた屋台の近くで、商品を手に取りながら吟味して買い物をする。どこにでもある日常の風景。
母親は何気ない動作で、キトリーの頬をつまむと、なんのためらいも見せずねじった。
「うぎゃーーー」
痛みにキトリーが悲鳴を上げ、周囲の耳目が集まる。
その瞬間、皆の意識がキトリーに向いた間隙をついて、キトリーの父親は周囲の買い物客の財布を抜き取った。一瞬の早業、誰にも気づかれることない、二人の、いや”三人”の連携プレイ。
悪事の片棒を担がされたことに絶望を覚えた。
キトリーの精神は、アルノーとして生まれ変わったときと同様に退行していた。目の前の悪事を頭の片隅で認識しつつも、理解できなかった。
ただ、それでも、二度目ということもあり、彼女はその事態に対応した。徐々に理解を深め、赤子の身で、できる限りの抵抗を行った。
泣き喚くタイミングをずらす。
それでも、毎回うまくいったわけではない。でも、可能な限り邪魔をした。3歳に成る頃には、両親はもっと直接的にキトリーに犯罪の手伝いをするように強要した。ナイフの使い方を教えて、人込みでの気配の消し方、気づかれないように対象へと接近する方法、財布を抜き取る手の動き。
それらは盗賊としての英才教育の始まりに過ぎなかった。
おとり役として人込みで対象へ話しかけるように促された。そんな時は、わざと関係ない場所で転んで泣いたりして、愚図を演じた。熱が出たふりや、おなかが痛いふりをして、仕事を拒絶した。そんな時は、折檻された。
人に見られないように顔を殴るのを避けるなどということもなく、酷いときには腫れあがるほど殴打した。食事を抜かれるのも日常茶飯事だった。母親はそんなキトリーに
「働かざる者食うべからず」
などと尊いことのように、犯罪行為を正当化した。
青あざのできたキトリーは、両親にとって都合のいい道具と化した。町の中に、顔を腫らした愛らしい少女がいれば、まともな人なら心配して声をかける。彼女のもとへ駆け寄った親切な人から、両親は金品を奪った。
時に町の外へ遠出することもあった。
キトリーの両親には盗賊団の一員という顔もある。商人の積み荷や護衛の情報が入ったときに、人数を集めて襲うことも生業としていた。そんな時にも、キトリーは囮として使われていた。
商人の獣車がくる少し前に、街道のど真ん中に放り投げ、両親を含めた盗賊団は身を隠す。一人ぼっちにされたキトリーは不安と寂しさから泣いた。
両親の悪行の邪魔をしようという気持ちはあれど、精神は幼い子供のものだった。
一人きりで泣いている少女を見て、商隊は足を止める。護衛もいるし、警戒は緩めない。それでも、気は取られてしまう。そこへ、盗賊団は強襲する。数の暴力でもって、すべてを奪いつくす。
キトリーにできることなど、何もなかった。時々は邪魔したが、時々は失敗した。
8歳になったキトリーは街の保安局に両親を売った。
犯罪奴隷としてどこかで強制労働を受けることになった肉親と違い孤児となったキトリーは神の家に預けられることになった。その時になってようやく自分のいる世界が、全く知らない別の世界であるということに気が付いた。
アルノーの人生を生きた時、時代も場所も変わっていたことから、きっと今回もどこか知らない国の知らない時代なのだろうと思っていた。盗賊の娘としての英才教育は受けても学校教育とは縁がなかったから世界のことを知るきっかけがなかった。
神の家での生活は、とても幸せなものだった。
ぶたれることもなく、犯罪の片棒を担がされることもない。ただそれだけのことで心が穏やかでいられた。
神の家は美玖やアルノーの知る教会とおおむね似ている。神の教えを守り、神に祈りをささげる。ただ、司祭様の祈りは天に通じた。
『神の奇跡』
司祭様は神の奇跡の代行者として祈りをささげる。その力は癒しの奇跡をもたらし、病人やけが人を救った。癒しを受ける人々は神の家に幾ばくかのお金を寄進する。それにより孤児たちの生活を含めた神の家の関係者の生活は賄われていた。
孤児は礼拝堂、治癒院といった神の家の施設のほかの、関係者の生活エリアの掃除、洗濯、食事の準備といったことを衣食住が与えられる代わりとして行う。それらにもちゃんとした理由がある。
孤児たちが神の家に住まうことが出来るのは小成人となる13歳まで。それを過ぎると神の家を出て、働きに出るようになる。もちろん、本来の成人である16歳まではあくまでも下働き程度の簡単なお仕事だ。
貴族や富豪や大店の家などで家政婦として働くのが最も多い孤児たちの就職先だった。そのためにも、最低限の教養と家事全般のスキルを習得できるように孤児たちに仕事をさせていた。
ただし、犯罪者の娘であるキトリーに就職先を探すのは困難を極めた。できることなら神の奇跡の代行者となる道を歩めればよかったのだが、あいにくと適性がなかった。
小成人を間近に控え、神の家から出されるわずか数日前に仕事先が決まったのはキトリーにとって僥倖だった。
ただ、長続きはしなかった。
屋敷で働き始めて二月が過ぎたころ、大奥様のイヤリングが紛失するという事件が発生した。当然疑われるのは、盗賊の娘という立場だった。話も聞いてもらえず屋敷を追い出されたキトリーになすすべは何もなかった。唯一の救いは、イヤリングや売却した代金も実物も荷物から発見されなかったことから、犯罪者として施設送りにならなかったことかもしれない。
ただ、それを幸運というには、彼女の置かれた状況は最悪だった。神の家には戻れず、住む場所もなく、ほんの二月で稼いだ僅かばかりの小銭しかなく、新しい仕事を見つけることもできずに、すぐになくなった。
神の家の協力があって、半年以上かけて見つけた仕事。当てのない彼女には、見つけられるはずもなあった。
空腹に膝を抱えて路地裏に座っていると、同じような身なりの少年が声をかけてきた。
「腹減ってんだろ。こいよ」
絶望のどん底にいるキトリーに垂らされた一本の蜘蛛の糸。見上げればぼさぼさの髪の毛の薄汚れた少年が、にやりと笑みを見せる。
その手をつかみたい。
本心より、そう思った。
だけど、キトリーは首を横に振った。彼のやさしさがありがたかった。ボロボロになる心を温かくほぐしてくれた。でも、その手を取ることはできなかった。
年相応以上に頭の回るキトリーにはわかっていたから。
彼らがどうやって食べ物を手に入れているのか。まともな手段でない。働くことが許されないからといって、盗みが正当化されることはない。
キトリーの知る理不尽な天界のルールに当てはめれば、間違いなく悪業として減点される。
『-274点の世界』から脱却するには、プラスに転じることが出来なくても、可能な限り減点される機会を減らす以外にない。この瞬間、彼女の中で覚悟が決まった。悪行や善行は人の世にあるものである。
ならば、人との関りを絶とう。
この世界が13歳の少女に甘くないことは理解していた。街の外には、見たこともないような凶暴な魔物がいると聞いていた。
それでも、人々から奪いながら生きていくくらいなら、その厳しい世界に身を置こうと考えた。どのみち加点はない。できるのは減点を減らすことだけなのだから。あっという間に、魔物の餌になるかもしれない。盗賊の娘として、悪事に加担させられ続けた彼女の現在の点数は分からない。でも、まだ-274点を下回ってはいないだろうと、期待する。これ以上、減点を増やしてより悪い世界に転生するのも、地獄行きになるのも遠慮したい。
さっさと死んだほうが、加点も減点もされずマシかもしれない。
自殺が減点対象にならないならという前提条件が必要になるが。
それに、簡単に生を投げ出すつもりはない。
魔物に食べられるのは痛いだろう。
死にたくはない。
死ぬのは怖い。
だったら足掻くだけだ。
2度の人生を生きたキトリーなら同じ13歳より多少は知識はあるかもしれない。
それでも、できることは多くない。
でも、あきらめるのは、こんな理不尽な仕打ちをした神様とやらの思い通りになるのが悔しくて腹立たしかった。屈するのはまだ先だ。
彼女は少年の手を振りほどき、立ち上がった。
「おい」
声をかける少年を無視して歩き出す。
路地を出て、大通りを歩き、街の外門を潜り抜けた。
この日、キトリーは人の世と決別した。
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