情動 (葛藤 1800字)
彼は、泣いたことがなかった。
いや、そういえば一度だけあったろうか。
小学生のころに行ったキャンプでのカレー作り。
その時の分担でたまねぎを切ることになり、強烈な刺激に涙したはずだ。
けれどそういった反射的な、言うなれば表面的な涙を除いては、確かに一度たりとも涙を流したことがなかった。
彼の年齢は十八。肉体的には既に立派な大人であり、精神的にも、周りと比べると成熟していた。
「なんだか大人びてるね」と言われることもままあった。
彼は普通に笑いもするし、普通に怒りもする。その点では友好関係において何ら問題は生じていなかったのだが、他人の悲しみを慰めるということだけはどうしてもできなかった。
心に傷がついて穴ぼこがあき、とめどなくやるせなくなってくる。
そういった心の動きがあることを頭では十分理解していたが、実体験としてそういった状態に陥ったことは一度もなかったのだ。
彼自身、そのことを長きにわたり不思議がり、やがて、呪うようになった。
彼は哀しむことをしらなかったから、ただ怒りにまかせて、自身を責め続けた。
そう、それは、三年くらい前のことだった。
***
受験も間近に迫った中学三年の冬。
彼は一人でいることを好み、友達というものにあまり執着しない性格であったが、そんな彼にも、気の合う友達がいた。
その友達と歩く帰り道。
なんだか神妙な気配を漂わせて、友達が口をひらいた。
「母さんが、死んだんだ」
話の内容は、そのようなものだった。
いつも明晰で、ユーモラスで、笑顔が印象的。
そんな友達の声に水っぽさが混じって、言葉がとぎれとぎれになっていく様子に、彼は戸惑うことしかできなかった。
そういった心の動きは理解できる。他にも多くの仲間がいる中で、なぜ彼にその話をしたのかということも、薄々気がついていた。
多分この友達は、彼から悲しみを乗り越えるヒントを得られないかと、
彼もまた、少し前に身近にいる大切な人を亡くしていた。
そのことを知っていたから、友達は繊細なことを打ち明けてきたのではないか。
しかし彼はどうすることもできず、「これから、どうすればいいだろうか」という問いに対し、ただただ困惑を返すことしかできなかった。
そして彼は、やはりそうなんだ、と自責の念に駆られた。
必死に涙をこらえ、けれどこらえきれずに目を赤くする友達と、少し前の自身の姿をどうしても重ねてしまう。
――なんて薄情な人間なのだろう。
彼にとって大切な人であったはずなのに、彼の頬を涙が伝うことは一度もなかった。
葬列に並んだ、大して面識もないであろう人々が泣いている姿を、彼は傍で眺めていた。
悲しいはずだ。強い痛みを抱えなければならないはずだった。姉がしたように縋りついてむせび泣くというのが本来あるべき人間の姿というものではないのか…………。
遺体と最後の面会をして、火葬されて、何かの手紙が読み上げられる中、彼はずっと、地に足がついていないような、不安感に
自分だけが人間の枠から外れてしまって除け者にされているような、疎外感を覚えた。
罪悪感が芽生えた。
結局のところ、彼は特に何を言ってやれるでもなく、友達と別れた。
「大丈夫だよ」とでも言えばよかっただろうか。
「君なら乗り越えていけるよ」と勇気づければよかったか。
「つらいよな」と寄り添えばよかったのだろうか。
あるいは、「そんなこと僕に訊くなよ!」と逆上でもしてみれば何かが変わっただろうか。
悲しむとは、どういうことなのだろう。それが解りさえすれば、すべてが上手くいくはずなのに。
***
彼はいまだ、悲しむということをよく知らない。
けれど、装うことはできるようになった。
人がどんなときに悲しみを覚えるのかということを勉強し、そういった場面に出くわしたときには、痛みを加えて無理やり涙をながした。
そして、そうするとなんとなくではあるが、だんだんと悲しみというものが解ってくるような気がした。
そうやって以前よりも人付き合いが上手くなると彼女ができて、それはけっこう、幸せなことに感じられた。
でもやはり、彼には「悲しい」が分からない。それを共有することもできない。
そういうときに、彼は強く、思い出すのだ。
――悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ。
いつだか読んだ言葉をよみがえらせて、彼は今日も、感情を学ぶ。
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