第4話

 トイレから出ると車内が騒がしかった。


 依然として新幹線は動いていないが人の動きがある。

 開封されたケースと群衆の前へ披露された巨大な大便が頭をよぎった。

 車内へ戻ろうとする悠馬を遮るようにして、乗務員が姿を現したのはその時であった。


「あれ、まだ人が……。すみません、復旧の見通しが付きませんので、最寄りの駅まで歩いてもらう事になりました。グリーン車の方は優先的に降車していただいたのですが……とりあえず、指示に従って降車してください」

 乗務員はそう言うと悠馬をドアの傍へ誘導し、そこへ立てかけられた梯子を使って降りるよう指示する。


 線路上には大勢の乗客が列をなし、低速で移動し続けていた。

 遥か彼方へ続く長蛇の列に、悠馬の頭を絶望が掠めた。

 乗務員の話が本当ならば、先ほどグリーン車に乗っていた連中は彼方の駅へ続く長蛇の先頭にいることとなる。


 悠馬は大きく息を吸うとキャリーケースを掴み前進し始めた。

 だらだらと動く列を次から次へと追い抜いていく。

 線路脇の道はおおよそ人が歩くことを想定して作られているとは言えず、あまりにも進み辛い。

 キャリーケースを引いていればなおのことだった。彼の額には先ほどとは違う汗が溢れ始めていた。

 必死に前進する姿は列を進む他の乗客から異様に見えたかもしれなかったが、赤いキャリーケースを索敵する彼の目にそんなことを気にする余裕はなかった。

 

 列の先頭がハッキリと見えてくるころには、その向こうに駅が見え始めていた。

 駅に辿り着いてしまえば捜索は今以上に困難を極める。何としてでも探さねばと言う悠馬の煮えたぎるように熱い目が『』を確かに捉えていた。


 赤いボディに白いライン。自分と同じキャリーケースだ。

 数十メートルほど先にそれは確かにあった。

 見間違いかと何度も目を擦ったがそれは確かに一人の男の手によって引きずられていた。

 声を掛け引き留めようと悠馬は掛けていたマスクを外した。


 しかし。


「ほら、やっぱりそうよ! 尾藤悠馬だわッ!」

 声をあげたのは悠馬ではなく、列をなしている乗客だった。

 それはしゃがれた女性の声だった。

 ふっと、声へ視線を投げる。

 数人の中年女性がこちらを見ていた。



 ケースの捜索に必死になるあまり、自分の立場をすっかり忘れていた。

 しまった。

 そう思った時には既に時は遅い。

「きゃあぁぁぁぁぁッ!」

 耳を劈くような歓喜の声。いや、悠馬には悲鳴に聞こえた。

 その悲鳴で周りの乗客も一斉にこちらを見た。


「尾藤悠馬か?」

 人だかりは数人では済まない規模へ一瞬で変貌する。


 真っ直ぐ一列で進んでいた列は乱れ、悠馬を取り囲み始めた。

 片手で握ったマスクをグッと握りつぶしながらたじろぎ後退する。

「旅行? プライベート?」「え、マジで尾藤悠馬!?」「ファンなんです!」

「写真―」「サイン―」「握手―」

 波のように押し寄せる歓声。


「いや……あの……」

 自分の声も喧騒に押しつぶされ全く耳へ届いてはいない。

「すみません、困ります。それに僕は……」

「いいでしょサインぐらい」「ねぇ、プライベートなんでしょ?」「どこ行ってたの?」

 

「だから僕は………」

「私ファンなのよ」「映画観たよ!」「握手―」


 こめかみの血管がぴく付いた。

 鈍い痛みが頭に走った。

 悠馬は俯いて舌打ちをする。


「だから………僕は尾藤悠馬じゃありませんッ!」

 無論、役者が本気で出した声量である。その場は一瞬で静まった。

 こんな嘘が果たして通用するのか、今の彼にはそんなことはどうでもよかった。この場をいなして前進しなければならないのだ。

「いや…でも……」

「黙れッ! 困るんだよッ! そういうのッ!」

 ぼそっと呟く女性へ止めを刺す様に叫ぶと、女性の顔はスッとこわばった。




 響き渡った怒号で森田が振り返ると、尾藤悠馬が取り囲んだファンへ怒りの声を上げているのが見えた。

 何があったのかは全く分からない。しかしこの状況は彼を高揚させた、有名俳優が一般人に向かって怒声を上げている。

 編集長からの電話が蘇って来る。

 今はどんなことであれ、ネタが欲しい状況。

垂涎のネタが目の前にあるのだ。森田はすぐさまスマホを取り出し、ムービーを回し始める。画面の向こうでは尾藤悠馬がしきりに迫る野次馬を怒鳴りつけ、一刻も早く群れの中から脱そうとしていた。


 有名人と言う人種は往々にしてプライドが高い。人気商売なのだから一般人へ媚びを振りまき、八方美人であれば幾分マシにもかかわらず、彼らは自分を安売りすることを拒むのだ。森田は鼻を片手でかきながらニヤニヤと笑った。


 尾藤悠馬は群衆を掻き分けるようにして進み、自分達がいる列の先頭へ進んでくる。

 顔を上げた尾藤の顔が画面に映った。

 画面越しに彼の眼球はこちらを凝視している。

 スマホの画面から顔を上げた森田は彼と視線がぶつかった。

 確実にお互いがお互いを認識する。

 森田は直感した。

 自分が記者だとばれた。

「すみませんッ! そこのッ!」

 次の瞬間には尾藤は確実に森田を指さし叫んでいた。


 うなじがキュッとこわばった。

 電源も切らず、森田は持っていたスマホをポケットへねじ込みながら動揺した。

 後退しながら辺りを見回す。

 前方の列は既に駅へ辿り着き、ホームを介して駅の中へ移動している。


 寸秒の間に彼の中でするべきことが決まった。

 キャリーケースの取っ手を掴むと、右足だけを後ろへ下げ体勢を構えた。


「そこの赤いキャリーケースの方ッ! 待って下さいッ!」

 尾藤の言葉を合図にして森田は身をひるがえし、駆けだした。

 不安は的中だった。このままでは自分が掴んだ記事のネタは没になる。


 自分を捕まえた尾藤は直ぐに事務所へ連絡し、このネタを表へ出さぬ様に動くだろう。

 森田は線路沿いを全速力で疾走した。

 重量のあるキャリーケースを捨ててしまいたかったが中には数十万するカメラが二つも入っている。無為に捨てられるほどまだ彼に焦りはなかった。


 駅のホームまで走り付いた彼はキャリーケースをホームへ押し上げると両手を軸にして自身の身体を引き上げる。

 引き上げながら後方を確認すると追ってくる尾藤の姿があった。

 口は何かを叫んでいるのだが全く聞こえない。

 

 構内へ入った森田は人ごみを掻き分け走った。

 無駄足だった二日間の遠征を全てド返しするチャンスなのだ。ここで諦めるわけにはいかない。記者としても人間としても引き下がっては終わりだ。


 重いケースを抱え直すと改札口へ走る。

 大勢の人間が全力疾走する大人二人を訝しげな眼で睨んだ。

 三枚重ねになった切符を流し込むとドアが開くのも待たずに駆け抜けた。

 いまだ後方に追手が迫っているのが反射したガラス窓で確認できた。

 息が上がり、急激な負荷を受けた肺が潰される様に痛む。

 

 駅を出るとロータリーが広がっていた。

 脱出の足となるタクシーを探した森田だったが、非情にも今まさにその最後の一台が駅前を出発していった所であった。

 声ともならない唸りを上げて駅前を走り続ける。

 脳を活性化させるはずの酸素は全て筋肉を動かし続けることに使われ、タクシー以外の手段を考えることが出来ない。

 必死に目を動かし、タクシーを探す。

 

「待てッ!」

 後ろから掛かる声が明らかに近い。振り返ろうかと考えたがそれによって歩みが遅くなる可能性がある。

 逃げねば。なんとしても。


 ロータリーは広く、障害物も無い。

 逃げ切る為には単純な速度の上昇が必要だ。そしてその為には。

 両手に抱えた巨大で鈍重なケースが圧倒的に邪魔であった。

 迷わなかった。動画はスマホの中にあるのだ。

 森田は走りながらキャリーケースを大きく後方へ向かって放り投げた。

 

 地面へ激突し、アスファルトの上を滑っていく音が聞こえた。

 

 一気に軽くなった体で再びタクシーを探す。

 ロータリーを挟んで向かいの道路脇にタクシーらしきものが停車しているのを発見した。

 勝利を確信した森田は最後に哀れな男を一目見てやろうと振り返った。

 ケースを投げつけたことが功を奏したのか尾藤との距離は確実に離れていた。

 転がったキャリーケースの前に立ち尽くし、息を切らせた尾藤。


 華やかな有名人も少しの過ちが一生の後悔を招くのだ。

 少しの出来心、それが命取りになる。

 頭の中では見出しが浮かび始めていた。

』『―――』

 

つづく

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