下北沢のホーンテッドアパート 第三話

 その夜も、桃子とうこさんは二階のバルコニーにいた。

 青く清澄な月明かりの中、冷たい花崗岩製のバルコニーでぽつんと月を見上げる彼女は、実際そうなのだからという話は横に置いて、この世ならざる何かに見えた。

 その足元には、よく見ると影がない。幽霊だから当然と言えば当然なのだけど、こうした実例を目の当たりにすると、やはり、彼女は僕とは異質な存在なのだと思い知らされる。

 そのことを、寂しい、と感じる僕がいる。

「今夜は、月が綺麗ですね」

 すると桃子さんは、不意を突かれた猫の顔で僕を振り返った。てっきり、僕の気配に気付いていたものとばかり思っていたのだけど。

「あっ……すみません、別に、脅かすつもりはなかったんです」

「い、いえ……」

 なぜか困ったように目を伏せると、桃子さんは階下の庭に目を落とす。

「お気持ちは、嬉しいわ。でも……私は死人で、あなたは今も生きているのだし、その、」

「え?」

 急に何の話だ? それはそれとして、なぜ桃子さんは顔を赤らめているのだろう。まさか風邪――いや冷静になれ瑞月。そもそも幽霊が風邪を引くなんてありえない。

 やがて桃子さんは顔を上げると、今度は怪訝そうに問うてきた。

「あなた、漱石はお読みになって?」

「えっ? そ、漱石って……夏目漱石ですか? 吾輩は猫の?」

「……いいわ、忘れて」

 ぷいとそっぽを向く桃子さんは、なぜかひどい不機嫌顔で、僕は申し訳ない気持ちになる。何か……桃子さんの気に障るような言葉を口にしてしまったらしい。正直、心当たりはないのだけど……

「それで、どうなさるの」

「えっ? ええと……バスク風チーズケーキでここはどうか」

「何の話よ。柊木さんのことよ」

「あっ……その話でしたか」

 とはいえ目下の重要案件と言えば、やっぱり何を置いても柊木さんの件だ。

 あれから半日ほどアパートに留まり、さっさと済ませろとせっつく兄さんを宥めながら話を続けてみたものの、結局、これという願望や思い残しを聞き出すことはできなかった。

 そもそも彼自身、なぜ自分が成仏できないのか、魂が現世に縛られているのか、その理由にまるで思い当たりがないらしい。もちろん、わざと伏せているのかと疑いもした。けど――少なくとも、僕の目には到底演技には見えなかった。

「すみません。僕自身こんなケースは初めてで、その……対処の仕様がない、と言いますか……」

 僕の除霊スタイルは、まず死者の願いや思い残しを聞き出すところから始まる。その上で、一緒に解決の方法を探してゆくのだけど、逆に言えば、この願いがなければ指針そのものが定まらない。……まぁ、中にはわざと嘘の願いを突きつけて、僕らを翻弄する幽霊もいたけど、全体としてはごく少数派、というか、ぶっちゃけ桃子さん一人のレアケースだ。その桃子さんのケースでも、最終的には本当の願いを聞き出すことはできたのだし――それが実現不可能な無理ゲーだったことは置いておいて――今回も、丁寧に向き合っていけば何とかなるだろう。

 ただ、そうしたスタイルをきっと兄さんは好まない。

 時は金なりを信条とする兄さんは、そうした悠長な戦法は取らないだろう。たとえ下手な鉄砲でも、それらしい方法はガンガン取っていくはずだ。桃子さんの時も、そうやって五津氏というマスターピースを引き当てることができた。

 事実、すでに兄さんは何かしらの仕込みに入っているようで、今夜もそのために屋敷を留守にしている。こんな、何一つはっきりとしない段階で何を……と思うのだけど、兄さんに視えないものが僕に視えるように、僕に視えないものが兄さんには視えているのだろう。桃子さんの時もそうだった。僕が思いつきもしない切り口で、桃子さんの仕掛けた無理難題を、本当の願いを暴いてみせた。

「……しばらくは兄さんの次の手を待ちましょう。もちろん、僕も柊木さんと話をします。でも……打開策を編み出してくれるのは、結局、いつだって兄さんなんですよ」

「お兄様が?」

「はい」

 そう。いつだって兄さんの答えは正しかった。

 その正しさに、僕はずっと助けられてきた。

「信頼していらっしゃるのね、お兄様のこと――でも」

 桃子さんの目が、ふと斬りつけるような鋭さを帯びる。魂を見透かすような目に身構えたその時、桃子さんはぽつりと言った。

「それでも、あなたはあなたの正しさを求めるべきではなくて?」

 そして桃子さんはつかつかとバルコニーを出て行く。その背中を、僕はどうしても呼び止めることができなかった。今の彼女は、きっと立ち止まらないし振り返りもしない、そう、なぜか僕は確信していた。

「……正しさなんて」

 そんなもの、求められるはずがない。

 大体、死人の視える人間が真っ当なはずがない。真っ当ではない人間が普通に頭を働かせたところで、真っ当な答えなど出せるはずもない。前提の狂った問いが、永遠に正しい答えを手にできないように。

 そう、間違っているんだ、間違っていたんだ、僕は……


 ――悪かった、瑞月。

 ――でも俺は、こうするしか、お前を。

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