第3話
強く前に押し出された反動で尾藤 悠馬は目を覚ました。
ずれた眼鏡を元に戻し、体勢を立て直す様にして隣のキャリーケースに手を伸ばす。
しかし伸ばされた彼の右手は何も掴まないまま、背もたれを撫でた。
一瞬で覚醒した。目の奥に残っていた鈍痛が一気に消える。
盗まれたか、反射的に悠馬は立ち上がって通路を覗くと男が一人、しゃがみ込んでいた。
泥棒か、悠馬は咄嗟にそう思った。
しかし、男はしゃがんでいると言うよりも、思わず躓いて体勢を崩したように見えた。
目の前には自分の赤いキャリーケースが転がっている。
男には目もくれず、悠馬はケースへ手を伸ばし、座席へ引き戻した。
おおよそ座席にぶつかり、体勢を崩したのだろう。その反動で自分のキャリーケースも落下したに違いない。
焦った姿を見られてはいないかと言う心配が出来るほど、落ち着きを取り戻した悠馬は、再び座席に身を沈めると窓の外をチラッと見やった。
電車が止まっていた。
先ほどの強い衝撃は、列車が急停車したことによる揺れだったのだ。
沈んだ車掌の声が、線路上に侵入した大木の影響によって列車が一時停車中であることを何度も謝罪している。
周りの乗客のこぼす、不満や愚痴を聞きながら悠馬は目をつぶりながら体勢を整えた。
自分には無関係― 少なくともこの瞬間悠馬はそう思っていた。
森田は派手に体勢を崩し、通路へ倒れるような羽目になった。
床に体を打たなかったのは幸いだったが、代わりに背中と腰に重い物が続けて二回圧し掛かってきたことによる痛みがあった。
森田が腰を摩りながら立ち上がると、痛みの主が分かった。
急停車の衝撃で荷物棚が開き、載せていたバッグやその他の荷物が吐き出されたのだ。
散乱した荷物の中に自分の赤いキャリーケースを見止める。
ケースは座席の下を滑ったのか、2つ向こうの座席下に落ちていた。
中には取材用のそれなりにいいカメラが入っている。森田は無意識にキャリーケースを持ち上げるとほこりを払い、中を確認する為にジッパーへ手を掛けた。
と、ズボンのポケットに入っていたiPhoneが唸る様に振動を始めた。
着信だ。森田はジッパーへかけていた手をそのままポケットへ突っ込んでスマホを取り出す。
画面には編集長の名前。
大きくため息を吐いた森田は胸ポケットへスマホを突っ込むと手慣れた様子で棚へキャリーケースを戻し、車両から出て行った。
小さい個室の中、それをここで平らげてしまうかどうか思案するまで悠馬は数十分を要していた。
無関係を決め込んでいた新幹線の停車だったが、復旧作業による運転の再開が未定だと言うアナウンスが彼の不安を掻き立てた。
不安の主は彼の隣にあったキャリーケース。その中のタッパー。タッパーの中にぎっしりと詰まったそれだった。
冷凍はいかほど持つのか。悠馬には経験が無い為、正確な時間は分からない。だが、女は「まあ大丈夫」と言った。つまり、福岡と東京を行き来する時間はかなりギリギリだということだろう。
このまま新幹線が数時間停車すれば、冷凍していた大便は大きく溶けだしその臭いを車内へ撒き散らし始める。悠馬にとっては食欲をそそる薫りに違いはないが、世の多くの一般人にとってその臭いは不快をもたらす。
ケースの中のそれは尋常ではない量だ。
確実にこのままでは悪臭を吐き出し始める。
そうすれば自分はどうなるか。
少し考えを進めると口の中の水分が飛んで額に汗が走った。
不安が頭を支配した時にはキャリーケースを持ったまま、トイレへ走っていた。
実際の時間ではほんの数十分だったのだろうが、悠馬は人生でまたとないほどに思案したつもりだった。幾つもの作戦を考え、それによって起こるリスクも考えた。
自宅での楽しみは確実にゼロになる。加えて一㎏の糞を一度に食べきることが出来るか、悠馬には不安だった。
消費できなかった糞は残念ながらトイレへ流してしまわなければならなくなる。
それは男として糞をくれた女性へ申し訳が無い。
だが。
壁に立てかけたキャリーケースを睨んだ悠馬は意を決し、ジッパーへ手を掛け開いた。
背に腹は代えられない。一度の快楽の為に人生を棒に振るのはあまりにも馬鹿げている。
ここで上手くやり過ごせば、今後何度だって糞を食すことが出来る。
それに少なからず、彼女のお土産を食すことは出来るのだ。
いざ食べてしまおうと心を決めると一瞬にして不安が興奮へ変わった。
下半身が熱くなり、固くなるのを感じる。鏡にはニヤ突いただらしない顔が映っていた。
キャリーケースを床へ大きく開いた彼がどんな感情を抱いたか。
感情は無かったのかもしれない。
意味不明な状況を処理することに勢一杯の脳は、感情を持てるほどの余裕が無かった。
床に広げられたケースの中には全く見覚えのない衣類と二つの大きなカメラと三脚。
自分のケースではない。確実にそうだ。
脳が事実を処理しきれ無くなり、猛烈な吐き気が彼を襲った。
便器へ吐瀉する。
口に残った胃液が焦りと不安を倍増させた。
便器へ顔を沈めながら必死に現状を理解しようと、何度か床のケースへ目をやる。
このキャリーケースが自分の物ではないことは確実だ。
となると、何処かで他人のキャリーケースと入れ替わった可能性が高い。
キャリーケースの中には自分が尾藤 悠馬であることを示す様々な日用品が詰まっている。誰でも一瞬でこれが有名イケメン俳優の尾藤悠馬の物だと分かるだろう。
となると同じキャリーケースの中に入った一㎏の大便も尾藤悠馬のものということになる。
再び沸き上がった吐き気で便器へ吐瀉した。
どこで入れ替わったのか―
溜まった胃液を再び吐き出しながら、気づいた。
先ほどの急停車の時だ。
恐らくあの時、同じキャリーケースを持った人間が近くにおり、床に落とした拍子に拾い間違えたのだ。
あまりにも突飛で幼稚な推理だったが今の彼はそれしか考えることが出来なかった。
口に付いた吐瀉物を拭うとケースを畳み、立ち上がった。
今すぐキャリーケースを取り戻さなくてはならない。
開けられてしまえば、人生が一瞬でお釈迦になってしまうのだ。
つづく
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