下北沢のホーンテッドアパート 第七話
「いや、悪かったな二人とも。こんなクソみたいな連中の酒に付き合わせちまって」
先程まで飲み明かしていた創作料理屋の入るビルの前で、ゴミ袋の山をベッドにすやすやと眠る男二人を見下ろしながら、兄さんはひょいと肩を竦める。
「いいのいいのー。別に誰と飲もうが酒の味は変わらないし、他人のお金で高い酒が呑めるんなら、別に豚だろうとカエルだろうと付き合っちゃうよぉあたしたち」
気さくな声で答えたのは、さっきまで目の前の生ゴミ達と飲んでいた鯨飲コンビだ。それぞれワイングラスを十杯以上、加えてカクテルだの焼酎だのビールだのを二十杯以上は空けている。通常なら今頃は、目の前の男たちと一緒にゴミ袋の山に頭を突っ込んでもおかしくない酒量なのだけど、目が若干とろんとふやけているほかは素面とまるで見分けがつかない。鉄の肝臓の異名は、どうやら伊達ではなかったようだ。
「で、結局何だったわけ? てっきりあたしらは、浮気現場に彼女を乗り込まれるせる役、のつもりでこいつらに呑ませていたわけだけど?」
「浮気……」
どうやら兄さんは、そういう名目で彼女たちに協力を仰いでいたらしい。
「それがさぁ。途中でそいつ、気が変わっちまったみたいで……ははっ、悪いな」
そう。柊木さんは彼らを殴ることができなかった。
兄さんに乗せられた部分もあっただろう。それでも、柊木さんの決意そのものは嘘には聞こえなかった。彼らをぶん殴ることで、現世の遺恨を水に流す――その想いだけは確かに、本物に見えたのだ。
その柊木さんは、今は僕の後ろですっかり小さくなっている。詫びるような表情が、見ていてとても心苦しい。
「あ、そう。んじゃ今度はあたしらと飲む? もちろん弟ちゃんと一緒に!」
「えっ」
僕は慌てて身構える。ひょっとして、次は僕と兄さんが潰される番なのか?
「ていうかさ、弟ちゃん超可愛くない? てっきり陽介の廉価版みたいなクッッソ生意気なイキリが来ると思ったんだけど?」
「だよね。この人間性ゼロの傍若無人クズ野郎の弟にどうしてこんな天使が産まれるのってぐらい可愛い。……ハッ! まさかお母さん、浮気、」
「してねぇ! 俺は母方の爺ちゃん似! 瑞月は父方の婆ちゃんに似たんだよ! で、誰が変態で無頼漢で女泣かせのイケメンヒモだって?」
「言ってねぇーし! あっ、でも弟ちゃんはぁヒモっていうかペットとして飼いたいかもー。三食おいしいごはん作って、夜はぬいぐるみみたいに抱っこして寝るの!」
「え……えぇ……」
ふと視線を感じて振り返ると、なぜか桃子さんが憐憫とも軽蔑ともつかない目で僕を冷ややかに睨みつけていた。……いや、割と本気で怖いんですけど。
「とりあえず、今夜は解散だ解散。こいつをお前らの酒に付き合わせたら五分と持たずにダウンしちまう」
「えー、久しぶりに会ったんだからさぁ、近況とか聞かせてよぉ。あたしも将来はアパートとか買って楽に暮らしたいのぉ」
「私もー。っていうか、陽介あんた顔だけは良いんだからさ、そーゆーの動画でレクチャーしたらそこそこバズるんじゃない?」
「ははっ、生憎とうちのスキームは門外不出なんだよ。じゃあな」
言い残すと、兄さんは僕の肩に腕を回し、早々に二人の前から引き剥がす。とりあえず潰されずに済んだことにほっとしながら、彼女たちのノリと勢いで一時は忘れかけていた問題が、ふたたび頭の中に浮き上がるのを僕は感じていた。
それからしばらく夜の町を並んで歩いた後で、ふと、兄さんは足を止めた。
「で、何で殴らなかったんだよ、柊木」
その言葉に、僕の隣を歩く柊木さんはいよいよ泣き出しそうな顔をする。今の言葉で、さらに自分を責めてしまったのだろう。とはいえ――
別に責めるつもりはないのだけど、僕も、柊木さんの心変わりの理由が知りたかった。なぜ、振り上げた拳を収めたのか。なぜ、自分を殺した人間たちを許したのか。許したわけでないのなら、何が、柊木さんの怒りを鎮めたのか……
でも、こんな圧迫面接じみた問い方で、今の柊木さんがすんなり答えてくれるとは、僕には到底思えない。
「ちょ、ちょっと待ってよ兄さん。あれは……あれは兄さんも悪かったんだよ? 柊木さんの要望も聞きもしないで、一人で勝手にあれこれ決めちゃって!」
すると兄さんは、黙れと言いたげに僕を睨みつける。
「そういう話はしてねぇんだよ。今回の件で、とりあえずテメェがやりたかったのは復讐じゃない、ってことがわかった。そいつを踏まえた上で、今一度テメェが現世に居残る理由を考えろと言いたいんだよ、俺は」
要するに、あれはショック療法だったと言っているのだろう。でも、どちらにせよ僕にはひどく冷酷な言葉に聞こえる。兄さんの言葉は、この世界から柊木さんを追い立てるも同義だからだ。でも……
僕は、そんな言葉を許したくない。
世界から迷惑だと押しのけられ排除されるのは、とても、とても寂しいことだから。
「どうして待てないんだよ」
「……は?」
「柊木さんは考えてる。柊木さんなりに一生懸命考えているんだ。なのに、無暗にせっつくのはおかしいよ。大体……死んでるから何なんだよ。死んでたって、生きてたって、大して変わらないじゃないか」
「変わらない? お前、まだそんなこと、」
「変わらないんだよ! 死んでも人は苦しむし、悩むし、考える! 柊木さんも、苦しみながら答えを探しているんだ! それをせっついて急がせて……兄さんは、さっきの連中とおんなじことをやってるんだよ!」
そうだ。そして、それが僕は無性に悔しい。僕の兄さんが、あんな連中と同じことを口にしているのが。
「そう、同じなんだよ」
「……は?」
「そもそも、物事には何でもケツってモンがあるからな。いや違う、ケツは設けなくちゃなんねぇ。大体お前、これから死ぬまでそいつの悩みとやらに付き合うつもりか?」
「……そ、それは、いくら何でも、極論、」
「だが、ありえない話じゃねぇ。あいつらはな、約束とあらば七十年でも百年でも、ともすりゃ千年でも誰かを待ち続けられるんだ。そもそも時間の感覚からして俺たちと違う。そういう奴らには、俺たちなりのケツをしっかり示さなくちゃならねぇんだ。違うか」
「……それは」
反論の言葉もなかった。確かに、その意味では僕らと彼女たちとは違う。そして……彼らが視える僕よりも、視えない兄さんの方がその真理をより深く理解しているのだ。
敵わない。そして、やっぱり兄さんはいつだって正しい。
「そう、だね……ごめん、兄さん」
そんな僕の頭を、大きな手のひらがガシガシと乱暴に撫でる。
「わかりゃいいんだ、わかりゃあな」
「仲が、よろしいんですね」
僕の隣で、そう柊木さんが呟く。多少硬さは残っているものの、さっきまでの委縮しきった表情に比べると、ずいぶんと和らいで見えた。
「す、すみません……僕たちだけで、勝手に話を……」
「いいんです。お二人のやりとりは、見ていて、とても幸せな気分になれるので」
「幸せ……」
「ええ。家族は……やはり仲が良い方がいい」
家族――そう口にする柊木さんの声は、ひどく寂しげで、でも、とても優しかった。そういえば、公園を眺める彼の瞳も……
ひょっとして。彼は。
「……鍋だ」
「は? 鍋?」
怪訝な顔で問い返す兄さんに、「うん」と僕は頷く。
「団欒と言ったら、鍋だよね、兄さん」
「あ、ああ……って、団欒?」
「うん」
そう、家族といえば鍋だ。だから……鍋を、とにかく鍋をやろう。
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