第二章 ほんとうのともだち
それはまるで、自分の体が何かから抜け出す感覚と、自分の体から何かが抜け出していく感覚を同時に感じているようだった。
ゆっくりと瞼を開き目に入ったのは、世界を覆いつくすかのような、セルリアンブルーの空。
その中にたなびく白い雲。
わたしはジャスミンの花の群れの中に横たわっていた。
これまでたくさんの物語を読んできて、異世界へ渡る話も数多く知っている。
なのに、どうしてだろう。
この時わたしの頭に浮かんだのは、メーテルリンクの『青い鳥』だった。
ジャスミンが白い花を揺らしながらわたしの存在を確認するように、むせぶような甘い香りを放った。
――感じる。
この世界では多くのものがそれぞれの意思を持っているのだと。
あの空に流れる細長い雲でさえ、風に流されているのではなく、
白い花びらの上を歩く赤いテントウムシ。
その向こうに見える、地中深く根を広げる大木。
すべてを支える土でさえも。
知らず、涙がこぼれた。
目の端から伝い落ちた一滴の涙は地面に黒い染みを作り、やがてそこから泉のように水が溢れはじめた。
勢いを止めることを知らない水は流れをつくり、それは川となり、わたしを飲み込んだ。
決して深い川ではないのに、横たわっていたわたしは立ち上がることが出来なかった。
がむしゃらに手足をばたつかせるが、体勢を変えることさえも出来ない。
入り込んでくるばかりの水が呼吸を許してくれない。
苦しみもがくわたしの横を、無情にも優雅にフナが通り過ぎていくのが見える。
――あの時もそうだった。
フラッシュバックのように映像が目の前をちらつく。
小学生の時、近所の川で溺れた。
膝までの深さしかないのに、滑って転び水中に沈んだ。
起き上がろうと必死にもがいたのに、どんどんと流されていったのだ。
今わたしが流されている川は、あの時の川だ!
一瞬だけ水面に浮き出た頭が川岸のシロツメグサを確認したものの、また水中に呼び戻された。
水上に手を伸ばす。
あの時この手を掴んでくれたのは――。
「お兄ちゃん! 助けて! お兄ちゃん――!!」
声にならないわたしの声を受け止めてくれたかのように、誰かがわたしの腕を掴み、引き上げてくれた。
意識が朦朧としていたわたしに分かったのは、それが逞しい男性の腕だったということだけだった。
ふかふかとした手のようなものが心配そうに頭を撫でてくれた。
何かベッドのようなところに寝ているのだと分かった。
うっすらと目を開けると、木造の部屋の中、真っ黒な丸い目がわたしを覗き込んでいた。
「――モミュ!?」
ふさふさの白い毛に黒く垂れた小さな耳と尻尾。卵のように膨らんだお腹。細くて短い後ろ足で立ち、同じく細くて短い前足を手のように使っている犬のぬいぐるみ。これは、幼い頃おじいちゃんとおばあちゃんに買ってもらったモミュだった。
幼い頃、いつも弟のように連れていた。
夜眠る時は寄り添って。
膝の上に乗せたままご飯を食べようとした時は母に厳しく怒られて、おばあちゃんが「まあいいじゃないの」と笑った――。
思い出の中にいたわたしの掛け布団を肩まで引き上げ、彼はお腹の上をぽんぽんと叩いた。
今わたしを看病するモミュは、幼い頃わたしがモミュを病人に見立ててしていた「看病ごっこ」の仕種を真似しているのだ。
モミュが動いたらこんな感じだろうな、と思っていたそのもののモミュがここにいる。
生憎とへの字に縫い付けられた口は開くことが出来ない。
その代わりにわたしを撫でる前足を捕まえ、その先の部分を押すと
「モミュ」
と、幼子のサンダルのような音を立てて鳴いた。
だからモミュ。
母は変な名前だと嫌がったが、その時のわたしにはこの音が「モミュ」としか聞こえなかった。
母はモミュのことが好きではなかった。
あの頃はそう思っていたが、本当に好きでなかったのは、おじいちゃんとおばあちゃんのことだったと、だいぶ後になって分かった。
わたしが自分で選ぶまで、わたしが自分の言葉で答えを出すまで、じっと笑顔で待っていてくれたおばあちゃん。
わたしが間違っていた時、それからどうすればいいのか一緒に考えてくれたおじいちゃん。
常に良質な物をわたしに選び与え、常に正しい答えを教えなければならないとする母とは、合わなくて当然だった。
わたしより二人と過ごした時間の長かった兄は、おじいちゃんによく似ていると言われることが多かった。
モミュは、おじいちゃんの死後しばらくして、何の前触れもなく捨てられた。
「もうボロボロだったじゃない」
母はそう言った。
そうだ。あれが母に対する不信の始まりだったんだ。
目頭が熱くなってきた時、心配したモミュがあからさまにわたわたと慌てていた。
表情は変わらないのに、わたしを一途に思う気持ちが伝わってくる。
おかしくて吹き出すと、扉をノックする音が聞こえた。
「気が付いたのか? 入るぞ」
「は、はい」
知らない声に慌てて飛び起きると、背の高い男性が扉を開けて入ってきた。
「気分は悪くないか?」
「はい」
「それはよかった。モミュが心配しまくってずっと傍に付いてたんだぞ」
モミュはわたしの肩に頭をすり寄せて、「褒めて褒めて」と言わんばかりに甘えてきた。
「ありがとう、モミュ」
そう言うと、満足そうにまた頭を摺り寄せてくる。
「あの、モミュを知っているんですか?」
「ああ。長い付き合いだ」
穏やかな微笑みを浮かべたその男性は、学校の男子達や兄よりも少し年上のようで、父や先生方よりもずっと若かったが、大人びた空気をまとっていた。
精悍な顔立ちというのは、こういう顔をいうのだろう。
わたしの父も背が高いが、この男性の方がさらに高く、手足も長いような気がする。
袖を折ったシャツから覗く前腕が逞しかった。
「あの、あなたが助けてくれたんですよね? ありがとうございます」
「……無事でよかった」
低く響く優しい声。
わたしを慈しむような眼差しに、どこか懐かしさを覚えた。
「あの、どこかでお会いしたことありますか?」
「いや、初めてだ。――俺はずっと前から知ってたけどな。モミュから話を聞いてもっとちっこいこどもを想像してたから、でかくなっててびっくりしたよ」
「モミュ、話せるんですか――?」
「話せるさ。知ってるだろう?」
その男性は、モミュの前足を掴むと、前足の先を押した。
「モミュ、モミュ」
――そうだよ。話せるよ。
そう言っているように聞こえた。
「ほらな」
目を細めて笑った顔が、まだ少年のようにも見えた。
「――あの、」
わたしの訊きたいことを察してくれた彼が答えた。
「
「双葉さん。――わたしは、小知和瑞葉です」
ぺこりと頭を下げると、悪戯をするように下げた頭を撫でられた。
「瑞葉。そんなに畏まるな。俺も対応に困る」
「は、はい」
どうしても堅苦しくしか返事が出来なくて、距離を置かれるか飽きられるか身構えてしまったわたしに、
「そうだよな。人見知り激しいんだよな」
と笑って、
「瑞葉のやりやすいようしてくれ」
と、受け入れてくれた。
「荷物はそこに置いてある」
そう言われて双葉さんの指したベッドの足元を見ると、学生鞄が置いてあった。
――あれ?
「濡れてない」
自分の着ているものを確認すると、制服を着たままだと気付いたがそれも濡れてはいなかった。
「あと、その引き出しの物を自由に使うといい。全部瑞葉の物だから」
ベッドの脇には、引き出しが二つ付いた背の低いサイドチェストが置かれていた。
上の引き出しを開けると、幼稚園の時に使っていたお気に入りのタオルハンカチが目に入った。
それから、失くしたと思っていた香り付きの消しゴム、初めて買ってもらったペンケース、集めていたお菓子のおまけ……。
下の段の引き出しを開けると、小学生の時の遠足のしおりに、学級歌の楽譜、小学校に入学して初めて受けた算数の答案用紙――。
ああ、思い出してしまった。
生まれて初めて受けたテストは、九十八点だった。
絵に描かれた白鳥を数えるという問題で、明らかに5羽だったのに、3羽と書いてしまったのだ。
なんで3羽と書いたのか。5羽だということは分かっていたのに――!
しかもそのテストで満点を取れなかったのは、クラスで二人だけだった。
しばらくずっと悔しくて悔しくて、次のテストでは当然満点を取った。
今この時まで、思い出すことはなかったのに、こんなにも鮮やかに思い出すなんて。
「記憶って、無くならないものなんだ」
遠足のしおりなんて、その日だけしか目にしなかったのにちゃんと思い出せた。
「記憶や思い出っていうのはさ、その時だけのものって案外少ないんだよな。その後も何かに繋がってるんだよ。忘れてしまっても、今の自分を作っているし、これからの自分を作るんだ」
「そっか」
双葉さんの言葉に、自然に頷くことが出来た。
引き出しの中をさらに探ると、次から次へと思い出の品々が溢れてきて、引き出しの中に戻せないほどになった。
それにしても、どうしてそんなわたしの思い出の品がここにあるんだろう。
「それはその引き出しが、瑞葉の引き出しだからだろう」
当然だと答える双葉さんに、わたしは意味がよく分からなくて首を傾げた。
「俺に全部の答えを求めるな。瑞葉なら考えれば分かるさ」
「――うん」
部屋の隅に鳥籠を見つけた。
中にいるのはやはり、わたしの思い出の中の、くすんだ色の鳥。
あの後、なかなか懐かない鳥に興がそがれたわたしと兄はあまり世話をしなくなり、代わりにおばあちゃんが世話をしていた。
おばあちゃんから無事に空へ帰ったと教えてもらったはずなのに、ここにいる鳥はまだ小さく翼を閉じていて、幼い日の記憶のままだった。
「そろそろ空へ戻さなきゃな」
いつかおじいちゃんが言っていた台詞を、双葉さんが口にした。
「もう怪我は治っているんですか?」
「ああ、鳥籠の出口を開けてやってくれないか」
そう言われると、あの日見届けられなかった飛び立つ姿を期待して、鳥籠の出口を上へと引き上げた。
しかし、こちらを見ない籠の中の鳥は、扉が開かれていることにも気付かず、頑なに翼を閉ざしていた。
おばあちゃんのように最後まで世話をしなかったわたしでは駄目なのだろうかと、陰鬱な気持ちになりかけた時、
「そんなもんだよ。気にすることはない。あの時もそうだったんだ。自分のタイミングで飛び立つさ」
と、双葉さんは鳥籠を窓辺に置いて窓を開いた。
「あー。ホントだー。女の人がいるー」
突如部屋の扉が開いて、幼稚園児から小学校低学年くらいの三人の小さなこども達が次々と駆け込んできた。
「おねえちゃん、遊ぼー」
「僕鬼ごっこがいい」
「かけっこー」
「やだ。お人形遊びしよ」
「何言ってるんだよ。お人形遊びはこないだやっただろ。今日は鬼ごっこだよ」
「かけっこー」
「かけっこはどうせお前が勝つの分かってるんだもん。つまんないよ」
「じゃあ、じゃんけんで決めようよ」
「じゃーんけーん」
突然現れて、勝手に話を進めるこども達。
わたしが一緒に遊ぶのは既に決定されているらしい。
「お前ら、人の都合も考えろよ。瑞葉は遊ぶって言ったか?」
「言ってなくても遊ぶんだよ」
「おねえちゃんも遊びたいって」
「ねえねえ、お外行こう」
「おねえちゃん、花冠作れる?」
「木登りは?」
「僕ねー、草笛吹くの上手いんだよ」
「僕はねー」
「だからっ。人の話を聞けって」
矢継ぎ早に話すこども達を双葉さんが遮った。
しゅんとしおらしくなったこども達は、答えを求めるように上目遣いでわたしを見ている。
鬼ごっこ
かけっこ
人形遊び
花冠
木登り
草笛――
そのどれもがわたしを誘惑するのに充分なものだった。
おじいちゃんやおばあちゃん、それに小学校での遊びを思い出した。
こども達に答えようとした時、双葉さんが口を挟んだ。
「瑞葉、こいつらの相手をして大丈夫なのか? 何か用事はないのか?」
その言葉に、ここまでの自分を振り返り、亜衣ちゃんを思い出した。
「わたし――」
「おねえちゃん、……だめ?」
鼻を鳴らすような甘えた声と、泣き出しそうな表情に結局負けてしまった。
「いいよ」
やったあ、と全身で喜び跳ねるこども達を見ていると、それだけで嬉しくなる。
――亜衣ちゃんがいるのがこの世界なら、きっと大丈夫。
何の根拠もなく、わたしは勝手にそう判断して、亜衣ちゃんを捜すのを先送りした。
それからどれくらい遊んでいただろう。
こんなに大声で笑うのも、体全部で遊ぶのも久しぶりだった。
満たされた思いの中、くっついて離れないこども達をそのままに、その夜は眠ることにした。
三人は年子の兄妹だと言っていた。
お兄ちゃんのミツルくん、かけっこが好きなトシオくん、甘えっ子のモエちゃん。
「お父さんとお母さんは心配してないの?」
と訊くと、
「お父さんもお母さんもいないよ」
とミツルくんが答えた。
だから余計にだろう。モエちゃんは特にわたしに甘えたがった。
「瑞葉おねえちゃん。ずっとあたし達と一緒にいて」
ぎゅっとしがみついてそう言われたが、答える前に、モエちゃんは眠りに落ちてしまった。
眠って微動だにしなくなった体に、モミュを抱き締めて眠っていた頃を思い出して、ぽんぽんとリズムを作るように背中を叩いた。
同じベッドでは窮屈に、ミツルくんとトシオくん、そしてモミュも眠っていた。
わたしも眠ろうかと思った頃、様子をみていた双葉さんが口を開いた。
「ひとつ忠告しておくが、こどもっていうのは純真なだけじゃないからな。自分の望みを押し通そうとするところがある。流されないようにしろよ」
双葉さんはこどもが嫌いなのだろうか。
眠くなった頭で、ぼんやりとそう思った。
翌朝、窓から射し込む光に目を覚ますと、床に散らばっていたはずの思い出の品々がそこから消えていた。
もしかして捨てられたのでは――と不安になったわたしの目に、元々それらの入っていたサイドチェストが笑ったように見えた。
驚いたわたしに、してやったりとでも言っているようだった。
もうしばらくは思い出す必要がないのかもしれない。
そんな気もした。
こども達はというと、目覚めると同時にスイッチが入ったらしい。
また小鳥のように話し始めた。
「おねえちゃん。今日は何して遊ぶ?」
それを双葉さんが止めた。
「――瑞葉。お前はこの世界の者じゃないだろう。何か目的があってここに来たんじゃないのか?」
「僕達と遊ぶためだよ」
「今日はケイドロしようよ」
「ホットケーキ作って」
「絵本読んでよ」
はあ、と双葉さんは大きく溜め息を吐いた。
「瑞葉。何をしに、ここへ来たんだ?」
「わたしは……。わたしは、大切な友達を、亜衣ちゃんを捜しに来たの」
「えー」
とこども達は声を揃えて不満をぶつけてきた。
「遊んで欲しいんなら、俺が後で遊んでやるから」
「やだー。おねえちゃんがいいー」
ミツルくんが双葉さんを責め、トシオくんがわたしにしがみつき、モエちゃんが大きな声で泣きはじめた。
可哀想になって、もう一日くらい――と答えようとした時、双葉さんの静かで強い声がわたしに語りかけた。
「俺は、嫌われることからも責められることからも逃げようとは思わない。守らなければならない、本当に大切なものがあるからな。――瑞葉はどうだ?」
暗に、その場凌ぎの言動は取るなと言われているようだった。
「ごめんね」
わたしがそう言うと、ひどいと責められ、大嫌いと小さな拳で叩かれ、更に火が点いたように大声で泣かれた。
確かにこれは、自分達の望みを押し通そうとばかりしていて、言うことを聞いているときりがなさそうだ。
それは分かる。分かるけど……。
こども達を傷つけてしまった罪悪感に、何かをしてあげたい気持ちだった。
そんなわたしを見た双葉さんが、
「瑞葉は将来子育てで苦労しそうだな」
と呆れていた。
亜衣ちゃんを捜すと決めたもののどこへ行けばいいか分からないわたしに、双葉さんが、最近わたしと同じように別の世界から来た人間の噂を聞いた、と言った。
だからわたしもその人物に関係しているのではないか、と思ったらしい。
そして、道など何も分からないわたしを最初から案内するつもりだったと笑った。
「あの丘の向こうだ」
双葉さんの家からも見える大きな丘を指し示した。
それは朝の光にきらきらと輝いて見え、あの向こうに亜衣ちゃんがいるんだと思うと、胸が弾んだ。
丘までの道は、まるでわたし達を導くがごとく小さな花々が縁取っていて、歌うように揺れている。
そしてわたし達の噂でもするかのように、様々な色や大きさの蝶が羽ばたいていた。
その道を双葉さんが案内してくれているのだが、先頭にはわたしを守るのが当然の役目と言わんばかりに、胸を張ったモミュが歩いている。
それになぜか後ろには、こども達までついてきていた。
「おねえちゃんのカバン何が入っているの?」
「僕もカバン持つー」
「じゃんけんで負けた人が、次の木の所まで他の人の荷物を全部持つんだよ」
「じゃーんけーんぽい」
「ぱーいーなーつーぷーるー」
「違うよ。負けた人が荷物を持つんだよ」
「モミュ! 何出してるんだよ。全然分からないよ」
ついてきたこども達に呆れてはいたものの、結局のところ、双葉さんはこどもが嫌いではないらしいことが分かった。
時々は叱りつけ、けれども常に見守っている。
数ヶ月前、こども三人だけで彷徨っていたところを双葉さんが見つけ、それ以来面倒を見ているのだそうだ。
「俺も昔そうだったから」
この辺はそういうこども達が多い所なんだ。
当たり前のように双葉さんはそう言った。
けれども、モエちゃん達はあんなにも愛情に飢えていて、決してそれは当たり前のことではないのではないかと思った。
「双葉さんも誰かに見つけてもらったの?」
双葉さんは、何かを思い出すかのような笑顔で、首を縦に振った。
「ああ。俺にもいたよ。守ってくれた人達が。だから今の俺があるんだ」
「今、その人達はどうしてるの?」
「今は別に暮らしている家族の方を見に行ってる。落ち着いたら戻ってくると思うが……、いつになるんだかなあ?」
そう言いながら横目でわたしを見た双葉さんと目が合って、その目の優しさにドキリとした。
そしてそれは、双葉さんを守ったという人達が、本当に素敵な人達なんだという証でもあるようだった。
「瑞葉は家族がいるんだろう?」
「うん……」
「兄弟は?」
「……兄がひとり」
「仲良さそうだよな」
「ううん。昔は、仲良かったんだけど、今は……」
「――そうか。瑞葉は、兄さんのことが嫌いなのか?」
「ううん! 嫌いじゃない。だから……」
今まで誰にも言えなかったたくさんのことを、双葉さんに聞いてもらった。
家庭でのこと、学校でのこと。
うまく言えずにいることでも、双葉さんはちゃんと分かってくれて、静かに頷いてくれた。
「辛かったな」
その言葉に、涙が溢れた。
その一言で、胸の塊が溶かされていくのを感じた。
先ほどまで、わあわあと騒いでいるこども達に紛れていたモミュは、今はわたしの背にしがみ付いている。
わたしが泣いているのに気が付くと、双葉さんを一蹴りしてわたしの背中に飛び付き、慰めるように頭をぐりぐりと押し付けてきた。
その仕種に笑いが込み上げてきて、涙は止まった。
「ねえねえ、おねえちゃん。モミュのこと好き?」
「うん、好きよ」
「双葉は?」
「うん、そうね、好きよ」
「じゃあ僕達は?」
「もちろん好きよ」
「僕もおねえちゃん好き」
「あたしもおねえちゃん好き」
「僕だって好きだよ」
「じゃあみんな両思いだね」
無邪気なこどもの発言が微笑ましくて頷いた。
「それならさ、おねえちゃんがお友達に会えたら、みんなでここで暮らそうよ」
「え?」
咄嗟に返事を返せないでいると、双葉さんがきっぱりと言った。
「やめとけよ」
「えー。なんでー。だっておねえちゃんの世界、つまんなそうじゃない」
「僕達はみんなおねえちゃんのことが好きなんだよ」
「絶対こっちの方が幸せだよ」
「あたし、おねえちゃんとずっと一緒にいたい」
「僕達にはおねえちゃんがひつようなんだよ」
「それにおねえちゃん、こどもの遊びが好きなんでしょ。ここにいたら、望めばずっとこどものままでいることもできるんだよ」
ミツルくんの言葉を聞いて双葉さんの方を見ると、渋々といった
「でもそいつらはまだ本当にこどもだがな」
それを聞いてちょっと安心した。
けれど、ざわめきはじめた胸の内にきっと気付いた様子の双葉さんに、「少し休憩しよう」とその話を止められた。
今いるのは、今朝双葉さんの家からきらきらと輝いて見えた大きな丘の上だった。斜面には色とりどりの草花が咲き誇っている。
ここを越えると、亜衣ちゃんと見られる人がいる森があるそうだ。
やはり「おねえちゃん、一緒にすべろう」攻撃に遭ったが、双葉さんが慣れた感じでミツルくんを斜面の上から転がすと、その後をモエちゃんが追いかけ、トシオくんが追い越して遊び始めた。
「大丈夫? 怪我でもしたら……」
さすがにわたしは心配したが、それに関して、双葉さんはまったく気にしていないようだった。
「怪我なんかしないさ。あいつらはな。俺も、その他の奴らも。だが瑞葉はやめておけ。お前は危ない――分かるか? 俺の言っている意味」
それはつまり、わたしがこの世界の人達と違うということなのだろう。
そして、さっきのこども達の要求に応えるなということでもある。
「瑞葉はこどものままでいたいのか?」
「……」
分からない、というのが今の正直な気持ちだった。
どちらかというと、昔に戻りたい。
周りのみんなも、自分自身でさえ、以前とは違う理解できないものに変わっていく。
そのことに対する不安の方が大きかった。
双葉さんは、慰めるように指先でわたしの前髪を払いながらそう言った。
「じゃあさ、将来なりたい職業とか、やりたいこととかはないのか?」
「……」
同じ沈黙でも、先ほどとは違うと双葉さんには分かっている。
黙ってしまったわたしを待つように、彼も言葉を止めた。
天高くから響いてくる、鳥の声。
遠くから聞こえるのは、こども達のはしゃぐ声。
そして背中からは、自分の前足の先を摘まんで、モミュモミュとピクニックの曲を奏でる音がした。
色鮮やかな広大な景色を見ながら、そう言えばこの世界に来てからノートに何も書いてなかったなと思った。
「わたし、」
「うん」
「わたしね」
「うん」
「笑わないでね」
「ああ」
「――わたし、小説家になりたいの」
「そうか」
「笑わないの?」
「どこに笑いどころがあるんだ」
「だって。お母さんに笑われたことがあるんだもん。『そんなもんなれるわけないじゃない』って。『なれても生活できないわよ』って」
「それは他の仕事だってそうだろ。なれるとは限らないし、それだけで食っていけない仕事って結構あるもんだ」
ぽんと大きな掌をわたしの頭の上に置いた双葉さんは、小さなこどもにするようにそのまま頭を撫でた。
「何か書いてるのか?」
「小説じゃないけど……」
持っていた学生鞄から、あのノートを取り出した。
この人には、知ってほしいと思ったから。
「へえ」
受け取った双葉さんは、嬉しそうにペラペラとページをめくった。
「なあ、今まで誰かにこれ、見せたことあるのか?」
「ううん」
ない――と言い掛けて、三秋くんに読まれてしまったことを思い出した。
「事故だったんだけど」
と、三秋とのやり取りを説明しながら、思い出した恥ずかしさからか、顔が真っ赤になっていくのを自覚した。
「――なんだよ。おもしろくねえなあ」
途端に唇を尖らせて不機嫌そうな顔をした。
「これ、じっくり読みたいから貸しておいてくれないか」
「うん」
「大丈夫。奴らには見せないよ」
斜面を登ってくるこども達を親指で指しながら、双葉さんは白い歯を見せた。
それから、夜森へ入るのは危ないからと、その後はそのままそこで丘を飲み込むほどの大きな夕日を見て、初めて見る満天の星空の下、柔らかい布団の代わりをしてくれる草花に包まれて眠ることとなった。
こども達の静まり返った後、わたしはというと、この美しい丘、夕日、星空をどうしても書き留めておきたくて、鞄の中に入っていた真新しいノートを取り出し、そして今感じているすべてのことを書き続けた。
「この奥だ。本当に行くか?」
森の辺りは、それまでの美しい光景とはまったく違う、暗く澱んだ空気が漂っていた。
危険な所だとすぐに分かったが、わたしは意を決して頷いた。
亜衣ちゃんをこんな所にひとりで置いておく訳にはいかない。
「瑞葉、離れるなよ」
双葉さんはそう言うとしっかりとわたしの肩を抱えた。
そうするとわたしの頭は、背の高い双葉さんの胸の中にすっぽりと入ってしまって、余程見上げなければ彼の顔は見れなかった。それでも顎の下からだけど。
そんなわたしに可笑しそうに笑って、「大丈夫だよ」と言った。
先頭はやはりモミュ。
前足を大きく横に広げたまま、守りのポーズで進んでいる。
後ろにいるこども達には、森の入り口で待ってろと双葉さんは言ったけれども、当然言うことを聞くはずもなくわたしと双葉さんの後ろに隠れながらついてきた。
「こわいー」
「こわいー」
「きゃー」
本当に怖がっているんだか、まるでお化け屋敷に入るようなノリだった。
双葉さんは前方を見ているが、後ろも意識してピリピリしていた。
「心配するな。連れてこないということも出来たのに、敢えて連れてきたのは俺だからな。最初から責任はしっかり取る覚悟だ。――大丈夫。俺が絶対に守る」
不安でいたわたしにそう言って、やっぱり笑って見せた。
足元はぬるぬるとぬかるみ、異臭のする空気は湿度が高く、肌をべたつかせた。
視界は限りなく悪い。
双葉さんがいなければまともに歩くことも出来なかっただろう。
一歩進むごとに足を引き込むかのようにまとわりつくぬかるみに、足を地面から上げることさえ困難だった。
いつの間にか先頭にいたはずのモミュは、はぐれないようにわたしのお腹にしがみ付いている。
「ねえ、帰ろうよう」
トシオくんが言った。
「やー。おねえちゃんといる」
モエちゃんが後ろからわたしに抱きついた。
「お前だけ帰れよ」
ミツルくんがトシオくんを突き飛ばした。
こども達も、この暗い空気にいつもほどの元気を出せないようだった。
「――どうして亜衣ちゃんはこんな所にいるの?」
「彼女を呼んだ奴がここにいるってことだろ」
「亜衣ちゃんを呼んだ人って……?」
その時、後ろでトシオくんに突き飛ばし返されたミツルくんがモエちゃんにぶつかり、バランスを崩したモエちゃんにスカートを引っ張られたわたしは、ずるりと足元を滑らせた。
ほんの一瞬のことだった。
わたしの体が双葉さんの腕から離れた直後、どこからか湧き出てきた蛆虫が体中をぞわぞわと這い回り、泥の中から魑魅魍魎たちが四肢を四方向へと強く引っ張った。
「いやあー!!」
おぞましさに気が変になりそうだった。
「いやあ、いやあー!」
言葉など出なかった。
今にも口の中へも飛び込んできそうなほどに、蛆が顔面を埋め尽くしている。
何もかも分からなくなった。
まともに口も開けられないまま叫び声だけを上げ続け、いつ双葉さんの腕に引き戻されたのか分からないほど、わたしの体は怖気で震えが止まらなかった。
「悪かった」
双葉さんが悪い訳ではないのにそう言って、わたしが落ち着くまで抱き締めて背中を撫でてくれた。
モミュも前足でモミュモミュとわたしの手の甲を擦ってくれた。
こども達は静かになり、互いに目で何かを語り合っているように見えた。
「瑞葉、まだ今なら帰れるが、どうする?」
まだ手は震えたまま。呼吸も浅かったが、落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸を繰り返して、
「行く」
と答えた。
亜衣ちゃんは無事なんだろうか。
「――双葉さんは、迷惑じゃない?」
「俺は大丈夫だ。行こう」
そうしてまた支えられて、さらに力を込めて引き寄せられ歩きはじめた。
ぬかるみが消えて、今度は枯木立ばかりの光景となった。
先ほどよりは視界が広がったが、相変わらずどんよりと暗く、辺りは冷気に包まれていた。
「この辺りのはずだ」
双葉さんはそうっとわたしの肩から腕を外した。
ひとりで歩けるようになったわたしは、遠くまで見渡せない景色の中で、目を凝らした。
「亜衣ちゃん、亜衣ちゃーん」
「モミュモミュ、モミュモーミュ」
わたしの真似をするモミュをさらに真似て、こども達も亜衣ちゃんの名を呼び始めた。
「あーいちゃーん」
「あいちゃんいないよ」
「あいちゃんどこー?」
くるくると木立の中を駆け回った。
かくれんぼか鬼ごっこをしているようだ。
「瑞葉ちゃん!」
声がした方向をみると、大好きな、大切な友達が立っていた。
「亜衣ちゃん、亜衣ちゃん」
「瑞葉ちゃん、会いたかった!!」
まだ二、三ヶ月しか経っていないのに、何十年ぶりに会えたかのようだった。
わたしたちはお互いの存在を確めるように強く抱き締め合った。
「亜衣ちゃん、話したいことがたくさんあるの」
「わたしも。わたしもずっと瑞葉ちゃんに聞いてほしかった」
繋いだ指先から伝わってくる思い。
多くの説明は必要としない。
わたしたちはそんな関係だった。
――初めて出会ったのは小学校の入学式。
「小知和瑞葉」と「
すぐに仲良くなって、いつも一緒だった。
二人でじっくりと話したかったわたし達は、
枯木立が立ち並ぶ中、折れて横たわっている幹を腰掛けにして座った。
「亜衣ちゃん、元気だった」
「――体はね。瑞葉ちゃんは?」
「わたしも、体はね」
横に並ぶと、亜衣ちゃんの身長が少し伸びているのが分かった。
顔つきも、少し大人びたようだ。
「学校、楽しい?」
亜衣ちゃんは、無言で首を横に振った。
「瑞葉ちゃんは?」
わたしも、亜衣ちゃんと同じ動作を繰り返した。
言いたいことはたくさんあるけれど、あまりにもたくさんあり過ぎて、何から伝えていいのか分からなかった。
ただ、お互いに幸せでないことは、分かった。
「はい、これ。瑞葉おねえちゃんの」
「はい。亜衣おねえちゃんの」
いつの間にかすぐ目の前まで近づいていたこども達が、わたし達二人の前に何かの果実を出した。
枯木立の群れの中に、この実を結んでいる木があるようだった。
「美味しいんだよ、これ。僕達大好きなんだ」
そう言いながら、ミツルくんは同じ果実を頬ばった。
赤い、夕日のような果実。
「瑞葉おねえちゃんも」
モエちゃんがわたしに差し出し、
「亜衣おねえちゃんも」
と、トシオくんが亜衣ちゃんに差し出した。
わたし達はお互いに目を合わせ、小さく笑うと
「ありがとう」
と受け取った。
そしてそれを口にしようとした時、
「やめろ!」
という叫び声を発しながら、双葉さんがわたしと亜衣ちゃんからその果実を奪い取った。
こども達がせっかくくれたのに、どうしてそんなひどいことをするの――?
そう口にしようとしたが、怖い顔をした双葉さんに、何も返せなくなった。
「それは、ミツル達には美味い果実だが、瑞葉や亜衣にとってはただの毒だ。瑞葉も亜衣も、この世界に来てから何も食ってないだろ? 必要ないんだ。それどころか、何か食ったとしたら命はない」
「でもね。食べたらずっとこどもでいられるんだよ?」
ミツルくんがにっこりと笑う。
「どういうこと?」
「瑞葉ちゃん、もしかして知らなかったの? ここは、死者の世界なのよ」
事も無げに亜衣ちゃんが教えてくれた。
「亜衣ちゃんは知ってたの?」
「ええ、だって、呼ばれてきたんだもの」
そう言いながら、亜衣ちゃんはちらりと双葉さんを見た。
「その人もこども達も死者なのよ。何も教えられてないの?」
ひどいよね。
言いながら、亜衣ちゃんはもう一つ、ミツルくんから果実を受け取って袖口で表面を拭き取り、その果実を口に含もうとした。
「亜衣ちゃん!?」
わたしは亜衣ちゃんの右手を抑え、果実が口に入らないように防ぎ止めた。
「どうして!? さっき双葉さんが言ってたでしょ。食べたら死んじゃうよ!」
「でも、こどもでいられるわ」
「亜衣ちゃんは、こどものままでいたい?」
「当然でしょ。大人になんかなりたくない。大人なんてねえ、まともな心を持ってないのよ。あたし達こどもには嘘をつくなって怒るくせに、自分たちは嘘ばっかりなの。作り笑いが上手くなって、妥協が出来て、適当に人の話に合わせるだけで! 本当の自分を人に出さないの。ねえ、瑞葉ちゃんは、大人になりたいの?」
「……」
「その人だって、瑞葉ちゃんを騙してたじゃない」
「別に騙してはいない」
それでも双葉さんは、毅然と答えた。
「ばれないように黙ってたんでしょ? 同じよ」
「双葉さんは大人じゃないし、それに、わたしを助けてくれたんだよ」
「その人こどもが嫌いなんでしょ? 理屈の通らない、自分に都合よく事を進められないこどもを相手にしたくないから、瑞葉ちゃんを大人にさせたがったのよ」
そうなんだろうか。
でも、短い時間だったけど、わたしの見てきた双葉さんは、そんな人ではないと思った。
「瑞葉ちゃんは、あたしよりその人を信じるの? あたしのことは、信じられない?」
そうじゃない、そうじゃなくて、何かがおかしい。
「あたし達、友達じゃないの? もっと都合のいい相手が見つかったから、もうやめるの?」
そんなことある訳ない。
亜衣ちゃんがいなくて、どれだけ寂しかったか。
「瑞葉ちゃん、学校おもしろくないって言ったの、嘘だった? あたしに合わせただけなんでしょ」
違う。本当に辛くてたまらないの。
「結局瑞葉ちゃんもみんなと同じなんだ。あたしがひとりでも、瑞葉ちゃんには関係ないんだよ。あたしがどんなに辛くたって、瑞葉ちゃんの生活は変わらないもんね」
分かる、分かるんだよ。
「どうしてっ。どうしてあたしだけこんな目に遭わなくちゃいけないの!? どうしてあたしばっかりこんなに苦しい思いしなきゃいけないのよ! ――みんな、みんなあたしの気持ちなんて分かってくれない! 分かろうとも思わないんだ――!!」
そう叫んだ亜衣ちゃんは、今度こそ強い力でわたしの腕を引き離し、果実を口元へ持っていこうとした。
わたしの力では亜衣ちゃんに敵わない。
だから、その時わたしに出来たことは、果実よりも先に自分の指先を亜衣ちゃんの口に捻りこむことだけだった。
果実を噛むように強く歯を閉じた亜衣ちゃんの口元には、赤く、わたしの血が流れた。
「――分からないよ。どうして亜衣ちゃんがわたしを信じてくれないのか……」
ゆっくりと開けられた口から、だらりとわたしの手が抜け落ちた。
「分からないよ。どうして、亜衣ちゃんは、わたしのこと、分かろうと、してくれないの?」
決壊が崩れたように、亜衣ちゃんがわあわあと泣き始めた。
わたしも、ちいさなこどものように大声で泣くことを止められなかった。
一番の友達だと思っていた。
なんでも分かり合えると思っていた。
なのに、ほんの僅かの間離れていただけで、こんなに擦れ違ってしまうなんて。
いや、もしかしたら、今まで分かっていると思っていただけで、本当は何にも分かっていなかっただけなのかもしれないけれど。
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