第2話優しい二毛作


 僕は田舎の大家族の家庭で育った。大家族といっても、核家族に対しての大家族なので、それほど大でもない。5人家族だ。一人息子の僕と、両親。そして父方の祖父母で構成されている。

 代々農業を生業としてきた血筋だったので、祖父母はもちろん、両親も農業をやっている。主にビニールハウスでの胡瓜栽培で成り立っているのだが、夏には田んぼで米も作っている。

 そんな環境で育ったからか、子供の頃の遊び場はいつだって外だった。

 毎年田植えの時期には、町中の田んぼという田んぼに水が張られ、水面からしゅんしゅんと青々とした苗が顔を覗かせている。風にさらさらとそよぐ苗が波紋のように広がり、太陽に煌めく水面に波を打たせていた。

 僕の家の田んぼにも水が張られ、父がコンバイン(田植え機)で真っ直ぐに苗を植えていく。僕は植え付けの手伝いと称し、両手両足を泥だらけにして手伝いに来ていた従兄弟たちと遊んでいた。祖父がコンバインでは植えられない隅の所に手植えをしていて、それを真似てやったりもした。

 綺麗に植えられた田んぼを見ていると胸のすく思いがする。逆にコンバインを真っ直ぐ走らせず、よろよろとしている苗の列にはどこか違和感が残る。手足に付いた泥が乾きゆくのも構わずに、僕はそんな風に思っていた。

 収穫時期になると田んぼ一面に、たわわに実った稲穂が頭を垂れて揺れている。「稲」と言えば、秋の季語であるが、僕の田舎は早場米よりも早い超早場米だったので、「稲」が秋の季語と言われてもぴんとこない。7月の後半から8月の初め頃にはどこの家も全部刈り取ってしまう。

 小学校の国語のテストで「示された季語の季節を答えよ」という問題があった。そのなかの「稲」に対して、クラスの九割が「夏」と答えたのも仕方がないことだと思う。

 台風被害の多い地元ならではの、先人たちの知恵なのだが、小学生たちのテスト用紙にペケを量産してしまった。自分たちの常識が、世界の常識でないことを理解させる良い問題だった。

 稲刈りが終わると僕の家の田んぼは使い道を失う。他の家は大根を植えて、冬に切り干し大根などを作ったりするのだが、僕の家の冬場は胡瓜の栽培で大忙しだ。

 使われない田んぼはどこか寂しい。また来年の田植えの時期までじっとしている。雑草が疎らに生え、ことさらに寂しさを際立たせる。そう思ったのかどうかは知らないが、いつからか祖父母がコスモスの種をまき始めた。

 別にコスモスを出荷するためとかではなく、たんに趣味の範疇だったので、種をまけばあとは自然に任せる。ゴッホの「種をまく人」が何をまいていたかは知らないが、祖父母が種をまく姿もあんな感じだ。

 田んぼの土がコスモスに合ったのか、その年の10月にもなると成長したコスモスが一面を覆った。赤、白、ピンク。秋風に揺れる花はまるで満開の桜のようで、僕の視界に溢れていた。秋に桜と書いて「秋桜(コスモス)」と言うのも、この光景を一緒に見ていた祖父から教えてもらった。

 冬が迫ってくると花は枯れ、種を残した。祖父母はその種を集めて、また次の年にまいた。

 小学校の登下校のとき、僕はかならず田んぼの前を通る。帰り道に友達から「なんでコスモスを育ててるの?」と聞かれたことがあった。その問いに僕はうまく答えられず口惜しい思いをした。出荷するわけでもなく、なんとなく祖父母が種をまいただけ。なんで? と聞かれても、答えようがない。綺麗だから良いじゃないか、といいつつも心のなかはもやもやとしたものが残った。

 別の年の帰り道、道端に車を停めて僕の家のコスモスを見ている老夫婦と出会った。不思議に思った僕はこんにちはと声を掛けてから、どうしたんですか? と聞いた。

「コスモスを見ていたんだよ」

 聞けば毎年この時期に、近くの温泉宿に泊まりに来ているという。去年の帰り際に見かけた一面に咲いたコスモスが忘れられず、今年は車を停めて見ていたと言うわけだった。

 嬉しくなった僕は、ここは僕の家の田んぼなんですと伝えた。祖父母が種をまいたんです、と。

「このコスモスは出荷するのかい?」

「いいえ、祖父母の趣味なので、枯れたら種を集めて来年まきます」

「とても素敵な方だね、素晴らしい趣味だ」

 僕はもっと嬉しくなった。

「来年もまた楽しみにしているよ」

 そういって別れたあの老夫婦とは、それから出会うことはなかったが、きっとあの日のようにコスモスを見てくれた日があったのだろうと思う。なんで? と、聞いてくる友達には、綺麗だから良いじゃないかと、晴れやかな気持ちで言えるようになった。

 また別の年、田んぼの隣にあるビニールハウスで、僕が父の手伝いをしていると、見知らぬ男の人が訪ねてきた。空は雲に覆われ雨が降っている日だった。

 傘も差さずに軽自動車を降り、僕らのもとへとやってくる。男の人は子供だった僕からみると30代後半に写った。もっと若かったかもしれない。

 彼は父に、隣の田んぼのコスモスは誰のものかと訪ねた。父が自分の家のものだがと答えると、少し分けてほしいと言うのだった。

「自分で摘んで帰りますから、お手間はとらせませんので」

 父は好きなだけ摘んで構わないと言った。

 礼を言い頭を下げると、彼はやはり傘も差さずに田んぼの方へと小走りで向かう。大雨ではないにしろ、傘が必要なぐらいには雨が降っていたので、雨に濡れながらコスモスを摘む男の人の姿を僕は不思議に思った。

 父は休憩でもするかと言って、煙草を取り出して咥えた。紫煙を吐きながらその姿を見詰める父も、きっと僕と同じことを考えていたに違いない。

「変な人だね」

「ああ。でも、良いことがあるといいな」


 いま現在、僕の家の田んぼに、コスモスが咲くことはなくなった。コスモスの種をまいていた祖父は亡くなり、祖母も年齢とともに田んぼへと出掛ける体力を失ってしまった。

 学校の帰り道に出会った老夫婦も、雨のなかコスモスを摘む男の人も、種をまいていた祖父にさえ、僕はもう二度と出会うことはないのだろう。

 けれども一面に咲いたコスモスの風景はいつだって思い出せる。夕日に照らされた色とりどりのコスモスが、秋の冷たい風に揺らいでいる。あのコスモスは、僕が知らないだけでもっとたくさんの人の目に写っていた。たくさんの人は思い思いにコスモスを眺めていたのだ。

 都会で暮らしていると、一面を覆い尽くすほどのコスモスを見る機会はない。しかし不意にコスモスを見掛けると、いつもあの景色を思い出してしまう。

 そして、何か良いことがあればいいなと、少しだけ優しくなれる。

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ほのぼのエッセイ集 小玉 幸一 @ko-ichi-kodama

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