片眼沼
さくら
第1話
濁った沼の水の中で、銀色の鱗がちらちらと光に反射する。沼の淵には死んだ魚が打ち上げられ、微かな異臭を放っている。黒く朽ちていく魚にも、泳ぐ魚にも片目はなかった。
沼に浮かべられた簡素な造りの木の船に、魚は集まっているようだった。そこで腐れた木が沈むのを待っている。沼を覆っていた藻は黒くなり、岸に追いやられている。
魚は私の近くに寄っては離れていく。唯一の目をこちらに向けて泳ぎ、私を見ている。
沼い淵、枯れた落ち葉の上に腰を下ろす。この沼の魚を食べれば、片目が潰れると噂が流れてからは、山にあるこの沼に誰も近づかない。幼い頃から一人になりたい時は、この沼に来ていた。今日は一人ではなかった。後ろには死装束を着た妻が立っていた。
「これからなにしたらいいんだべな」
魚を見ながら発した言葉は、独り言のつもりだった。
「なんでもしたらいいんでねぇの」
妻の懐かしい声がする。
「なんにもねぐなった」
「筆があるんでねぇの」
「そいつはお前が使えねぐしたんだべ」
あれから筆を握っても、頭に浮かぶのは妻の顔。睨んでいるような、悲しんでいるような、あの顔を何度も描き続けた。女を描けば妻に似る。筆を握るのも辛い。
「お前はおれのこと」
魚が跳ねる。この先を聞くか迷う。
「・・・恨んでだが?」
「なにをわけのわからねぇごどを」
「だってよ、だってあん時」
後ろから妻の笑い声が聞こえた。振り向くと誰もいなかった。
以前は風呂敷一つで何処へでも行けた。今は何処へも行ける気がしない。立ち上がって小石を沼に投げてみる。魚が餌だと思い群がっている。岸に上がった魚の死骸を、どうにか食べられぬものか、と数匹が行ったり来たりしている。
山を抜けて足が向かったのは繁華街だった。昔、城のあった近くの通りは賑わっている。なにが欲しいわけでもなかった。虚しさの塊と化した私は求めたのは、人だった。細い道へと入れば、びっしりと町屋が並び、奥に寺が見えた。こじんまりとした寺はやけに屋根が大きく、まるで何かを背負っているような姿を自分と重ねた。ふらふらと近寄っていくと、境内には所狭しと墓が並び、老婆が一人、墓参りをしているのが見えた。
「なにか用でも?」
振り替えると、住職のような男が立っていた。
すぐには答えられなかった。用はない。
「墓さ来たなら、勝手に入ってもらって」
墓はない。
「お参りさ、来ただけで」
咄嗟にでた理由がお参りだった。手を合わせて帰ろうとすると、住職にお茶を飲んで行かないか、と誘われた。
「どこからいらっしゃった」
「隣の村から」
話をしているうちに、絵が趣味だというと住職は興味を示してくれた。
「絵ですかぁ、どだな絵描ですか?」
説明するのは難しい。風呂敷から妻を描いた絵を取り出し見せた。手持ちはこれしかなかった。
「これは、死んだ妻を描いたもので」
この絵を最後に、もう絵は描いていない。
「これ、この絵、寺に置いてもらいてんだが」
どうせ売れない絵、どこかに手放したかった。
「この絵を?なして?」
「これは妻が死んだ時、おれのとこに化けてでてきた姿を描いたもんで、もうこの絵描いてから筆持つと、妻の顔ばっかり浮かんで、もうなんにも描けないんよ。忘れられないんで持ってたんだけど、手放したくて。幽霊の絵だから、こういうところがいいかど思って」
「ほう、化けてでてきたんか」
「おれよ、畑や田んぼが暇になる秋から冬はよ、ふらふらって旅さ出て絵を描いったっけの。帰ってくんのも春先よ。その間に病気でもしたんだべな。妻が死んでよ。その時、木賃宿さ居たんだけんども、障子さ女の影が見えたんで開けてみっど、妻が立ってだっけ。なしてこごさ、って思ったんだけどよ、後で死んだって知って、別れを言いに来たんだと思ったな」
一つ気になるのはあの時、妻は私を睨んでいた。
幼い頃から近所の子供と遊ぶより、一人で居るのが好きだった。いつからか家で絵を描くようになり、色白だと罵られた。ふらふらと外を歩いても、どこでどう遊んだらいいかわからなかった。そんな中、あの沼を見つけた。一人になれる場所を見つけ、通い詰めていた。ある日、沼に行こうとして森の中で立ち止まった。沼に顔を近づけて魚籠を片手に持ち、素手で魚を捕まえようとしている女が居た。なんだか怖くなって、その日は家に帰った。何年か経って、親が決めた縁談で結婚が決まった。沼に居た女が、今度は妻として私の前に居た。あの日、魚は捕まえたのか。誰に食わせたか。聞きたいことはあった。でも、聞けなかった。妻はひたすら明るく、優しかった。旅に出たいと言った日だって、笑って了承してくれた。翌日、旅支度がされていた。一度だって責められてことはない。何度も絵を褒めてもらい、旅先の話を楽しそうに聞いてくれただろう。
笑顔の妻が好きだった。
旅の途中、木賃宿に泊まり雑魚寝状態の中、絵を描いていた。道中、粗悪な見世物小屋で見た犬の死体を食べる女を、ひたすら恐ろしくなるように描く。誰がそんな絵を欲しがるのか、と言われればそれまでだ。ただ、自分が描きたいものがそういったものなのだから仕方ない。本気で絵師になる気もない。好きなものが描ければいい。
見たことのもないものを、見せてくれる旅が好きだった。そして、見世物小屋に通えば創作意欲が湧く。どんな仕掛けなのかは知りたくない。すべてのことは絵によって本当となる。本当は犬の死骸に、紅で染めた軍鶏の肉を入れて食べていたとしても、絵での女は犬を食う。
「おめぇさん。そんな絵描いて、なにすんなや」
占い師だという胡散臭い女が話しかけてくる。ここに居るのは貧乏人ばかり。
「なにもしねぇよ」
売れる気もしない。夢中でこんなものを書いている時が、楽しかった。たまにまともなものを描けば売れた。
風が強くなって戸ががたがたと鳴る。ふと顔をあげれば、起きているのは自分だけであった。手元は暗く、ほとんど見えていない。もう寝ようと思った時、障子に影が映った。影は動かない。こちらを向いて立っているようだった。気にしないで眠ろうともしたが、なんだか見られているような気がして眠れない。雑魚寝する人を避け、障子の前まで来ると、立て付けの悪い戸を音が出ないようにゆっくりと開けた。廊下い白い着物を着た女性が立っていた。よく見れば妻だった。
「おめえ、なしてここさ」
妻は答えない。睨むような目をした顔は白い。近寄ろうとした時、あとかたもなく消えてしまった。
しばらく立ち尽くして、あれは幽霊だったと気付く。
雑魚寝している人にぶつかりながら、自分の布団まで戻った。いてぇぞ、と怒られたが、どうだってよかった。紙と筆を持って、さっき見たものを描いた。私はなぜか興奮していた。
見せ物ではない、本物を見た。
街道を通り、峠を越え、故郷へ向かう。安宿に泊まり、妻を描き続けた。白い顔、黒い髪。髪には白髪が混じっていたか。目はもっと細められていたか。何度も描き直して、描き終える頃には故郷が近かった。
まず、妻の里に向かった。妻は死んでいると悟ってた。
久々に帰った家は狭く感じた。妻が苦しんでいる時に、どこで何をしていたといろんな人に詰られて、疲れ果てていた。家で絵を描こうにも、浮かんでくるのは生前の妻と、化けて出た妻ばかり。
久々に沼に行こうと思った。
山に入った辺りから、妻がついてきているのはわかっていた。
住職は絵をお預かると言った。寺を出て振り替える。この寺が背負っていたものは、私のものとは違っていたことに気づく。帰りたくはなく、当てもなく歩いた。賑わいの中にいようとも溶け込めない。黒く染まってきた道をどこまで歩こうと、過去からは抜け出せない。私は知っている。どう迷っても、どこへ行こうと行き着くのは、あの沼だと。
気づけば、足は沼に向かっていた。
沼の真ん中に妻がいた。笑顔でこちらを見つめている。あの日の白い着物を着て、腹まで水に浸っている。吸い寄せられるように沼に入った。ばしゃばしゃと魚が寄ってくる。死んで岸に上がっていた魚が、痙攣したように跳ねて動き出し、こちらに泳いできた。
片目のない魚たちに、私は足から食い尽くされていく。
妻に手を触れようと手を伸ばした時、私は崩れるように沼に沈んだ。
片眼沼 さくら @goi
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