下北沢のホーンテッドアパート 第八話
僕たち兄弟にとって、団欒といえば昔から鍋が定番だった。
二人して忙しかった両親は、そもそも家でゆっくり食事を摂ること自体が稀だった。それでも珍しく両親が揃った夜は、決まって献立は鍋になった。すき焼き、しゃぶしゃぶ、キムチ鍋、カニすき……中身は何であれ、家族が囲むテーブルにはいつも鍋があった。
そして今夜。僕らが囲むテーブルにも、やはり鍋があった。
ほんのりと漂う醤油の甘じょっぱい香り。くつくつと歌う湯気の音。鍋の中では、白菜や春菊、人参、大根、切り込みを入れたしいたけ、そして薄切りの牛肉が小刻みに波打ち、踊っている。
「けど、何だって急に鍋なんか」
鍋を覗き込みながら、兄さんが訝しむ顔で問うてくる。
「だって、団欒と言ったらやっぱり鍋じゃない? 僕らも、父さんと母さんが揃った時はいつも鍋だったし」
「いや、そういう話じゃなくてだな。しかも、何だってあいつの部屋で……」
そこは下北沢にある柊木さんの部屋で、その狭い六畳間に僕らは、ノマド時代から使うミニテーブルと最近購入したIHコンロ、鍋、そして具材を持ち込み、急遽鍋パーティーを開いていた。
小鉢に卵を割って溶き、テーブル越しに兄さんに差し出す。両隣の桃子さんと柊木さんには、溶いた卵に鍋の具を盛りつけたものを。死者には、料理として完成されたものをお出しする。もうすぐ二ヶ月になる桃子さんとの共同生活で身についた作法だ。
「どうぞ、桃子さん」
「ありがとう。お芋は……入ってないわよね」
「入れませんよ、すき焼きなんですから、これ」
「念のためよ。大体、お芋もかぼちゃも、平和な時代にわざわざ好き好んで食べるものではないわ」
相変わらずの暴論だ。まぁ、食糧難の時代にそれしか食べるものがなくて、毎食お芋やかぼちゃが続いたら、そりゃトラウマにもなるだろう。
「ええと、柊木さんも、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
恭しく受け取ると、柊木さんはじっと小鉢を見下ろす。死者の食事の作法は、無理に付き合わせた僕らとのアフタヌーンで体得しているはずだから、今更、味わい方がわからないわけではないだろう。ところが柊木さんは、食事を始めるそぶりもなく、ただじっと、手元の小鉢を見下ろしている。
「あの、ひょっとして何か、嫌いなものが?」
すると柊木さんは、はっと顔を上げ、それから慌ててかぶりを振る。
「い、いえ、そうではなくて……誰かの手料理なんて、何十年ぶりかなって」
そして子供のように無邪気に微笑む柊木さんに、僕は胸の奥がぎゅっとなる。東京に出て二十年、その間、柊木さんは一度も地元に戻らなかった。〝家族〟との食卓も、その間、一度も囲むことはなかったのだろう。
なおもテーブルの真ん中では、鍋がくつくつと唄っている。
「本当は、家族が欲しかった……違いますか」
柊木さんは面食らったように僕を見ると、無言のまま、悲しげに俯いた。
「それは……なぜ」
「ええ。柊木さんはずっと、この部屋から公園で遊ぶ子供たちを眺めていましたね。最初は、単に子供が好きなのかなと思っていたんです。でも……さっき、僕らのやりとりを見つめる柊木さんを見て、多分……違うなって」
「違う……?」
「柊木さんが見つめていたのは、子供じゃない。公園で遊ぶ親子が醸し出す、温かな雰囲気……だったんじゃないですか」
「……」
柊木さんは答えなかった。ただ黙って、手元の小鉢を撫でさすりっている。その目は、しかし、静かな表情とは裏腹に忙しくテーブルを泳いでいた。まるで、言葉の端緒を探すように。
やがて……何かを見つけたのだろう、柊木さんはのろりと顔を上げた。
「就職氷河期、という言葉を聞いたことがありますか」
「就職氷河期……ですか。一応……たしか、バブル崩壊で急に景気が悪くなって、あちこちの会社が倒産したり、リストラ……でしたっけ、たくさんの人が会社をクビにされた、そういう時代ですよね」
「ええ。それに伴って、新卒者の採用枠も大幅に絞られました。中小だけではない、日本を代表する大企業さえ……僕は、そんな時代に社会へ出て……それから二十年、無用の長物として社会にあしらわれてきました。自分で自分を養うので手一杯で、結婚どころか、恋人さえ夢物語でした。まして、家族なんて……」
「……そんな、」
だから柊木さんは、ずっと独りだったのか。いや、仮に一因に過ぎないにせよ、あまりにも大きな一因だったはずだ。だとすれば……惨めだっただろう。悔しかっただろう。自分一人の力ではどうしようもない、例えば時代だの情勢だの、戦争だの災害だの、そんなもののために人生を狂わされる。手に入れるはずだった幸福を奪われる。……とても惨めで、悔しかったはずだ。
兄さんは隣で黙々と鍋の灰汁を取っている。普段はこの辺りで茶化してくるのだけど、あえて黙っているのは、話を続けろ、ということなのだろう。
「でもあなたは、時代を憎んだわけではないのよね」
そう言葉を挟んだのは、桃子さんだ。
「さもなければ、あの場であの下品な男たちを殴りつけていたでしょう。自分を死に追い詰めた何かとしてだけじゃなく、自分を不幸に至らしめた理不尽の象徴としても……私なら、そうしているわ」
そして、桃子さんはちょこんと小鉢を啜る。前回、彼女は自分を殺した者たちへの断罪などどうでもいいと言った。でも本当は、やっぱりぶん殴るぐらいのことはやりたかったのかもしれない。
「ええ。僕は、別に誰かを……何かを恨んでいたわけじゃない。ただ……普通に生きたかった……それだけなんです。ただ、それだけ……それだけだった」
しみじみとこぼす柊木さんの目は、いつしか涙に濡れ始めていた。
「普通に恋をして、普通に誰かと結ばれて、そうやって、アニメやドラマの家族みたいな、いわゆる普通の家庭を設けて……そう、それだけで良かったんだ、僕は」
激しい慟哭が、堰を切ったように柊木さんから溢れる。
あるいは柊木さんは、こんなふうに、ずっと独りで泣いていたのかもしれない。手にすることのできなかった幸せを想って。
普通で良かった。そう、柊木さんは言った。でも、その普通を手に入れることが困難な時代が、ほんの二、三十年前に確かに存在したのだ。もし、そんな時代が最初から存在せずに、柊木さんも普通に就職できていたのなら――普通に結婚し、普通に家庭を設けられるだけのお金を稼げていたのなら。少なくとも柊木さんは、こんな惨めな最期を迎えることもなかったのだ。狭いワンルームで、誰に看取られることもなく。その嘆きが、霊障としてアパート中に響いていたのだとしたら――誰にも、その悲しみを理解してもらえないまま。でも……
「だったら、僕が柊木さんの家族になります」
そう、今は違う。
その声を、ただの霊障ではなく慟哭として受け止める人間がいる。ここに。
「瑞月くんが……?」
涙目のまま、柊木さんはのろりと顔を上げる。ややあって「僕にその趣味はないのですが……」と、困惑がちに言った。
「ちちち、違います! そういう意味じゃありません! ……そうではなくて、柊木さんは僕に、人を恨まない強さを教えてくださいました。僕にとっては、偉大な人生の師であり、尊敬すべき大事なお兄さんです」
「お兄さん……」
「瑞月」
それまで黙々と灰汁を取り、鍋の肉を食んでいた兄さんがうんざり顔で振り返る。
「何を話してるのか知らねぇが、そう何でもかんでも背負い込むな。こいつの悲しみは、こいつのものだ」
「わかってるよ。それでも僕は、もう誰も、独りにしたくないんだ」
そんな僕にも、かつて独りの時期があった。
高校一年の秋、僕の目に突然死者の姿が映るようになった。それからというもの、視えないはずのものが視え、聴こえないはずの声が聴こえてしまう僕は周囲に怖がられ、避けられるようになった。クラスメイトには無視され、虐められても誰一人助けてはくれず、結局、逃げるように学校を中退。家計の助けになればと始めたバイトも、やはり同じ理由で長続きしなかった。
この世界のどこにも、僕の居場所はない、そう思った。
そんな僕に、兄さんだけが寄り添ってくれた。勤めていた霞が関の官庁を辞め、今の大家業を始めたのは、兄さん曰く「頭のおかしいクソ議員どもを相手するのが嫌になった」ということらしいけども、本当は、僕に居場所を用意するためだったのだろう。兄さんは素直じゃないから絶対に口にはしないけど、何となく、わかる。
「お兄さん、か」
ぽつり呟くと、柊木さんはふっと目尻を緩めた。
「本当は、お父さんと呼ばれてみたかったんだけど……さすがにそれは、年齢的に難しいかな」
次の瞬間――その笑みは、線香の煙のようにふわりと揺らぎ、そして消えた。
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