第2話

 オレが肩を落としていると、誰かがミサキと言い出した。それと同時に、他の人間たちがミサキミサキと叫び始めた。オレも、どうしたどうしたと言わんばかりに肩をぶつけて来る隣のおっさんに呼応してミサキと叫んだ。


 同床異夢だったはずの人間が、一人残らず目の前の勝者様を称えた。百円か、千円か、あるいは一万円か、それ以上か。多くの人間が目の前の男のせいで汗水垂らして手に入れた金を失ったってのに実にお優しい事だ。まったく素晴らしい。


 今ここで声援を受けてるミサキの下にいる、GⅠ馬ってもんになった奴は競走馬をやめてもまだ仕事がある。種牡馬って言う何十人ものカミさんを持つ事になる仕事だ、しかもいいとこふた月の期間で。


 流れ作業でやってるのか本当にその気になっちまうのかはあまり知らないが、オレにはそんなたくさんの女とやれる自信はねえ。トシだろ?うるせーよ、誰が言ったか忘れたがサラブレッドの9歳は人間の四十路だ。


 そんな年にもなって数十人、いや一番極端なとこを言えば200人以上の女とやれるのか?まあサラブレッドってえ奴はそういう風に作られて来たんだろうけどな、こっちなんかカミさん一人でも持て余してるってえのに。




 やがてミサキって言う三文字の大合唱が終わると、多くの人間がオレと同じように肩を落とした。やっぱり多くの連中がオレみたくうっぷん晴らしにやって来て、その見込みが外れて目の前の勝者様に八つ当たりしてたんだろう。

 うっぷん晴らしにしては高い金を支払ったもんだが、程度さえわきまえてりゃ誰も文句は言わねえ。いやあるいは目の前の湖にたたずむ白鳥様は言うかもしれねえ、何勝手にやって来て何ギャーギャー騒いでるんだか、こっちの迷惑も考えてくれよと思ってるだろう。


 お説ごもっともな意見だが、それでも身も蓋もない話をすりゃここは人間様が人間様のために作った場所だ、最優先されるべきは人間様の都合であり次が馬の都合だ。人間が勝手に連れ込んで来たような白鳥の都合は三の次って奴だ、だからあしからず。


 にしても、あんなに強かった風があきれるほど弱まってた。詩人なんて高潔なもんを気取るつもりはこれっぽっちもねえが、風って奴もまた気まぐれでいい加減な代物だ。人間やその他の生き物の皆様がいかに思おうとも何とかしようとも左右できるもんじゃねえ。まあだからこそ風なんだろうけどな、風に吹き飛ばされて行ったはずの雲がまたやって来るのを見ると、自然って奴は気まぐれでかつ強いもんだねと実感する。




 おっと、そんな事を考えてるうちにまた人が集まって来た。ああそうかもう1レース残ってたんだ。

 オレはスタンドを出た。おうおういるいる、最後のレースに望みを託そうとする往生際の悪い顔、あーあやっぱり負けたと肩を落として出ていく姿。どっちでもねえのがいるとすればそいつは今日がGⅠってえ事でやって来たよく言えばライトな、悪く言えばにわかなファン連中。

 馬券なんぞ入場券のついで程度か、あるいは買ってすらいないのかもしれない。当たったか否かなんぞどうでもよく、馬が見られりゃそれでいいって方々。うらやましい、ああうらやましい。競馬歴=社会人歴のオレは歯噛みしながらそいつらを見送った。



「あんたもかい」

「あるいは電車賃まで注ぎ込んじまったとか」


 どいつもこいつも親切だ。歯噛みしてうつむいて突っ立ってる俺を見るや傷をなめてくれるかのように肩を叩いて励まして来た。

 もう少し悔しがらせてくれよ、オレがそう言ったらまあご自由にって言いながら笑って去って行った。


 これが競馬場の空気って奴だよな。オレは紛れもなく競馬場の一部だ。いつもながら、何もかもが温かい。家庭よりは温かくないが、職場よりは温かい。どんなに暗い顔をしてうつむいていたって、どんなに黙りこくっていたって、何かあったと親切の押し売りをしたそうに声をかける奴はいない。

 コンクリートむき出しの柱の冷たさが、ほてった体にはなんとも気持ちいい。その柱に手を引っつけている有様は変な奴のやる事にしか見えないだろうが、敗北と言う二文字がそれを許してくれていた。


 ああ、最終レースが始まるな。ファンファーレが鳴ると同時にオレは馬のように走り、そそくさと用件をすませて五百円玉を電車の券売機に突っ込んだ。競馬新聞片手に暗い顔をしながら黙ってうつむくオレの事を誰も構おうとしない。


 ただの乗客様、ただのおけら街道の住人、みんなそう思ってくれてる。そう思うと白鳥って奴は気の毒かもしれねえ。勝手に抜けた羽根一本でも使いようもあるだろうって追われる。今のオレは十七年の社会人生活で身に付けた芸のおかげで、何の役にも立たない競馬オヤジになれている。




 家の最寄り駅に戻って来るとあれほどまでに吹いてた風はどこへやら、本当の無風になっちまった。それでもオレは顔を上げる事はしなかった。芸歴十七年とか言うけどオレは俳優じゃねえ、ただのサラリーマンだ。


 そんな素人の芸なんぞ目のある人間が見ればすぐばれる。だからオレは必死こいて芸がばれないようにしてる。







「お帰りなさい!」


 でも、カミさんにはオレが十七年の社会人生活で身に付けた芸なんぞまったく通じなかった。オレがいつものように沈んだ声色でただいまと声を上げたにも関わらずこの顔、この声。


「テレビを見てて思ったのよ、あなたなら買うって!あなた何欲しい?」


 どうしてこの女性はおけら街道を歩いて来たような顔をしたつもりのオレが千五百円を二十万円にしちまった事を見抜くのかね。まあ確かにオレは常日頃あの二頭を応援してたけどよ……ああ、オレは今後競馬に勝つことが出来たとしても、このカミさんには一生勝てねえわ。




 そういう訳でオレはおとなしく今日儲けた金を全部カミさんに差し出した。ああ、元手である一万円だけはもらっといたけれどな。

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