下北沢のホーンテッドアパート 第九話
「しゃあああラッ! 満室御礼ッッ!」
高らかな勝利の雄叫びが屋敷に轟く。何だろう、と身構えた時にはもう、腰にバスタオルを巻いただけの完全に事案スタイルの兄さんが、ずぶ濡れのままダイニングに飛び込んでいた。
その手は、戦国武将の首級よろしく高々とスマホを掲げている。
「来たぞ! 最後の入居申込が! こいつが決まれば満室だ!」
「その前に服! 風邪引くし、桃子さんも見てるんだから!」
椅子を立ち、慌てて兄さんを廊下に押し戻す。
視えないのは仕方がないとして、それでも最低限、若い女性が同居していることを前提に行動してほしい。現に、僕の隣では桃子さんがノートPCでタイピングの練習をしていたのだ。当然、兄さんの姿も目に入っただろう。当然、戦前生まれの初心な彼女は大いに恥じらって――
「意外と良い身体つきね。今の人はもっと頼りない印象だったのだけど?」
「えっ?」
振り返ると、パソコン画面から顔を上げた桃子さんがにやにやと僕たちを眺めている。
「瑞月さんも、もう少しお兄様を見習った方がよろしいのではなくて? ああ、もちろん中身の方はその限りでもなくってよ」
「う、うう」
どうして兄さんじゃなく僕にダメージが入るんだ。しかもかなりのクリティカル。そりゃ僕も、兄さんみたくジムで鍛えたいのは山々だけど、ああいう場所には大抵マッチョな幽霊さんがいて、珍しく話のできる生者の僕にやたらと絡んでくるから……
とりあえず兄さんを廊下に叩き出し、テーブルへと戻る。相変わらず桃子さんは、ネズミをいたぶる猫の目で僕を眺めている。うう、とてもつらい。
「満室、というのは、例の下北沢のアパートのこと?」
「ええ。ようやく最後の部屋に入居の申し込みが入ったんです。まぁ、審査や契約の方はこれから始まるわけですけど……」
とはいえ、今の兄さんの様子を見るに完全に通す気でいるのだろう。相場より安めの募集だったとはいえ、募集を開始して一ヶ月そこらで埋まるのはかなり運が良い。
問題は、むしろ入居者が定着するかどうかだけど、その点も僕は心配していない。今は、案内時にほんの少し告知事項を告げられるだけの、相場に比べてほんの少し家賃の安い、よくある事故物件の一つにすぎないからだ。
そう、あの部屋に、彼は――僕の「お兄さん」はもういない。
「結局、あの人の家族になれたんでしょうか、僕は」
「どうかしらね。でも……事実、あの人は旅立ったわ。あなたに見送られて」
「はい。でも……」
本当は、もっと良い手段があったんじゃないのか。鍋なんて独りよがりなものじゃなく、もっと、柊木さんを心の底から満たすような方法が。
「およしなさい」
「えっ?」
「お兄様も仰ったでしょう、あの人の悲しみはあの人のもの。寄り添うのは構わなくてよ。でも、引き受ける必要はないの」
そして桃子さんは、何事もなかったようにタイプの練習を再開する。その目はもう、僕を見てはいなかった。
「……すみません」
そっと席を立ち、キッチンに足を向ける。ここはコーヒーでも飲んで気分を入れ替えよう。ついでに桃子さんにも一杯――
「本当に、よく似ているわ、あなたたち」
「え……?」
振り返ると、相変わらず桃子さんはPCに目を向けている。でも、今のは明らかに桃子さんの声だった。それも、僕に向けられた。
――よく似ているわ、あなたたち。
それは……僕と兄さんが、という意味だろうか。でも、それを言えば一体どこが似ているのだろう。こんな、愚図でのろまな僕と、あの聡明でバイタリティに溢れた兄さんが。
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