最終章 いつかは帰らなければいけない場所

「わたしね、ずっと思っていたの。わたしが空の美しさに見とれている時に誰も空を気に掛けないのは、わたしに見えている空と、他の人に見えている空が違うからなのかもしれないって。――だから、もしかしたら亜衣ちゃんの見えている空も、わたしとは違っているのかもしれないって」

 枯木立の木の根元で、亜衣ちゃんとわたしは、互いにもたれかかるように座っていた。

 傷付いた指先はじくじくと痛んだが、熱いくらいの互いの体温が心地よかった。

「――瑞葉ちゃん」

 亜衣ちゃんの空気が揺れた。

「あのね、三月に、あたしのお父さん……、死んだの」

「おじさんが? どうして」

「……自殺、したの」

「え…?」

「理由は、知らない。誰も、教えてくれなかったから……。でもね、みんなが言うの。あいつは最低だって。死んで当然だって。死んで済むと思うなって! お父さんと毎週ゴルフに行ってた人達がだよ? うちにお土産を持ってきて、お父さんのこと褒めてた人達がだよ? みんな、嘘だったんだ……!」

 わたしは亜衣ちゃんに掛ける言葉を見つけることが出来ず、少しでも亜衣ちゃんの気持ちが伝わってくるように、そして、言葉に出来ないわたしの亜衣ちゃんへの気持ちが伝わるように、更に近くへと肌を寄せた。

「今、親戚の家に住んでるんだけど、みんな、ひどいの。お父さんの悪口ばかり。気に食わないことがあると、『お前は父親似だから』って。学校はさあ、なんか方言がすごくって、みんな何言ってるのか全然分からないよ。すごい田舎だから、もう小さい頃からトモダチカンケイ出来上がってて、内輪で盛り上がっているような感じだし。――こどもはね、世界が狭いんだよ。家に居場所がなくって、学校にも居場所がなかったら、どこにも行く所がないじゃん」

 涙を出し切った亜衣ちゃんは、乾いたように笑った。

「――ねえ、亜衣ちゃん。手紙、書いてよ。そばにはいられないけど、それくらいしか出来ないけど、話、聞くことくらいしか出来ないけど、でも」

「瑞葉ちゃんのお母さん、あたしのこと嫌いでしょ。手紙なんて届けたら瑞葉ちゃんまでとばっちり食うよ」

 うちの母親まで亜衣ちゃんを直接傷つけていたことを知って、母親への怒りが増し、何も知らなかった自分自身にも腹が立った。

「わたしが、お母さんから亜衣ちゃんを守るから――それじゃあ、駄目かな。わたしは亜衣ちゃんを好きなんだもん」

 亜衣ちゃんがわたしを見て微笑む。

 わたしも亜衣ちゃんを見て、自然と微笑んだ。

「帰ろう」

「うん」




 帰ろうと思ったところで帰り道を知っているわけでもなく、どうしていいのか分からずに、わたし達は取り敢えず年長者を見た。

 わたし達の視線を感じた双葉さんは、腕を組んで堅く目を瞑って考える動作をした。

「いや、知らない訳じゃないんだ。ただ……。説明が難しいな」

 双葉さんは、悩むように頭をくしゃくしゃと掻いた。

「この世界とお前達の世界は物理的に繋がっている訳ではないんだ。確かにここへ来る時には扉を使ったんだろうが、あの扉は象徴に過ぎない。――分からないよな?」

 右隣で亜衣ちゃん、左隣でモミュがうんうんと頷いた。

「生身の人間が簡単に死者の世界に入れたら危険だし、その逆も同じだ。それは分かるな? ――だからあちらとこちらを繋ぐ特別な力を持った人間が、出入り口となるような空間の歪みをあの扉に集約して、管理しているんだ」

「つまり、どうしたらいいの?」

 亜衣ちゃんが難しい顔で質問した。

「つまり、その特別な力を持った人間が、お前達を元の世界に帰すことが出来るということだ。どうせあいつのことだから、お前達が扉を使ったことに気付いてるだろうしな」

 ふう、と溜め息を吐いた。

「まあ、悪い奴じゃないよ」

 複雑な顔でわたしを見た。

「――お前達が帰り道だと思った道すべてが帰り道だ。どの道でもいい。この道でも。その代わり、一度帰り道だと決めて進み始めたら、絶対に振り返るな。振り返ったら二度とは戻れない。それどころか、地獄の亡者に地獄に引き擦り込まれることになる」

 少し怖くなって亜衣ちゃんの方を見ると、亜衣ちゃんもわたしを見ていた。

 自然と互いに手を繋ぎ、確かめるように目で頷いた。

 だけど、わたしには引っかかることが一つある。

「亜衣ちゃんは、呼ばれてこの世界に来たって言ってたよね。誰なの? その人にはもう会ったの?」

 ふ、と力の抜けたような表情をした亜衣ちゃんは、

「呼んでおいていないなんてどういうつもりなんだろ。本当に勝手なんだから」

と、呟くように言った。

「帰ろう、瑞葉ちゃん。あたし、帰りたいと思っているうちに帰らないと、本当に帰れないなっちゃう」

 わたし達は、目の前の一本道を帰り道に決めた。




「いいか、地獄の亡者には気を付けろよ。あいつらは俺達と違って生前での記憶がない。理性や人間らしさを失っている。だが振り返らなければ、何があっても大丈夫だから」

 振り返るということは、この世界に少しでも未練があるものと見なされてしまうのだそうだ。

 亜衣ちゃんと手を堅く繋ぎあったまま、わたしは双葉さんにお礼を言った。

「双葉さんのこと、絶対忘れない」

「いや、元の世界に戻ったら、ここでの記憶は、二人ともきれいさっぱり忘れてしまうよ」

 双葉さんの長い指先が、撫でるようにわたしの髪を耳に掛けた。

「そんな顔をするな。そもそも俺は誰の思い出にもいない存在だ。ここは思いが形となって表れる所だから、今はこんな姿をしているが、本当は、生まれてすぐに死んだんだ」

 友達に出逢うよりも、家族に愛されるよりも前に。

「なあ、瑞葉。亜衣。お前達はあまり大人になりたくないようだが、それでも俺は、大人になりたかったよ」

 ――大切な人達を、守るために。




 最後に大きく前足を振るモミュの姿を見て、わたし達は帰り道を進みはじめた。

 しっかりと、前を見据えて。

「おねえちゃん、待ってー」

 今まで一体どこにいたのか、後ろから聞こえてきたミツルくんの声に、ギクリとした。

「まだ僕達とバイバイしてないよ」

「あたしも行くー。おねえちゃあん」

 泣いているような声がする。

「こっち向いてよー。顔も見てくれないの?」

「僕達のこと嫌いになったの?」

 亜衣ちゃんが、強く強くわたしの手を握り締め、わたしを横目で見る。

 わたしはそれに答えて亜衣ちゃんの手を握り返した。

 ――その時、地中深く地獄から聞こえてくる咆哮とこども達の泣き声が重なった。

「きゃー!!」

「やだー。助けてー!」

「助けて助けてー。おねえちゃん! やめて双葉ぁ! 僕じごくなんて行きたくないよー」

 後ろでこども達の身に起こっていることに、森で魑魅魍魎に襲われた記憶が重なって、震えが止まらなくなった。

「ばか。お前ら。こっちに来い! ――うわあ!!」

 双葉さんの叫び声が聞こえた時、もうどうにも耐えられなくなって後ろを振り返りかけた。

 しかし後ろから勢いよく飛んできたモミュに、それは阻止された。

 モミュはわたしが振り返らないよう頭を押さえるように飛んできた後、ぽとりと地面に落ちた。

 そして抱き上げる間もなくモミュのいる地面が赤黒く溶けはじめ、地中からのびてきた腐乱した腕がモミュに手を掛けると、そのまま溶かすように引き擦り込んでいった。

 モミュの真っ黒い丸い目が、静かに沈んで、そして消えた。

 今わたしに出来ることが、振り返らず進むことだけなんて――。

 溶けていた地面は、すでに元の様相を取り戻している。

 完全に姿の見えなくなったモミュの横を、わたし達は言葉もなくただ通り過ぎていった。

 

 


 やがて双葉さんや子供たちの声も聞こえなくなり、ただ、背後から背中を引っ掻くような不気味な声がしてくるのみだった。

 もうどれだけ歩いてきたのだろう。

 延々と続く同じような彩りのない景色。

 どこまで進めばいいのか分からない。

 時折後ろを確かめたくなってしまう。

 だけど今、わたしには確かに繋いだ手があって、そこに亜衣ちゃんがいてくれる、それだけで心強かった。

 それでも不安や心配が全く消えてなくなるというわけではなく、知らないうちに亜衣ちゃんと繋いでない方の手を強く握り込んでいたらしい。

 先ほど亜衣ちゃんの口へ捩じり込んだ指先から再び血が滲んできて、わたしは痛みを思い出した。



 ――血ノ臭イガスルゾ。


 突如として、どこからか、低く不快な声がした。

 今まで枯木立の姿をしていたものが、どろどろと肉の溶けた亡者となり、次々と数を増して、やがてそれは血を流すわたしの指先にまで辿り着いた。

 舐めるような感触に、指を持ち上げ見てみると、傷口の中にひしめくように蛆が湧いていた。

「キャーッ!!」

 思わず繋いでいた手を振り払うと、その勢いで体が前へと傾いて、そのまま転んでしまった。

「瑞葉ちゃん!」

 驚いた亜衣ちゃんが、わたしを

 その瞬間を亡者たちは見逃さなかった。

 亜衣ちゃんの足元から地面がずぶずぶと溶けはじめ、その赤黒い中から原形を失った地獄の亡者達が次々と亜衣ちゃんにすがるように纏わりつき、地中へと引き摺り込みはじめていく。

 たちまちに辺りは息をするのも苦しいほどに空気が薄くなり、腐ったものの臭いに包まれた。

 わたしはその臭いを吸い込みたくなくて片腕で口を覆いつつ、反対の腕を亜衣ちゃんの方へと伸ばした。

 その指先は相変わらず蛆がぬめぬめと這いまわっているというのに、それでも構わずに亜衣ちゃんはわたしの方へと手を伸ばした。

 それほどに彼女は危機迫った状況にあった。

 わたしは蛆に纏わりつかれているといっても、亜衣ちゃんのように亡者に引き摺り込まれる様子はない。

 けれど、少しずつ後方へと下がっていく亜衣ちゃんの姿に、わたしを後ろへ向かそうとしている亡者の意図が見てとれた。

 わたしも振り返らないよう後退しながら亜衣ちゃんへと手を伸ばし続けるけれども、亜衣ちゃんを覆う亡者達に阻まれて、触れることすら出来ないでいる。

 地中に沈めるべく、彼女の頭は上から伸し掛かられるように押さえ込まれ、顔はいくつものぬめった手に掴まれて、亡者の指の隙間から見える彼女の顔は、涙か何か分からないものでびしょびしょになっていた。

「亜衣ちゃん亜衣ちゃん!」

 もう少しで指が触れられそうな気がする。

 でももう彼女の体の大部分は、どろどろとした地中に埋まってしまっていた。

 何とかして助けないと。

 だけどどうしたらいいのか。

「瑞葉ちゃん。もう行って! 早く帰って。あたしが瑞葉ちゃんをここに呼んだんだから。あたしは最初から家に帰らないつもりだったの。だからだから……」

 赤黒く異臭を放つどろどろと溶けた地面が、すでに彼女の口元まで飲み込もうとしている。

 わたしは道を進むことも彼女を助けることも出来ずに、ただ手を伸ばし、名前を呼ぶことしか出来なかった。

 もうここには助けてくれる人は誰もいない。

 だけどどうしていいのか分からないのだ。

 わたしの顔も涙でびしょびしょだった。

「亜衣ちゃん!」

 もう何度目になるのかも分からずに彼女の名前を呼ぶ。

「瑞葉ちゃん。……お母さん。お父さん」

 それは、小さな小さな呟きだった。

 亡者達の薄気味悪い咆哮に消えてしまうほどに小さなものだった。

 人としての心を失った亡者達にそんな彼女の気持ちなど理解できるはずもなく、愚かな自分達の仲間を増やそうと地獄へ引き摺り込もうとすることを止めはしない。

 中でも一番大きな亡者が亜衣ちゃんの全身を抱えるようにした時、目を大きく開いたままガタガタと震えていた亜衣ちゃんはその亡者から目が離せなくなったように固まって、ポロポロと涙を零し続けた。

 そしてその大きな亡者は亜衣ちゃんを前方に投げ飛ばすと、大きく咆え、驚いたことに、今度は他の亡者を纏めて地中へと引き擦り込みはじめたのだった。


「何が起こったの?」

 分からないまま亜衣ちゃんの傍へ駆け寄ると、亜衣ちゃんは有無を言わさずわたしの手を取って駆け出した。

「……お父さん」

 亜衣ちゃんの声にならない声が聞こえた。

 自分の無力さに涙が止まらなかった。

 わたしの力では、大切な友達ひとりを助けることも出来ないんだ。


「それはしょうがないだろう。まだこどもなんだからなあ」


 ――今聞こえてきた声は、幻聴?


「大丈夫だ。心配するな。後は任せておけ」


 優しくて頼りになる、懐かしい声。

 昔、こどもだけではどうしようもなくなった時、いつもおじいちゃんが手を貸してくれた。

 そしてそれは、いつも必ずうまくいったんだ。

 



   ◇




 ゆっくりと瞼を開き目に入ったのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。

 薄暗い室内に、今が何時なのか、いつベッドに入ったのか分からなかった。

 夢を見ていたような気がするのに、それがどんな夢だったかは思い出せない。

 ただ、懐かしさに体中を包み込まれているようだった。




 二日前、亜衣ちゃんを捜しに出たわたしは雨に濡れ、肺炎になってもおかしくない状態だったらしい。

 ずぶ濡れで倒れていたわたしを見つけ出し、うちまで運んでくれたのは兄だったと、おばあちゃんが教えてくれた。

 高熱の下がらない瑞葉を心配して学校を休もうとまでするから、わたしが代わりに看ていたのよ、と笑った。

 おばあちゃんは、わたし達兄妹が仲良くしている姿を見るのが好きだった。

 夜遅く帰ってきた父に、おばあちゃんが言ったままの言葉で兄がわたしを心配してくれた話をしたら、父は大きく目を見開き、どう表現してよいのか分からない表情をした。

 兄がわたしの心配をするのがそんなに信じられないのだろうか。

 高熱にぼんやりした頭で、なんとなくさっきの父の表情は、泣き出す一歩手前の表情ではないかと思った。




 その後も二日間ベッドから離れられず、学校を休んだ。

 授業についていけなくなるのが嫌だから、教科書は軽く目を通すようにしていた。

 起き上がれるようになると、家に届けられたプリントや授業のノートを母から渡された。

佐和さわくんが毎日届けてくれたのよ」

「きいちゃんが?」

 クラスで人気者の佐和くん。

 今のクラスでわたしの家を知っているのは、小学生の頃何度か同じクラスになり、一緒に遊びに行くこともよくあった彼くらいだろう。

 小学三年生で初めて同じクラスになった時、『佐和のぞみ』の名前のところが読めなくて、『きいちゃん』と呼んでいた。

「小学生の時は小さくて落ち着きがない子だったけど、随分背が伸びててしっかりしてたし、なんだかびっくりしちゃったわ」

 そう言った母の目の下には大きなクマが出来ていて、疲れきっているのはすぐにわかった。

 一度出来たわだかまりは簡単にはなくならない。

 信用できなくなった相手をまた信用できるになるまでには、それなりのことが必要になる。

 わたし達もすぐにはうまくいかないだろう。

 この胸の中でも、今はまだ不信感がもやもやと燻っている。

 でも、昔「佐和くん」を好きじゃなかった母の見方が変わったように、それは絶対に無理なことではないのかもしれない。




 自室に戻ると、きいちゃんの届けてくれたプリントとノートに目を通した。

 休んでいる人のためにノートを写すよう先生が生徒に指示することはないから、これはきいちゃんが自主的にしてくれたことなんだろう。

 それにコピーではなく、清書したようにきれいに書いてくれていた。

 ところどころある計算間違いは気になったが……。

 手紙も添えられていて、「委員長の仕事は俺が全部片付けておくからこっちーは何も心配しないで寝てろ」と書いてあった。

 こっちー。

 そう言えば、きいちゃんはそんな変な呼び名でわたしを呼んでいたなと、思い出してしまった。




 その日の夕方、母から一通の速達を渡された。

「よかったわね」と言った声は、疲れているせいか優しくも聞こえた。

 手紙の差出人は、狛田亜衣。

 今までやったことのないことをやりたくなって、美術部に入ったと書いてあった。

 なんだか一歩先に進まれたような悔しさと、安心したような気持ちが入り混じったけれど、わたしが亜衣ちゃんを好きだという気持ちは変わらない。

 そこに同封されていたのは、手作りのしおり。

 亜衣ちゃんの見た、きれいな青い空が描かれていた。




 翌日は体調もすっかりよくなったので、学校へ行くことにした。

 朝のリビングで、遠くの学校へ通う兄が朝食も食べず家を早くに出るところを捕まえて、助けてくれたお礼を言った。

 兄は照れくさそうに「おう」とだけ答えた。




 わたしは、いつものように朝食前に和室の仏壇に手を合わせる。

 いつも明るく優しかったおばあちゃんと、色々なことを教えてくれて、たくさん遊んでくれたおじいちゃん。

 そして、二人の位牌の横にある、大人になることが叶わなかった一番上の兄の位牌に。


「いつもわたし達を見守ってくれてありがとう」と。


 そこでふと、思い出した。

 こどもの頃川で溺れて兄に助けられ、家まで連れて帰ってくれた時の話を、おばあちゃんがしてくれたことを。

 熱を出したわたしを心配して学校を休もうとまでするから、おばあちゃんがわたしを看ていてくれたんだ。

 熱の下がったわたしは、おばあちゃんの真似をしてぬいぐるみのモミュの看病をしたことまで思い出した。

 高熱で眠っていた間、おじいちゃんとおばあちゃんの夢を見ていたのだろうか。

 目が覚めた時懐かしい気持ちがしていたのは、きっとそうだったからだと納得した。




 教室に入ると、「委員長だ」「委員長だ」という声がした。

「おい、ニセ委員長。本物の委員長が来たぞ」

 クラスメイト達にからかわれている人気者の男子はわたしの姿を見つけると、はじけたような笑顔で手を振ってきた。

「あの、おはよう。プリントとノート、ありがとう。それに色々やってくれたみたいで――」

「全然気にするなよ。楽しかったし。元気になったこっちーが見れてよかったよ」

 きいちゃんがカラカラと笑い、近くにいた男子が「こっちー?」と疑問符を飛ばしている。

「お礼といってはなんだけど……、勉強で何か分からないことがあったら、訊いてね?」

 届けてくれたノートの間違いの多さが気になっていたわたしは、そう言ってみた。

「えー。いや別にそんなの」

「そんなのじゃないの。本当にちゃんと訊いて。今やっておかないと間に合わなくなるよ。きいちゃんの間違いは数学の間違いじゃないの。算数の間違いなの。いい? 2×3は5じゃないの。6なの。書き間違いかと思ったら、全部そう書いてあるんだもん」

 つい勢いに任せて続けて言ったわたしに、きいちゃんの近くにいた男子達が手を叩いて笑い出した。

「バカだ! 佐和、バカ過ぎる!」

 せっかく親切にしてくれたきいちゃんに悪いことをしてしまったと、顔を赤らめて見上げると、きいちゃんも楽しそうに笑っていた。




 その日の体育の授業は、さすがに見学することにした。

 女子更衣室代わりに使っている一組の教室の鍵を閉めるため、最後の女子達を待つ。

「ごめんねー。委員長。おまたせー」

 お決まりの台詞と共に、脈絡もなく抱き締められた。

「あー。あきのん、ずるーい」

 連れの女子生徒が高い声を出した。

「あ、あきのん?」

 軽くパニックを起こしていたわたしは、意味もよく把握してないまま、先の女子の発した単語を復唱してしまった。

「なぁに? みずっち」

 自分の名前? を呼ばれて初めて、わたしが口にしたのは彼女のあだ名だったのだと気付いた。

「あー、やっぱり瑞っちはいいなあ。律子りつこなんかひどいんだよ。あ、瑞っちが休んでいる間、体育委員の律子が鍵閉めてたんだけどね、『あたしが遅れるからさっさとしろ!』って。もー、こわいこわい」

「うっさい。――委員長、気を付けてね。そいつ委員長狙いだよ」

 ずっと前方にいた『律子』が、自分の名前が聞こえてきたので、反応して大声を飛ばしてきた。

「だって。瑞っちスレてなくて可愛いんだもん。男子も瑞っち狙い多いよね。アイツとかアイツとか」

「そうそう、絶対アイツもそうだしねー」

 ずっと腕を回されたままなので、カチャカチャとうまく鍵が掛けられずにいた。

 目の前の白い半袖から伸びた腕は真っ黒だった。

 ――そういえばソフト部だよね。だから焼けてるんだ。

 心の中で呟いたつもりだったのに口から出ていたらしい。

「そうなんだよー。練習熱心だからねー」

と、嬉しそうにあきのんが言った。

「ほら、里穂りほなんかサボってばっかりだから全然焼けてないんだよ」

「あたしはちゃんと日焼け止めクリーム塗って、美を高めているのよ」

 きゃんきゃんと話を続ける二人に、律子の気持ちが今よく分かる。

 このままでは授業に遅れてしまいそうだ。

 ここは律子を真似て「さっさとしろ」と言うべきか、それとも二人の手を取って引っ張ろうか……。

 さあ、どうしよう。




 熱が下がってからわたしは少し変だった。

 今まで胸の中を占領していた重い塊が、いつの間にかなくなっていた。

 高熱で溶けてしまったんだろうか。

 そのせいか、心が軽く、今まで息苦しくて言葉にできなかったこともすんなりと口に出すことが出来た。


 変といえば、あの大切なノートを知らぬ間に失くしてしまったらしい。

 どこを捜しても見つからず、代わりに、熱で意識が朦朧としている間に書いたと思われる異世界の物語のようなものを、新しいノートに見つけた。




「あて」

 声のした方を振り向くと、きいちゃんが教室の入口の上の枠に頭をぶつけたところだった。

 男子達はそこでも大爆笑。

「佐和、でかくなり過ぎだって」

「小学生の時はあんなにちっこかったのになー」

「マジでー? 何食ってでかくなったんだよ」

「そんなに一気にでかくなって、体痛くね?」

「別に食ってるもんは変わんねーよ。体はマジ痛くて怖かったぜ。化けモンにでも変わるんじゃないかと思ったけど、どうせ変わるんならスーパーヒーローに変わろうと決めてから、そんなに気になんなくなったかな」

 そう笑いながら言ったきいちゃんと目が合うと、更に笑顔を大きくした。

 冗談のように言われた言葉。それが、きいちゃんの出した答えなんだと思った。




 帰り道、知らない家の玄関先に寝ているふさふさの白い犬を見た。

 黒く垂れた小さな耳と尻尾。

 息をするたび大きく膨らむお腹の動きに、そうか、生きているんだ――と、当たり前なのに不思議な感動を覚えた。




「小知和さん」

 振り返ると、三秋くんがいた。

「え、あの、久しぶり」

 咄嗟になんでそう言ったのか分からない言葉が出た。

「うん、久しぶり。元気になってよかったね」

「ありがとう」

 どうしよう。すごく嬉しい。

「あと、はい、これ。忘れ物」

 差し出されたは、また、あのノート。

「え。嘘⁉ どこにあったの?」

「さあ? 僕は頼まれただけだから」

 ――誰に?

「じゃあね。気を付けて帰ってね」

 踵を返し、三秋くんが入っていこうとしたのは――、あの、古びた洋館だった。

 見上げると、扉が姿を変えていた。

「三秋くん!」

 呼び止められずにはいられなかった。

「ここ、三秋くんの家だったの?」

「そうだよ」

「扉、替えたの?」

「あ、うん。古くて危なくなってたからね」

「三秋くん」

「なに?」

「わたしね、あの扉は異世界に繋がる扉なんじゃないかって、ずっと思ってたの――!」

 自分がそう思っていたことを三秋くんに伝えたかった。

 それが、彼を知ることに繋がるような気がしたから。

 変な子だと思われただろうか?

 三秋くんは一瞬驚いたように目を見開いた後、静かに目を閉じた。

「――小知和さん」

 細く開いた目が、今までに見たことのない蠱惑的な笑顔を見せた。

「内緒だよ」


 強い風が、足元から空へと、わたしの体の中を吹き抜けていった。

 わたしの体の中の、記憶や空想、感情といったものを奥底からすべて吹き上げて、パラパラとページをめくるようにわたしに見せつけるかのごとく。


「三秋くん!」

「何、小知和さん」


 ――それは、夢と現実が重なった瞬間だった。


 例え忘れても、記憶はわたしの中にある。

 忘れたくないこと、忘れてしまった方がいいこと。

 そのすべてが、ここにいるわたしを、そして未来のわたしを作っていく。


「――また、明日!」

「うん、また明日」

 にっこりと笑った三秋くんに手を振った。




 鳥が、天高く飛び立っていく姿が見える。

 それはくすんだ色をしていたのかもしれないが、大きく広げられた翼は、空の色を映したかのように青い色に見えた。


 わたしは、足元にうずくまる地面を後ろに蹴り飛ばして、大きく前へと踏み出した。

 本当は大して何も変わってなどいないのに、わたしの世界の多くのことが、大きく変わった気がしていた。

 まだ、混沌とした自分の世界の中でどうしていいのか分からないことはたくさんある。

 だけど、それでいいのだと思った。

 進んで行こうと思った。

 わたし以外の人も皆、日々を生きているのだ。


 目を閉じてしまわないよう、

 耳を塞いでしまわないよう、

 少しずつでも、ちゃんと知っていこう。


 いつか大人になった日に、夢を叶えるために。



 大切な人を守れるようになるために。







 ――また、明日が来る。

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君の青い鳥 日和かや @hi_yori

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