大富豪(鬱 3200字)


 夢から覚醒してまぶたを開けると、高い天井が目に映る。


 もう三人は横たわることができる大きなベッドから降りて窓際にある紐を引っ張れば、壁一面を覆うカーテンがするすると畳まれていき、豊かな陽が部屋を包み込むように侵入してくる。


 大きく伸びをしてから、ダイニングへ向かう。


 私は、大金持ちだ。


 これは、「僕」や「俺」や「自分」などといった一人称を使っていないことからも分かるだろう。


 当然、この自宅は誰もが羨む豪邸であり、ダイニングに至るまでの廊下には知る人ぞ知るといった具合の絵画や壺が、調和を一切乱さない究極の配列をもって並んでいる。


 部屋数は、選りすぐりの使用人に与えているものも含めて三十三室。

 

 少ないと思われるかもしれないが、広々とした空間を好むため、その一室一室には軽くテニスを楽しめるくらいの余裕がある。


 世界的に有名な建築家との懊悩おうのうの末にできた洗練された構造をしており、地下にあるシアタールームやビリヤード場などを除く地上階の部屋には、満遍なく陽が入るようになっている。


 辺りでは一番の高地に位置し、眼下の坂に沿って立ち並ぶ家々と、その先に見える海の景色は、なかなか見事なものだ。


 さらに言えば、この自宅ほどではないにしろ、美邸と呼ぶにふさわしい別荘を山に一つ、海沿いに二つ、海外に三つ所有している。

 まあ、そこに訪れるのは年に一度あるかないかといったところなのだが。


 ここまで説明すれば、私がどれだけ成功し他者から憧憬しょうけいの念を集めているかということが、凡愚な方々にも伝わったことだろう。


 さてと。では、食事といこう。


 ダイニングへ入ると、使用人が絶妙な存在感をもって佇んでいる。その隣にはシェフが静かに立ち並び、長いテーブルにはちょうど今できたばかりのプレートが所狭しと載っていた。


 軽く朝の挨拶を交わして使用人が引いた椅子に腰をかける。

 シェフの朗々とした説明を適当に聞き流しながら、どんどんとそれらを胃袋に詰め込んでいく。


 私は毎朝かなり空腹を感じるたちなので、朝食はたらふく食べる。


 ベーコンエッグにクリームパスタ、味直しにアサリのサラダ。一口大に切られた牛肉のステーキをぽんぽんと口に運んで、ミネストローネを流し込む。その他、オムライスにグラタンにハンバーグにシチューにハヤシライス。

 

 私は知識量も優れているため、健康的な体を維持するのに最適な糖質・たんぱく質・脂質・ビタミン・ミネラルを正確に把握し、またあらゆる面において効率的な摂取の順番まで深く理解しているが、それらは全て無視して、好きなように好きなだけ食べることにしている。


 というのも、私は大金持ちで頭脳明晰なだけでなく、身体機能においても優れているらしく、いくら朝食を食べようとも肥えることはないし、体調を崩すこともないのだ。


 「ふふふっ。今日もたくさん食べているのね」


 「ああ。朝はどうも腹が減るんだ」


 いじらしいほどに可愛らしい微笑みを湛え、人を安心させるために生まれてきたかのような声を発してやって来たのは、私の妻である。


 端的に言って、これ以上はないと断言できるほどに完璧な女性である。


 何でもそつなくこなしてしまう完璧超人、というわけではない。確かに彼女は大抵のことは平均以上にこなしてしまうが、それ以外のこと――車の運転や地図を読むなどといった、私が特に自慢していること――に関しては、とことん苦手としていた。


 それはもう絶望的なほどにセンスがなく、そこまで含めて、彼女は完璧なのである。


 「おはよう。パパ、ママ」


 「ああ、おはよう」「ええ、おはよう」


 次いで寝ぼけ眼をこすりながらやって来たのは、言わずもがな、娘である。


 娘もまた、妻と同様完璧な子供だ。


 私は当然人格者であるから、たとえ生まれてきた子供が息子であっても、あるいは奇形があっても、今と変わらず真摯に愛を注いでいただろう。

 

 ただとにかく、愛くるしく鳴きながら生まれてきた娘は、寵愛されるべくして存在しているかのような天使と見紛みまがうばかりの可憐さをもち、成長してもそこに陰りは全く見られない。


 さらに外見だけにとどまらず、内面までもが素晴らしい。思いやりをよくもっていて、気遣いができる。

 朝に弱いところがあり、今も寝癖を少しつけているが、それもまた、愛すべきところだ。


 そして、天才や神童と呼ばれるには至らない程度に優秀であった。多分、私を最も歓喜させたのは、この点だろう。


 彼女は超進学校よりかは一つレベルの落ちる、そこそこの学校に通い、その学校において常にトップの成績を収めている。つまるところ、彼女は嫉妬や羨望や復讐心といった醜悪な感情を私に抱かせることなく、私の自尊心を傷つけたり劣等感をこじったりしない程度に優秀なのであった。


 故に、娘は、私にただただ幸福を与えてくれる。


 妻にしろ娘にしろ、私はとても恵まれていると思う。これが最高の幸せというものなのだろう。


 日々生きていることに感謝している。


 「なあ、今日はドライブにでも行こうか?」


 ちゃかちゃかと朝食を摂る妻と娘へ、私は提案した。


 「ええ、いいわね。最高のアイデアだわ」「うん。私も楽しみ」


 「よし。それじゃあ、お昼前に出ることにしようか」


 「ええ」「うん」


 打てば響くような快い返事を受け、私は満足した。


 食後のデザートとして、チーズやナッツに各種フルーツ。絶品ショートケーキをいただく。

 最後にコーヒーを流して、ダイニングを後にした。


 一度自室に戻ってからのトランクケースを持ってから、広大な家の敷地をしばらく歩く。

 いつものようにポストを開けると、今日も当たり前のように幾つもの札束が詰まっていた。


 今や起床後の歯磨きや洗顔や朝食といった行動と同じように習慣化した動作でぞんざいに札束をつかみ取り、これまたぞんざいにケースへ放り込む。


 はあ、とその重さに辟易へきえきとして躊躇なくため息を零しながら、右に左に持つ手を交互に変えてガレージへ向かう。


 第一軍の車たちを収納しているガレージへ入ると、いつものように、背の低いスマートな高級車たちが主を出迎えてくれた。


 展示場もかくやといった広々としたガレージの壁際に並ぶ物置の扉を開いて、トランクの留め金をはずしてひっくり返す。


 すでに物置の中は札束の海となっている。また新たな物置をこさえねばならないらしい。


 ポストに大量の札束が投函され始め、今日で四千九百七十二日を数えるが、もうだいぶ前から、到底消費しきれないほどの紙幣が溜まっていた。


 なぜ毎朝ポストに大量の札束が入っているのか、その理由わけは知らない。誰が入れているのか。いつ入れているのか。私は未だ何も知らないが、その恩恵を与えてくださっているのであろう神に感謝し――とはいえ最近は少し辟易としてきてしまったが――この世界を深く愛している。


 

 太陽が南中しかかった頃、カジュアルな服装に身を包んだ妻と娘がガレージにやって来た。


 助手席に妻が、後部座席に娘が乗ったのを確認して、家を出発した。


 初夏の陽気の下、長くなだらかに続く幅広の道を降りてゆくのは気持ちがいい。開けた窓から緩やかに吹きあがってくる海風を肌で感じながら、妻と娘の何気ない会話を耳に入れる。


 なんと幸せなことだろう。


 しかしそれはそれとして、私には一つ、とても気がかりなことがある。

 そう、これは本当に不思議なことであるのだが、私には、お昼以降の記憶がまるっきりないのである。


 これまで云十年と生きてきているというのに、これほど不思議なことは無いだろう。


 にしても、眠くなってきたなあ。

 

 ハンドルを握りながら、あらがいがたい睡魔に強制され、瞼が下がっていく。


 「ねえ! あなた! 前!」「パパ!」


 愛する妻と娘の声が聞こえた気がする。



*****



 はえがたかり、百足むかでが這う六畳間の部屋。


 そこには、枯れ枝のような物体が転がっている。


 それは、もぞもぞと、微かに動いている。どうやら、人間であるらしい。


 その隣で暮らす、おすそ分けをしているというお節介焼きの住人が語った。


 「あそこの人、すっかり痩せ細って飢え死にしそうだっていうのに、いっつもこう言うのよ。『今はお腹いっぱいなんだ』って」


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