第3話 点数システム
人が並んでいる。
それも無数の人だ。
いったいどこまで続いているのか前のほうは霞がかかっていて用と知れない。それだけではなく列は縦横無尽に走っている。空間は白で埋め尽くされ、立っているのが地面かどうかも定かではない。三次元的に展開される人々の列はねじれの位置にあり決して交わることはなかった。
自分がいつからここにいるのか、どれほど長い時間列の一部を形成しているのか、まるで記憶にない。意識が覚醒しているようで混濁している。
自分の名前はわかる。
加古川美玖。
それを認識すると、徐々に記憶が鮮明になっていく。
最後の記憶。
白い清潔なシーツ、消毒液の匂いのする病院の一室で美玖は眠っていた。
そうか、私は死んだのか。
慌てることもなくただ事実を確認するように自問する。
突然の死ではなかった。3か月間の闘病生活。まだ、29歳という若さで死んだことに後悔はあるけども、受け入れる覚悟は徐々に衰えていく肉体とともに自然とできていた。
だとしたら、ここは天界なのだろうか。
死者の列。
きっとこれから、閻魔様の裁判を受けるのかもしれない。
想像していた場所とは違うけども、死んだことのある人間などいないのだから当然か。思考を止めるものはない。なんだったら、この列から飛び出すこともできるのではないかと思うけども、不思議とそんな気分にはならない。歩いている意識もなく、少しずつ前に進んでいる。
時間の経過を知るすべはないし、そもそも時間の概念があるのかも定かではない。ただ、何となく自分の番が近いことがわかる。
目の前の人たちが少なくなっていた。
列の先には何も見えない。深い霧のような白い靄の中に一人、また一人と消えていく。
そして、自分の番が回ってくる。
白い世界に、白いテーブルと白い椅子。白い服を来た男の人。目の前にあっても特徴のない顔。人種すら判然としない不思議な男。東洋人か、白人か、黒人か、はたまたラテン系なのか、年齢も何もかもが分からない。目を閉じただけで、記憶から消えてしまいそうなほど印象が残らない。
閻魔様というよりただの役所のカウンターに座る事務員のよう。
無自覚に男の前に立つ。
「加古川美玖、-17点。」
「は?」
驚いて声を上げて、その時初めて声を出せるということに気が付いた。
「-17点?」
「あなたの生涯で獲得した業です。善行は加点され、悪行は減点される」
抑揚のない無機質な声。
「ま、待ってよ。別に善人だなんていうつもりはないけど、だからって悪行なんて何も」
美玖は小市民だ。ボランティアに参加するほど、積極的に善行をつくこともなかったけども、決して悪行といわれるような行いをした覚えもない。どこにでもいる普通のごくありきたりの経理課の会社員だった。
「私が一体何をしたっていうの」
「輪廻は巡り新たな生を受ける。説明したところで記憶にも残らない。意味のある行いとは思えませんが」
「そ、それでも知りたいのよ」
「仕方ないですね」
やれやれと溜息をつくしぐさをする。実にわざとらしい。仕草だけは嘆息しているのに、言葉は棒読みでどんな感情も感じられない。なんだかんだで全員に説明しているのだろう。聞きたがらない人がいるとは思えない。
パラパラと台帳のようなものをめくり、美玖の生涯に行った善行、悪行のリストを確認する。
「そうですね。一番大きなところで、-20点のマイナスがあります。イジメに遭っている同級生を助けなかった」
「そ、そんなのみんなだって・・・」
高校一年生のころの事を言っているのだろう。クラスでいじめがあった。それは間違いはない。でも、美玖は見て見ぬふりをした。いじめられているクラスメイトをかわいそうだと思った。でも、手を差し出せば、矛先が変わる。周りの誰もがそうしていた。自己防衛の何が悪い。人を助けるのなんて生易しいことではない。
「あとはもう、拾った小銭を着服したなどのような小さな積み重ねです。善行も些細なものがいくつかあるようですが、全部説明する必要はないでしょう」
「勝手に話を進めないでよ。見て見ぬふりなんてみんなやってることじゃない。そんなことまで悪行に数えていたら、善人なんて一人もいないでしょ」
「いますよ。稀にですが、善行を積み、輪廻から解脱を果たす人も」
「ちなみに、何点よ」
「500点。善きにも悪しきにも」
つまり、500点で天国、-500点で地獄行ということか。
「ちなみに小銭の着服は何点マイナスなの?」
「1点です」
「参考までに、私の善行一つでいいから教えてもらえる」
「そうですね。電車でおばあさんに席を譲ったことは1点加点されています」
「一番得点が高かった行為は?」
「1点以上の得点を取ったことはないです」
「え?」
善人ではないと言ったけど、29年もの人生を振り返ればもっと何かあるだろう。誰にでも手を差し伸べるような博愛主義ではないけども、友人や知人のために尽力することはあったと思う。それでも、なお、たったの1点にしかならないのであれば、500点なんて遠すぎる。
いや、そうでもないのかと思いなおす。
マザーテレサのような聖女である必要はない。一日一善、電車でおばあさんに席を譲る程度の善行でいいのなら、たった二年で天国行きになるのだ。もちろん、ここでの記憶は失われるのだろうけども、解脱への道とはそれほど厳しくはないのかもしれない。
「そろそろいいですか」
「え、ええ。一応は」
「それでは、次の人生では善き行いを」
彼の言葉とともに、意識は混濁し消滅した。
加古川美玖の人生は終わりを迎え、遠く離れたオーストリアに住むヘルツォーク家の三男アルノーとして新たな生を受けた。
自我が目覚め始めたのは生後6か月を過ぎたころ。
加古川美玖の記憶と死後に天界で交わした会話も不思議と覚えていた。
ただ、一度成熟したはずの精神もアルノーとして生まれ変わった時点で幼児化していた。おそらく、記憶の引継ぎが行われるという奇跡の中にあっても、精神の減退は必要なことなのだろう。精神は肉体に同調する。それがなければ、幼児期を過ごすのは精神破壊を引き起こしかねなかった。
一人の人間として、身の回りのことが出ていたものが、食事も下の世話もなにもかも人に頼らざるを得ない状況、ましてや赤子というものは、意思を訴えるすべを泣くことでしかできなかった。屈辱に耐えられるよう形に精神は変容した。
男性として生を受けたことに対する違和感もなかった。アルノーとして男の子としてわんぱくに育ち、少年、それから立派な青年へと成長した。女性との恋愛も経験することになった。
3歳ころには、アルノーの精神もそれなりに育ち天界の記憶の意味を理解した。そして幸運に歓喜した。この世の仕組みというべきものを理解しているのだ。善行を行うのは難しい。だが、天国へ至るということを知っているなら話は違ってくる。喜んで善人になろう。
そう考えたアルノーは可能な限りで善行を重ねた。
男子として生を受けたこともあり、アルノーは体を鍛えた。先の人生では、イジメに遭うクラスメイトに手を差し伸べられなかったのは、心と体の弱さだと思った。だからこそ、アルノーは心身ともに鍛えることにした。その甲斐もあってか、街中で暴漢に襲われる若者を救うこともできた。善行は多岐にわたって行われたという自負もある。
美玖の生が20世紀から21世紀にかけての29年間だったのに、アルノーの生はそれから100年ほど遡った時代だった。戦禍にも見舞われた時代は、お世辞にも治安がいいとは言えなかった。
歴史に詳しいわけではない。中学、高校の授業を受けた程度の最低限の知識。それでも、世界がこれから進んでいく方向は分かっていた。
世界大戦が起こる。
戦争は間違いなく悪だろう。
戦場では人が死ぬ。
望む望まないに関わらず、銃を持てば簡単に人の命を奪えてしまう。
見て見ぬ振りが悪行だというのなら、戦争へ参加することはそれ以上の悪と言わざるを得ない。
拒否することできない徴兵でも、それが覆されるとは思えない。理不尽な天界のルールに徴兵されたから仕方なかった。などという言い訳が通じるとは思えなかった。
ゆえに、アルノーは医学の道に進んだ。
軍医であれば、人を殺すよりも救う立場に進むことができる。戦争を止めるなんて大それたことはできなくても、善行を重ねることは可能だと考えた。たとえ前世の記憶があっても、医学の道に進むのに役には立たない。アルノー自身も、人より記憶力が優れているわけでも、頭の回転が速いわけではなかった。だから、死に物狂いで勉学に身を投じた。
時代はアルノーに厳しかったが、生まれた家は裕福だった。勉学に励む息子にお金を惜しまなかった。そこへ進むまでのアルノーの生き方もよかったのだろう。天国へ行くために善行を続けるアルノーに対する周囲の目は好意的だった。
医学を修め、医者になってそれほど時間が経過したころ、軍医として従軍することとなった。戦場でアルノーはできる限りのことを行った。軍医として多くの同胞の治療を行い、それ以上に仲間の死を見届けた。軍医といえども、常に後方勤務というわけにはいかなかった。
前線で銃弾の飛び交う中に身を投じることもあり、メスの代わりに小銃を持たされることもあった。止むを得ず、敵兵を撃つこともあった。
戦場の狂気の中にいて、止めることはできなかった。
後悔はある。
でも、それ以上に人々を救ったという自負もあった。
投下された爆弾でアルノーとしての人生が終わりを迎えた時も満足して逝くことができた。
気づいたとき、長い長い列を構成する歯車の一つになっていた。
2度目の死。
短い人生だと思う。短命は時代のせいか、あるいはこのの魂は短く輪廻の巡る定めなのか知るすべはない。
ただ、それもこれで終わりだろうと思う。
白い世界に、白いテーブルと椅子。座っている事務員のような男が前回と同じかどうかは定かではない。特徴のないことが特徴の男。
「アルノー=ヘルツォーク、-274点」
「…」
何を言われているのか理解が出来なかった。呼ばれた名前に間違いはない。だが、続く点数は悪い冗談としか思えない。
「ふざけるな!」
テーブルをたたきつけ、男に詰め寄ろうとするが体はまるで動かない。会話の自由は認められているが、肉体の自由はなかった。
「なんで、俺がマイナスなんだよ。相当善行を重ねた記憶があるぜ」
ちらりとアルノーを見上げ、手元の台帳をパラパラとめくる。
「どこにも見当たりませんね。ここにある業はすべてマイナスの行いだけのようです」
「はあ?なんでだ。なんでそうなる。一つもない。そんなバカなことがあってたまるか。食うに困っている人には食事を提供し、理不尽な暴力にさらされているものには手を差し伸べた。戦場でだってそうだ。戦場で数多くの同胞の命を救い、前線で配給が十分ないときでも、俺は仲間全員で少ない食料を回すように手を尽くした。上官に冷たい目で見られてもだ!それが善行でなくなんだっていうだ。それは当たり前の行いだとでもいうのか。ふざけるなよ。空腹にあえぎ誰もが、自己を優先させようとするあの場で・・・」
「ふむ。しかし、ここには記載はないですね」
台帳を二度ほど確認してから、アルノーの目を見る。目ではなく瞳の奥、アルノーを見ているようで見ていない。アルノーのすべてを見るような気持ちの悪い視線。
「なるほど、あなたは、ご自分の善行に見返りを求めていませんでしたか」
もちろん求めていた。善行の果てにある約束された未来を。現世での不遇など大したことではない。
-だって俺は…
「ご存じだったのですね。稀に起こるのです。こちらの記憶を持って生まれることが。残念だというしかありませんが、あなたの行いはすべて偽善です」
「…はあ?偽善は悪だとでもいうつもりか。下心があろうとなかろうと、それらの行為で救われるものがいるなら、その行為はすべからく善だろう」
「無償の愛こそが善です。見返りを求める行為は善ではない」
ゆるぎなくはっきりと応じられる。
抑揚のない冷たい声にアルノーはますます激情を募らせる。
「だからといって、悪行でもないだろう」
「ええ、その通りです」
「だったらなぜ、-274点なんてことになる。俺のやってきたことがすべて0点にしかならなかったとしても、それほどの悪行をどこでつんだ。…戦争か。戦場で人を殺したからか」
「いえ、戦争での殺人行為の責任をただの一般兵には求められていません」
「だったら…」
「チンピラに絡まれている若者を助けた覚えがありますか」
「…何度かある」
「では、近所に住まう若者の未来に心当たりは?」
「それは…いや、まて、そんな、それは、だって目の前で絡まれていたら助けるだろう。助けるのが善行じゃないのか」
「本来、それは善行として認められるでしょう。ですが、歴史を知るあなたに対してそのルールは適応されない」
「ふざけるな。そんな、理不尽なことがあってたまるか」
授業で習った程度の世界史の知識。それでも、彼がいずれ何をするのか、それはもはや常識といっていいレベルの誰もが知る事実。
だったら見殺しにするのが正解だったと。
イジメを見て見ぬ振りしただけで、-20点減点をされる仕組みのこの世界で、いずれ大罪を犯すであろう人物なら、見て見ぬふりをしろ。そんな理不尽が許されるのか。命は平等ではないとでもいうのか。
-そんな一方的な点数システムが、天上の神の定めたルールだとでも。
足掻くことが馬鹿らしくなる。
ここでいくら吠えたところで、目の前の男は機械的に物事を処理するだけ。
激情に駆られて暴れずにいられたのは、天界の不思議な力で押さえつけられているからかもしれない。凪いで行く心は、受け入れる道を選択する。
「…地獄行じゃないんだろ。だったら、次はちゃんと記憶を消してくれ」
記憶があることが不利にしか働かないなら、そんな記憶はなくなったほうがいい。
「もちろんです。-274点ですので次の生は少々困難が多いでしょうが、それでは次の人生では善き行いを」
聞き捨てならない言葉に、言葉を返そうとするがすでに声を発する自由も奪われていた。
意識が混濁し闇に落ちる。
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