~疾走~記憶の徒競走
青キング(Aoking)
~疾走~記憶の徒競走
夏のとある昼下がりのテナントビルの一室。
顎先から滴り落ちそうな緊張による脂汗を、前川博信はTシャツの袖で強く拭った。
彼の前にスチールテーブルに一枚のプリントが、白地を見せて伏せられている。
その紙に汗を落とすわけにはいかなかった。
進行役の男性が、記憶開始まで三十秒だと知らせた。
「ふう」
前川は肺の底から出すような深い息を吐いた。
彼の頭の中で、00から99までの二桁の数字と、それに該当するイメージ達が、目まぐるしく浮かび上がってくる。
刻々と三十秒のカウントダウンが削られていく。
前川の脳内に行き慣れた朝の通勤の光景と道程が出現する。
5、4、3、2、1……スタート。
進行役の男性が記憶時間の開始を告げる。
スタックタイマの両端を押すと、タイム計測が進み始める。
伏せられていたプリントを、乱暴なぐらいに表返した。
彼の周囲からも同様に、紙をめくる音が衣擦れの如く聞こえた。
カウントダウンが尽きると、一歩目を踏み出した。
プリントには100桁の数字が配列されている。
前川は最初の四桁に指を添えた。
1864。
一歩目は、自宅のドア。
自宅のドアの前に『いばら』が繁茂し、中から『虫』が飛び出してくる。
次の四桁に彼の指は移動する。
脳内の散歩道で二歩目を踏み出す。
3497。
二歩目は自宅傍の電柱。
電柱の前に『刺身』が放置されてあり、その上に『クナイ』が降ってきて突き立つ。
次の四桁。
三歩目は少し飛んで突き当りの塀。
4556
塀の上で『仕事』用のパソコンが設置されていて、『殺された』人の鮮血が付着した。
散歩のようにゆっくりと歩み出した前川は、徐々に増速を始めた。
ギアがシフトアップする。
次。
1578。
横断歩道に『ジュゴン』がいて、『縄』で縛られる。
次。
6890。
信号機の前で『ロバ』が『クオカード』を食む。
さらに一段階、シフトアップ。
4632。
交番の前に置かれた『城』のレプリカから『サニーレタス』が転がり出る。
3167。
コンビニの前で、のしのしと跋扈している『サイ』の上にサッカーボールでドリブルしながら現れた『ロナウド』が跨る。
4378。
バス停留所の標識の前で人間大の『シーサー』が置かれ、口から『なばな』を吐き出した。
5598。
サインポールから『心』臓が降ってくると『ク〇パ』が火を噴いて燃やした。
前川の歩度は、ついにトップギアに入った。
3689、ケーキ屋の前、で『ミロ』のパッケージが『獏』に食べられる。
4752、曲がり角、『竹刀』で『小錦』を打擲。
5601、駐車停止の標識、『ゴム』紐の上に『いちじく』を落とす。
6937、クリニックの看板、金髪ロン毛の『ロック』アーティストが『サウナ』室のドアを開ける。
5411、マンションのガレージ、『ゴシゴシ』と磨く白衣の『獣医』
2324、ゴミ捨て場、『兄さん』が日の落ちそうな『西』を指さす。」
1666、公園の入り口、『遺録』を開いたら『ろくろ』が出てきた。
1430、下り坂の分岐、『石』に『竿』を差す。
2565、踏切、芸人に『ツッコまれた』袴姿の『婿』が後頭に手をやってはにかむ。
1009、自動販売機、『糸』を『きゅうり』に巻き付ける。
4151、カーブミラー、『椎茸』の上で『コイン』が回る。
7382、駐輪場、『波』にたゆたう『埴輪』。
8744、駅の昇降階段前、『花』に『獅子舞』が食いつく。
残りは十二桁。
あと少しだ。
終わりの見えてきた前川の歩度は、安堵を感じて次第に緩んだ。
7642。
駅の券売機、『ナムル』を鎌を持った『死神』が食べている。
それでも余計な物事を考える暇は、ない。
前川は自分を叱咤し、最後のスパートをかける。
4929、『四駆』『肉』。
0340、『サンマ』『塩』。
『塩』を認めた瞬間、彼の腕がタイマに伸びる。
開始時と同じく、タイマの両端を押し込んで計測を止めた。
直後、前川は道程の最後の二カ所を思い返す。
改札機の前、『四駆』の自動車のドアを開けると骨付き『肉』が座席に放置してあった。
駅のホーム、今にも飛び跳ねそうな『サンマ』に『塩』を降りかける。
忘れてしまう前に、場所に貼り付け、ストーリーを組み立てた。
ルールとして記憶時間が終了するまで回答は出来ない。
記憶時間は、まだ四分以上残している。
前川は残し時間を、無為には使わない。
道程の最初の地点まで引き返しながら、記憶を辿っていく。
時間を掛けながら、じっくりと思い出していった。どの地点にも靄のような曖昧模糊としたイメージはなく、明瞭にストーリーが始動した。
大丈夫、全て覚えている。
前川は心の底から確信が湧いてくるのを感じた。
確信を得たことで少しだけ気が抜けると、彼の目はタイマの中央にある液晶画面に向けられる。
29:98。
そこに現れている数字を見て、口元が勝手にニヤケる。
自己最速の記録だ。ついに三十秒を切った。
押さえきれない期待と興奮が、身体の芯から滲み出てくるようだった。
安心するのはまだ早い、と理性では知っていたが、日々のトレーニングが回顧されて、三十秒を切れずに独りで辛酸を舐めていた悔しさは、刻印のように銘じられている。
本番でその刻印を消すことが出来るとは、思いにも寄らなかった。
悔しい日々が脳裏で思い返されている間に、記憶時間の終了は近づいていった。
そして終了が告げられる。
前川の周囲からそれぞれの悲喜の声が耳に入ってくる。
ペアを組んで回答の手伝いをするアビーターの男性が、前川の座る席に近寄ってくる。
男性は前川に目配せした。
男性の目にはどうだった、と前川への期待が窺えた。
前川は確信ある目を男性に返す。
100桁のまっさらな枠とタイムを記入する欄、選手名の欄が印刷された回答用のプリントを、男性が前川の腕の前に置いた。
前川の頭の中で自宅のドアが浮かび、イメージ達が動き出す。
「1、8、6、4、3、4、9、7、4、5、5、6……」
一桁ずつ口頭で回答していく。
いろんな地点で奇想天外なストーリーが再生されて、数字の回答欄が埋まっていった。
地点の一つ一つでイメージは数字に置き換えられ、ついに二十五番目の地点に辿り着く。駅のホームで『サンマ』に『塩』が降りかかった。
「……0、3、4,0」
『塩』のイメージを数字に直して、前川は回答を終える。
前川の回答の通り記入していた男性は、記憶時間終了後に伏せられたプリントを答え合わせのためにめくった。すると驚愕に口を開ける。
記憶用のプリントと回答用のプリントの数列は、見事に一致していた。
「成功だ!」
思わずといった感じで嘆声を漏らした。
男性は興奮が乗り移った様子で、タイムを記録する欄に前川の計測タイムにペンを走らせた。
「29秒98っと。羨ましい好タイムだな」
祝い事をからかうような口調で、前川の記録を口に出す。
その記録を聞いてか、前川の周囲から称える視線が集まった。
「お前、口に出して言うのやめろよ。恥ずかしいだろ」
前川は周囲の視線が面映ゆくなって、男性に言葉を慎むよう頼んだ。
それでも彼の顔から満更でもない気持ちが、ありありと滲み出ている。
前川に対する称賛を聞きつけたのか、開始と終了の合図をしていた進行役の男性が前川のテーブルに歩み寄ってきた。
進行役は目に期待を湛えて、前川に話しかける。
「前川さん、記録はどうでした?」
「なんか凄いらしいです」
はにかんで答える。
ペアの男性が進行役に回答のプリントを見せた、
進行役はプリントに書かれた記録を目にするなり、おおおと歓声を上げた。
「日本記録更新じゃないか!」
「えっ?」
前川は何の話をしてるんだ、という間抜けな表情をする。
事の偉大さに気付いていない前川に、進行役が問う眼差しを向けた。
「前川さん、数字百桁の日本記録、何秒か覚えてますか?」
「ええっと……33秒、でしたっけ?」
曖昧な記録をほじくりだして、前川は問い返すように答えた。
進行役は呆れた顔で首を横に振る。
「何を言ってるんだい。それはトランプ記憶のタイムだよ。数字の日本記録は30秒台。つまりは前川君は日本最速の記録を叩き出したんだよ」
「……はあ」
嬉しそうに言う進行役の顔を、実感のない様子でぼんやりと見つめた。
だが時間が経つにつれて、進行役の言葉が理解できてくると、途端に目玉が飛び出そうなほどに程に大きく眼孔が開かれた。
身内で納まりきらない歓喜が、高揚として表情に現れる。
「俺が日本記録。あああ、これは夢か?」
前川は自分の頬をつねってみた。
がしかし、目が醒める感覚はなく、これが現実だと確信する。
彼が自分の達成したことに気が付き始めた時、周囲から彼へ拍手が送られ、やがて部屋全体が手を打つ拍子の音で満たされた。
拍手に思わず、道程を走り切った前川は日本一という実感で口元が綻ぶ。
彼の頭の中でゴールテープを切って走り抜けるイメージが唐突に浮かび上がり、何故だかイメージは嬉し涙で滲んだ。
~疾走~記憶の徒競走 青キング(Aoking) @112428
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