また巡る頃に (青春? 2800字)

 

 雨は夜から、とお天気お姉さんは言っていたはずだが、昼休み以降、どうも雲行きが怪しくなっていった。


 帰りのホームルームを迎えた今では、すっかり分厚くて重そうな鈍色の雲が空一面を覆っていて、いつザーザーと雨が降り出してもおかしくはなかった。


 折り畳み傘を常備しているわけでもなければ置き傘をしているわけでもなかったから、「最後に、重要な話がある」と担任が切り出した時には、心の内で盛大なため息を吐いた。


 僕と同じことを思っている人も少なからずいるようで、はぁとうな垂れて見せたり、せかせかと貧乏ゆすりをしたり、教室中が面倒くせぇと嘆いていた。


 しかし、「じゃあ、流水」という先生の呼びかけに呼応してすっと音もなく立ち上がった生徒を見て、気だるげな雰囲気は一転、どこか真面目なものに変わった。


 気がつけば僕も、イライラとした気持ちを鎮めていた。


 すいさつきさん。


 誰か友人と親しくしている姿を見たことはないけれど、暗い、という印象はまるでなかった。

 それは流水さんの涼しげな美貌がそうさせているのかもしれない。


 会話したことはおろか、一度もその名を口に出して呼んだことはないけれど、僕の中で強く印象付けられているらしい。


 「あー、皆にとってはかなり突然のことにはなるんだが、流水の要望もあり、今日伝えることになった」


 なにか保険をかけるような前置きに続いて、担任が言った。


 「実は、流水は今日が最後の登校日だったんだ。諸事情により、彼女は転校することになる」


 にわかに、教室内はざわめいた。

 

 涙を浮かべたり驚きを露にしたりするというよりも、「どうして今?」というような不思議がった声が多かった。


 ご多分にもれず僕もその一人であったが、それでも2割か3割くらい、隅っこのほうで残念がる気持ちが鎮座していた。


 けれど本当、どうして今なのだろう?


 学年が変わり、花曇りの季節を終え、もうじき梅雨に入ろうかというタイミング。

 ちょうど五月病にかかっている人もいるだろう。自分の心にわだかまっているのも、それなのかもしれない。


 ともあれ、やはり不自然だ。

 受験を控えたこの学年で転校だなんて。転校するにしても、普通、進級すると同時に移るものではなかろうか。

 それに、流水さんは去年の今頃、ここへ転入してきたばかりではなかったか。


 周りの声に耳を傾けてみると、なんだか腑に落ちた、とでもいうような会話がちらほら聞こえてきた。


 不意に、彼女と目が合う。


 授業中なんとはなしに流水さんの横顔を窺ったときは、手折たおれてしまいそうなほどに儚く、触れたら最後、その途端にしおれてしまうのではないかと思わせる繊細さを感じたが、正面に見ている彼女の雰囲気は、それとは大きく違っていた。


 特別そのような表情が浮かんでいるわけではないのだけど、挑発的で不敵な、力強い感じを受けた。


 その意外さに少し気圧けおされて、視線をさまよわせた。


 「短い間でしたが、ありがとうございました」


 言って、流水さんが楚々と頭を下げる。

 決して大きいとは言えないその声は、机や椅子や、前の人の頭など、そういった障害物なんてまるでないかのように、すっと侵入してきた。

 窓際最後列にいる僕の耳まで、深く響いた。


 クラスの中心人物となっている女子たちよりも低くて落ち着いた、大人びた声音。授業中何度か聞いたことはあったけれど、それ以上に極まって、美しいと思わされる。


 流水さんはゆったりと優雅に身を起こすと、優しい三日月を描くように目を細めて、小さく微笑んだ。


 多分、その姿に胸を高鳴らせたのは僕だけではなかったはずだ。


 一瞬、教室が静寂に包まれた気がした。


 流水さんの短い挨拶を終えて解散となると、クラスメイトがいつも以上に話しかけるということもなく、何か手続きがあるのか、彼女は担任とともにスクールバッグを提げて教室を出て行った。


 そういえば、と窓の外に目をやると、悪い予想通り、校庭はどんどんと黒く塗りつぶされていた。


 

***


 

 職員室で傘を貸し出しているという情報を三年目にして初めて知り、他の生徒に先を越されまいと急いで廊下を進んだ。


 外の重い匂いに呑まれてか、職員室はひっそりとしている。


 あまり訪れることがないため緊張していたが、なんの問題もなくすんなりと傘を手に入れることに成功して、家路についた。


 どうやら音沙汰のない忘れものをそのまま貸し出しているらしく、多少錆びていたり曲がっていたりするものも、雑然と箱に突っ込まれていた。

 急ぐ必要など全くなかったようだ。


 一応、顔をうろきょろさせもしたが、職員室で流水さんを見ることはできなかった。


 校門を出た途端に染み込んできた雨水を忌々いまいましく思う。帰るのも億劫になってくるなか、ぐしゅぐしゅするスニーカーで歩みを進めた。


 なんの変哲もない誰かさんのビニール傘は、食い破られるのを必死に耐えるかのようにその膜を波打たせている。


 いつもの通りを避けて、道を一本外れる。

 

 今車に水をひっかけられようものなら、足が止まってしまうに違いない。

 そんな惨めな思いをするのは御免だ。絶望なんて味わいたくないのだ。


 左へ顔を向けてみると、並木道が見えた。まっすぐ、先の方まで続いている。

 普段の帰路では建物に遮られているため、ここからも見えるだなんて知らなかった。なんだか新鮮な気分になる。これが雨でなければ。


 両側に幾本もの桜が植わった並木道はコンクリートだとかアスファルトで舗装されているわけではなく、石の混じった土が敷かれているだけだから、もうぐちゃぐちゃで酷いことになっているだろう。


 少し前までフリーマーケットやら何やらで賑わっていたことを思うと、変な感傷が湧いてくる。


 ふと、その中に、見覚えのある姿が視界に入った。遠く、そのうえ後ろ姿ではあるものの、それが誰であるかはっきりとわかる。


 吸い込まれていくようなこの感覚を引き起こさせるのは、流水さんに他ならなかった。


 何の変哲もないビニール傘をさす彼女は、とある桜の下に佇み、顔を上げているようだった。


 その表情は窺えないが、悲しんでいる背中には見えない。

 そこで、儚げでいて、けれど実のところ心の内に強いものを持った彼女の姿を思い浮かべてみると、上手くいった。


 流水さんはこちらに気づくこともなく、すぐに並木道を抜けるように歩き出した。

 傘を伝う水がヴェールのように彼女の顔を隠してしまっているけれど、たたえている表情には想像がついた。


 彼女が眺めていた桜は、他がもうすっかり散ってしまったというのに、まだ終わってなるものかとしぶとく花をつけていた。


 けれど、残り少ないそれらが落ちるのも時間の問題だろう。この大雨ではそう長いこと耐えられまい。

 

 それからもう一度、遠ざかっていく流水さんの背中を見た。


 高校進学に伴って親元を離れた僕には知る由もなかったが、訊くところによると、彼女は小さな頃から転校を繰り返しているらしい。


 どこか遠くに行くというのでもなく、周辺地域の学校を転々としているそうだ。


 「毎年、桜が散る頃になると転校するんだと」


 友人から伝え聞いた言葉を思い返し、なぜだか、僕の心は浮き立った。





 

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